第11話『迷子』★
静かな昼下がり。
街の図書館には、ページをめくる音と窓辺から差し込む陽光だけが、そっと流れていた。
カガリは、書棚の前でつぶやくように言葉を漏らしていた。
「……えーっと、えーっと……あ、あれだ」
高い段に目的の一冊を見つけ、背伸びして手を伸ばす。だが、指先はほんのわずかに届かない。
そのとき――
「“恋の始め方 指南書”……この本で間違いないか?」
不意に背後から伸びた手が、その本をすっと取った。
差し出したのは、赤髪の青年だった。
「うん。ありがとう、――リュカ」
そう応じたカガリに、彼――リュカは「ああ」と短く返す。
――リュカ・ヴァレト。
かつて《薔薇の騎士》と恐れられ、迷いの森のダンジョンのボスとされていた存在。
驚いたことに、その正体は、約二百年前に王国騎士団に名を連ねていた、騎士だった。
彼が語る記憶は断片的で曖昧だったが、その内容は歴史書と一致していた。
彼自身も、自分がなぜ森に囚われ、なぜ二百年という時間が過ぎたのか、何一つわかっていなかった。
その混乱と戸惑いの表情は、作り物ではなかった。
まるで、時に取り残された“迷子”のようだった。
「行く当てがないなら……とりあえず、私の屋敷に来てみる?」
あの森から帰還した直後。
カガリは、呆然と立ち尽くしていた彼に、そっと手を差し伸べた。
自分自身が、放り出された日。
ひとりきりで、母の残した屋敷にたどり着いた記憶と、彼の姿が重なって見えたのだ。
ギルド協会は、彼の素性とダンジョン異常の真相を精査していた。
その調査が進むまでの間、リュカはカガリの保護下に置かれることになった。
だが、現代の生活は、リュカにとってすべてが異国だった。
「この……小さな紙切れが通貨? なぜ金貨ではない?」
「料理を選ぶのに……絵の板を見る? 厨房に直接注文すれば早いだろうに……」
服の形、建物の構造、言葉の抑揚。
歩くたびに何かに戸惑い、彼は何度も立ち止まった。
そのたびに、カガリがそっと隣に立ち、一つずつ、教えた。
「金貨も使われてるよ。紙幣の方が価値が高くて、高額な金銭のやり取りをするときに使われるんだ。魔導印が入ってるから、見た目は同じでも偽物はすぐにバレちゃうんだよ」
「これは“メニュー”。ここに載ってる料理名と値段を見て、好きなのを選ぶの。見た目がわかると、どんな料理か想像しやすいよね」
彼女の声は、迷子の彼にとって道しるべだった。
まるで、言葉のひとつひとつが、暗い森の中の灯火のように感じられた。
迷いの森からの帰還から数日が経ち、カガリの身体もの調子もようやく回復してきたころ。
リュカも最低限の生活に慣れ、今では一緒に簡単なギルドの仕事も手伝っていた。
彼の剣の腕は申し分なく、生活力も高かった。
その所作には、確かに、かつての騎士としての気品があった。
今日の依頼は、図書館で指定された本を集めるというものだった。
「今の本で最後だね。リストのもの全部集まったから、依頼主に届けに行こう」
カガリが腕に抱えた本を持ち上げようとした瞬間、リュカが無言で手を伸ばす。
「俺が持つ」
慣れた手つきで、彼は本の山を抱えた。
図書館の階段を下りる途中、リュカがふと手にした本を見つめながら呟く。
「この時代では、恋の始め方を本で学ぶのか?」
その問いに、カガリは思わず吹き出してしまう。
「人による……かな?」
リュカは黙ったまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その小さな微笑みにカガリの胸はふっと温かくなった。
彼は大げさな感情表現をしない。
冷たいわけではない。けれど、どこか“遠い”雰囲気があった。
それでも、こうやってふとした瞬間に見せる表情が、彼の人間らしさを感じさせて――とても、うれしかった。
二人は受付カウンターへ向かい、貸出しの手続きをする。
「代行ですか? でしたら、借主の欄にご依頼者の名前を。代行者の欄にはご自身の名前をお願いします。本日の日付欄も記入してください」
受付係から渡された記入票と万年筆を、リュカはじっと見つめて固まった。
「どうしたの?」
カガリが覗き込むと、彼はペンの使い方がわからないようだった。
二百年前、彼の時代には羽ペンとインク瓶を使うのが一般的だったのだろう。
「それはね、万年筆っていって、インクが中に入ってるの。キャップを外して、そのまま書けるよ」
言われた通りにリュカがキャップを外し、慎重にペンを紙にあてる。
するすると黒いインクが走った瞬間、彼はわずかに驚いたような顔をした。
文字は問題なかった。
筆跡はくせがあるが整っており、彼が教養ある人物であることがすぐに分かる。
――リュカ・ヴァレト。
自分で書いたその名前を、リュカは数秒だけ見つめていた。
(きっと……本当に、実感がないんだろうな)
今、この時代に自分が存在しているということ。
二百年の空白を越えて、それでも自分の名前がこの紙に記されているということ。
その事実が、まだ彼の中で馴染んでいないのかもしれなかった。
「記入ありがとうございます。貸出期間は30日です」
「わかりました。ありがとうございます」
深く頷くリュカ。その礼儀正しさは、やはり“騎士”としての気質を感じさせた。
図書館を出て歩きながら、リュカがぽつりと口を開く。
「いつも、悪いな」
「え? なにが?」
「……教えてもらってばかりで」
先ほどの万年筆の一件を気にしているようだった。
「全然! むしろ、私の方こそ助けられてるよ?」
それは、偽りない本音だった。
初めてリュカを屋敷に迎えたとき――
彼は、長く手入れされていなかった建物を見渡して、何も聞かずに動き出した。
散らかっていた荷物の整理。
積み上がった薪の整備。
掃除、庭の草抜き、破れた網戸の補修、さらには買い出しの荷運びまで。
彼はただ黙って、必要なことをひとつずつ整えてくれた。
重くて何度も往復していた買い出しも、彼が一緒に運んでくれるようになってからは、ぐっと楽になった。
薪割りも上手で、あっという間に冬支度が整った。
料理もこなせた。遠征経験からか、手際よく滋味深い一皿を作ってくれる。
味付けも優しく、どこか懐かしい味がした。
リュカは、力持ちで、器用で、よく気がつく。
それでいて、押しつけがましくもなく、静かに必要なことをしてくれる。
騎士としての礼節か、それとも彼自身の優しさか。
この数日間で、カガリは確信していた。――リュカは、根っからの優しい人なのだと。
「……力になれているのなら、よかった。必要なことがあれば、何でも言ってほしい」
その声には、彼の真面目さと――確かなやさしさが滲んでいた。
カガリは思わず笑ってうなずいた。
「うん。じゃあ、またお願いするね。……これからも」
リュカは一拍おいて、小さく「任せてくれ」とだけ返した。
その横顔に、ほんのわずかに灯るような笑みが浮かんでいた。