第112話『孤独の底』
光の奔流が四方から押し寄せ、身体が浮き上がる。
まるで竜巻の中心に放り込まれたようだった。
凄まじい風が吹き荒れ、髪が千切れそうに舞う。
体の輪郭が曖昧になっていくような感覚。引き裂かれそうで、恐怖が喉を締めつけた。
思わず体を丸め、両腕で自分を抱きしめる。
ただ、通り過ぎるのを待つしかなかった。
――そのとき、前方に微かな裂け目が見えた。
出口だ、と直感した。
次の瞬間、光が弾ける。
「きゃあっ!」
カガリの身体は転移門から放り出され、勢いのまま地面に転がった。
冷たい土の感触。
薄暗い空間に、かすかな青白い光がゆらめいている。
ゆっくりと顔を上げる。
目に映ったのは――広大な洞窟のような場所だった。
天井も見えないほど広く、無数の鉱物が植物のように壁面に生えている。
その表面がほのかに光り、青白い輝きで辺りを照らしていた。
「龍、晶……?」
幻想的な光景。けれど、どこか禍々しい。
――ここが、龍晶の深窟。
(転移が……成功した)
ほっと肩を撫で下ろす。
呼吸を整えてから、ゆっくりと立ち上がって辺りを見回した。
空気は重く、肌にまとわりつくように淀んでいる。
ひとつ息を吸うだけで、胸の奥に鈍い圧迫感が走った。
(……リュカと合流するまで、身を隠せる場所を探さないと)
カガリは息をひそめ、慎重に足を運びながら壁沿いに歩き出した。
靴底が岩肌を擦るたび、かすかな音が洞窟に反響する。
奥へ進むほど、光は薄れ、足もとだけが青白くぼやけて見えた。
どこかに――人ひとり隠れられるような窪みでもあれば。
けれど、進めども壁は滑らかで、隙間ひとつない。
自分の息づかいと、心臓の鼓動だけが耳に残る。
(暗い……)
手探りで岩肌をなぞる。
ひんやりとした感触の向こうで、どこか遠く、何かが滴る音がした。
足を止めた瞬間、空気が微かに揺れる。
風のはずはない。
背中に、何かの気配が触れた。
「――!?」
振り向いた視線の先、闇の奥で何かが動いた。
巨大な影がうねり出る。
「……っ!」
それは、蛇に似ていた。
いや、蛇というより、岩肌そのものが命を持って蠢くような、異形の魔物だった。
鉱石のような鱗が淡く光り、空気がビリビリと震えている。
カガリは息を呑む間もなく、駆け出した。
だが、すぐ背後で空気が裂ける。
振り向く間もなく、分厚い体が腰に絡みつき、締め上げた。
「――ぁ、ぐ……っ!」
胸が圧迫され、息が詰まる。
骨が悲鳴を上げた。
セラフィの絶対律がなければ、今ごろ砕けていたかもしれない。
(い……痛い……っ……痛い……)
藻掻いても、びくともしない。
何度も腕を叩き、拳で叩いても、分厚い鱗に吸い込まれるだけ。
「――っ、あぁっ……!」
締めつけがさらに強くなり、体は宙に持ち上がった。
腰に巻きついた蛇の胴が、獲物を絞め殺すように螺旋を描いていく。
まるで体の芯を捻じられるような痛みに、意識が遠のきそうになる。
――痛い。
――怖い。
――帰りたい。
――……でも、どこへ。
今、立ち向かわなければ、帰る場所すら無くなってしまう。
視界の端で、腰のポーチが揺れる。
中には、狩猟祭のために調合しておいた戦闘補助用の薬――。
体勢を崩されながらも、必死に手を伸ばした。
「……っ、……!」
指先が、かすかに容器の縁を掠める。
次の瞬間、魔物が体をひねり――締め上げたまま、獲物を地面へ叩きつけた。
「――ぅあっ!」
衝撃が走る。
体が岩に打ちつけられ、鈍い音とともに何かが砕けた。
ぱきん――と小さな破裂音。
手の中で割れた容器から薬液がこぼれ、青白い煙が立ちのぼる。
刺激臭が洞窟に広がり、魔物の鱗がびくりと波打った。
ほんの一瞬、締めつける力が緩む。
その隙を逃さず、カガリは体をひねった。
腕を抜き、腹を滑らせるようにして地面へ転がり落ちる。
「――っ、はぁ、はぁ……!」
全身が痛い。息を吸うたび、胸が焼けるようだ。
それでも、止まっていられない。
岩壁を支えにして立ち上がる。
目の前で魔物がのたうち、頭を持ち上げた。鉱石のような眼がギラリと光る。
カガリは反射的に走り出した。
荒い息を吐きながら、闇の中を必死に駆け抜ける。
背後で、魔物の咆哮が洞窟を震わせた。
その影が迫る。――息を呑む。
(追いつかれる……!)
次の瞬間、地面が鳴った。
足もとがぐらりと傾き、体が浮く。
土と岩が裂け、光のない穴が口を開けた。
「――あっ!」
掴むものもなく、カガリの身体は闇の中へと滑り落ちていった。
◇ ◇ ◇
転がる。何度も、何度も。
腕も脚も思うように動かず、岩壁にぶつかるたび痛みが散る。
やがて全身に重い衝撃が走り、やっと体が地の底で止まった。
「……いっ、た……」
――どれだけ落ちたのだろう。
息を吸い込もうとしてむせる。土と鉄のような匂いが鼻をつく。
呼吸を整えようとしたが、体のあちこちがずきずきと痛んだ。
指を動かす。
腕の下にはざらついたものがあった。
手探りでつかんだそれを持ち上げた瞬間、
ぱきり、と、かすかな音がした。
目を凝らす。
淡い光が差す中、指の間で砕けたのは、白く細い――骨だった。
「……っ!?」
あたりを見渡すと、そこには、無数の白があった。
足元から壁際まで、獣と人の形を混ぜた骨の山。
ようやく、自分が何の上に落ちたのかを理解した。
「……っ、いや……!」
反射的に立ち上がり、崩れ落ちる骨を踏み越えて、壁へ駆け寄った。
ざらついた岩肌に指をかける。
冷たく、湿っている。
必死に登ろうとしたが、自分の身長分も登れないうちに手が滑る。
支えを失った体が再び下へと落ちた。
「――っ!」
骨の山に背中から倒れ込み、鈍い痛みが全身に走る。
音を立てて、骨の山が崩れた。
「……はあ……はあ……」
冷たい感触が背中を伝う。
仰向けのまま見上げる。
遥か頭上に、光がかすかに差し込んでいた。天井――あそこが落ちてきた場所。
あまりにも遠い。
どうあがいても届きそうにない高さだった。
胸の奥から、じわりと、何かがこみ上げてくる。
息が荒くなり、喉が痛む。
「……っ、はぁ……」
天井に埋め込まれたように光る龍晶が、淡く脈打つように光を放ち、洞窟の中を静かに照らしている。
その光が、涙に滲んで揺れた。
「う……うぅ……、……うっ……」
喉の奥から、押し殺したような嗚咽がこぼれる。
声を出すたびに胸が痛くて、息が詰まる。
小さく体を丸め、膝を胸に引き寄せる。
誰もいない闇の中で、カガリはただひとり――泣いた。




