第111話『大丈夫』
足音が、静寂を切り裂いた。
次の瞬間――薔薇色の髪が、視界に飛び込んできた。
「カガリ……!」
振り返ったカガリの目に映ったのは、リュカの姿だった。
「リュカ……?」
リュカは真っ直ぐにカガリのもとへ駆け寄ると、肩越しに息を整えながら低く問う。
「裏路地に入るのを見かけた。……どうして、王宮から出てきたんだ」
その声に、カガリは言葉を詰まらせる。
リュカはふと横を見て、ルシェリアの姿と、開かれた転移門に目を留めた。
一瞬の沈黙ののち、問いかけるように視線が戻る。
カガリは、小さく息を呑んで答えた。
「……龍晶の深窟へ行くの。ルシェリアに、送ってもらう」
リュカの瞳が大きく揺れる。
「なぜ……」
「私のスキルで、歪みを消せるかもしれないから」
「……それを、カイロスが言ったのか?」
カガリは、首を横に振る。
「陛下と約束したの。夜明けまでに、歪みをなんとかするって。
できなければ、ユエルが大変なことになる……」
「ユエルが……?」
事の流れを伝えようとした。
けれど、頭の中がうまく整理できない。
何から話せばいいのか、どこまで話せばいいのか――言葉が、喉の奥でつかえる。
「……それで、だから……私が……」
説明の途中で、声がかすれた。
大事なことなのに、焦りすぎて、うまく言葉にできない。
フェリオが一歩前に出て、補おうと口を開きかけた。
その横で、リュカは静かに息を吐く。
そして、まっすぐにカガリを見つめて――短く言った。
「……わかった。行こう」
「……え?」
カガリの瞳が見開かれる。
隣のフェリオも、驚いたように息を呑んだ。
「わかったって……なんで止めないんだよ。君なら説得できるだろ」
リュカは、かぶりを振る。
「カガリが行くと言うなら、俺は止めない。行き先がどこだとしても」
真っ直ぐな声だった。
その瞳に、迷いは一つもない。
「ついていく。それだけだ」
空気が震えるような沈黙が落ちた。
確信に満ちた言葉に、胸を強く打ちつけられる。
「リュカ……」
思わず名を呼ぶ。
けれど、それ以上の言葉が出てこなかった。
静寂の中で、ルシェリアのため息が響く。
「……はあ。馬鹿ばっかりね。頭痛いわ」
肩をすくめながら、ルシェリアは転移門の方へ歩み寄った。
「さっきも言ったけど、二人同時には送れないの。あんたはついていけないわよ」
その言葉に、リュカが一歩前へ出る。
視線を逸らさず、低く問う。
「同時でなくてもいい。順番に転送できないか」
「無理。クールタイムがある」
「どのくらいだ」
「5分だったり、1時間だったり、半日だったり。神経への負担次第。やってみなきゃわかんない」
「なるほど……」
「空間が不安定だから、転移が成立しない可能性もある。続けてやるなら2回目は特にね」
「……」
リュカは、眉をひそめて沈黙した。
それから、カガリの方へ視線を移す。
淡く金色の光が、カガリの身体からわずかに零れている。
「……セラフィの絶対律が、宿ってるんだな」
「う、うん。≪ この身体は傷つかない ≫っていう、律を……かけてもらった」
「そうか」
リュカは静かに頷いた。
ほんの一瞬、息を吸い込み――覚悟を確かめるように吐き出す。
「――カガリ。転移した後、しばらくその場で俺を待っていられるか?」
「えっ……?」
思わず戸惑いの声が零れる。
「2回目の転移で、俺も向かう」
「で、でも」
「半刻待っても転移が使えなければ、馬で向かう。時間はかかるが、俺1人なら全力で駆けれる」
「けど……」
「夜のうちに着いてみせる」
その声には、確信があった。
恐れや迷いは微塵も感じられない。
「必ず見つける。迎えに行く」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
鼓動が痛いほど響く。
「なん……どうし……」
――なんで、迷いなく言い切れるの。
――どうして、そこまでしてくれるの。
熱いものが込み上げ、言葉にならない。
リュカは答えず、ただ彼女の両肩に手を置いた。
少し腰をかがめ、目線を合わせる。
その瞳は、穏やかで、けれどどこまでも真剣だった。
「信じてるから」
短く、しかしまっすぐな言葉。
視界が、じわりと滲む。
胸の奥から、熱がゆっくりとこみ上げてくる。
――そんなふうに言われたら、もう何も言い返せなかった。
今ここにたどり着くまでの、小さな街から始まった旅の記憶が、呼走馬灯のように脳裏に流れる。
リュカはいつだって、迷う自分の隣で立ってくれた。
どんな場所へも、優しく導いてくれた。
ずっとずっと、彼の思いに守られてきた。
そして今も。最後の最後まで。
震える息を吐きながら頷く。
それを見て、リュカはそっと微笑んだ。
その笑顔が――痛いほど、優しかった。
「ありがとう……」
声に出した瞬間、喉の奥が震えた。
涙がこぼれそうになるのを、どうにか飲み込む。
そして、ゆっくりと顔を上げ、カガリはルシェリアを見つめた。
「……ルシェリア、お願い」
「……ほんとにやるの? ……私、どうなっても知らないわよ?」
わずかに震える声。
それでもカガリは、迷いなく頷いた。
ルシェリアは一度だけ視線を伏せ、ため息を落とす。
「……あぁ、もう………………あぁーっ、もうっ!」
指先が転移門の縁に触れた。
輪郭が一瞬ぐにゃりと歪み、眩しい光がほとばしる。
門の中には、真白に輝く世界が広がった。
「――覚悟を決めて」
ルシェリアの言葉に、カガリは深く頷く。
震える足で、一歩を踏み出したその瞬間――
背後から、リュカの手が腕を掴んだ。
振り返る。
そこにあったのは、息を詰めたようなリュカの顔。
薔薇色の瞳が、何かを決意するように揺れる。
「リュ……」
言いかけた唇に、ふっと温もりが触れた。
リュカの髪が頬をかすめる。
唇に残るのは、静かで優しい感触。
きっと、一瞬の出来事だった。
それなのに、世界が止まったように長く感じた。
リュカは唇を離し、そっと微笑んだ。
「 大丈夫 」
たったそれだけの言葉が、胸の奥に、溶けるように広がっていく。
恐怖も、不安も、すべてが温かさに変わっていく気がした。
「……うん」
カガリは小さく応えた。
涙が光に溶ける前に、踵を返す。
そして、まぶしい転移の光の中へ、歩み出した。
――龍晶の深窟へ。




