第110話『守りたいもの』
街の中心部では、騎士団が迎撃態勢を整えていた。
大通りの先では、盾を構えた兵たちが列を組み、指揮官の号令が張りつめた空気をさらに研ぎ澄ませていく。
石畳を打つ甲冑の音が、鼓動のように街全体を震わせていた。
リュカはその列の中、アイゼンと肩を並べて立っていた。
遠方で響く砲撃の音に耳を傾けながら、短く言葉を交わす。
「始まったか……」
「地上の敵が見えるのも、想定より早いだろうな」
アイゼンは短く頷き、腰の剣に手を置いた。
柄に埋め込まれた氷属性の魔石が、淡く脈打つように光を放つ。
リュカはその光に目をとめ、ふと口を開いた。
「スキルも魔力も持たず、己の体と剣ひとつでここまで上り詰めたと聞いた。……大したもんだな」
アイゼンが視線を向ける。
「お前のいた時代は、スキル所有者が多く在籍していたのか?」
「それなりに。……そういえば、この時代ではあまり見かけないな」
「……」
アイゼンは空を仰ぐ。
夕焼けの赤い光が鎧を照らした。
「騎士を志す者が減った。忠義よりも、己の力を別の道に使いたいという者たちが多い」
リュカは小さく笑みを浮かべる。
「俺の時代は、人と違う力を持つ者の居場所がなかった。
弾かれ者が、堂々と立てる場所を求めて門を叩いていた。……その変化はある意味、この二百年が平和だった証だろう」
「平和――か」
アイゼンはしばし黙し、そして静かに言葉を返した。
「だが、平和ぼけという言葉もある。集団としての戦う力は、確実に弱まった。
互いに力を合わせることを、忘れた時代だ」
彼の視線の先で、若い兵たちがぎこちない動きで隊列を組み直している。
「大きな脅威が再び現れたとき、どれほどの人間が、迷わず立ち上がれるだろう……そう考えると、漠然と不安になる」
「……信じるしかないだろう。見えない敵と戦っても仕方がない」
「……見えない、敵か」
リュカは静かにうなずく。
風に流れる髪を払いながら、前を見据えた。
「守りたいものがあれば、嫌でも人は立ち上がる。
皆でひとつのものを守る必要なんてない。それぞれが守りたいものを守る。
――それが集まってできる平和も、きっとひとつの形なんだ」
アイゼンの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……説教くさいな、若造のくせに」
「こう見えて、二百年あんたの先輩だからな」
リュカが肩をすくめると、アイゼンはふっと息を洩らした。
そのときだった。
――視界の端に、見慣れた髪色がちらりと映る。
「……!」
振り返る。
夕焼けに照らされた石畳みの向こう――群衆の波の先。
一瞬だけ、見覚えのあるシルエットが風に揺れた。
胸の奥が跳ねる。
まさか、こんな場所に。いや、ありえない。
彼女は王宮の中にいるはずだ。――錯覚だ。そう思い込もうとする。
だが、その背後にはもう一つ、見覚えのある色があった。
空色――フェリオだ。
息が詰まる。
視線の先で、二人は封鎖された大通りを避けるようにして、裏路地へと姿を消した。
「……カガリ……?」
小さく呟いた声に、アイゼンが振り向く。
その表情で、悟ったようだった。
「ヴァレト」
低く、短く、名前を呼ぶ。
リュカがはっとして顔を向けると、アイゼンはわずかに目を細めて言った。
「此処は今、私の持ち場だ」
そして、一拍おいて、穏やかに続けた。
「守りたいものを、守るといい」
リュカは息を呑み、しばし動けずにいた。
だが次の瞬間、剣を握りしめ、裏路地の方へと駆け出した。
◇ ◇ ◇
貴族塔の廊下。
「行こう、王宮へ」
カガリがルシェリアに声をかけると、彼女は小さく息を吐き、牢の外に出た。
指先で、廊下の空間に円を描く。
淡い光が広がり、転移のゲートが形成される。
「王宮前の広場に繋いだ。……さっさと入りなさいよ」
カガリはわずかに目を見開く。
ルシェリアはどこか気まずそうに目を逸らした。
「転移は……使わせないって、言ってたのに」
「……うるさいな、気が変わらないうちに入りなさいってば」
だが、カガリは一歩も動かなかった。
その様子に、ルシェリアが眉を寄せる。
カガリは静かにルシェリアを見つめた。
「――ルシェリア。私は、別のところに送ってほしい」
「はあ!?」
ルシェリアが素っ頓狂な声を上げる。
「あんた、ちょっと図々しいんじゃ――」
「龍晶の深窟に繋いで」
その名を聞いた瞬間、ルシェリアの目が大きく見開かれた。
「……龍晶の深窟に、繋いでほしい」
カガリはもう一度、静かに告げた。
「龍晶の深窟って……あんた、なんでそんなとこ行こうとしてんの?」
「魔物の流出を止めないと。……私なら、それができるかもしれない」
「い、今そんなとこ行ったら、死ぬわよ? 馬鹿なの?」
言葉が刺々しく響く。だが、カガリは何も言わず、ただ静かに見返すだけだった。
その沈黙が、かえってルシェリアの心を揺らした。
「ちょっと……止めなくていいの?」
ルシェリアはフェリオに助けを求めるように言う。
フェリオは悲しそうに笑った。
「止めたい……んだけどね」
その声には、苦しさと、あきらめにも似た優しさが滲んでいた。
「俺も一緒に行く。だから――ルシェリア嬢。俺とカガリちゃんを龍晶の深窟に送ってほしい」
「は……はあ!? ちょっとあんたまで何言ってんの!?」
「だめ!」
カガリがルシェリアの言葉に被せる。
「フェリオは、ルシェリアと一緒に王宮に戻って」
「悪いけど、それはできない」
「だめだってば!」
「俺も行く」
「フェリオは関係ないよ! 来る必要ない!」
「関係なくない!」
フェリオの声が、空気を震わせた。
驚いて、カガリが目を見開く。
「……関係なくなんてない。君のことなんだから」
短い沈黙が落ちる。
互いの視線が絡み合い、息が止まるほどの一瞬が過ぎた。
その静寂を、ため息混じりの声が破る。
「……悪いけど」
ルシェリアが両腕を組み、顔をしかめる。
「近場で安定してる王宮ならともかく、そんな不安定な場所に二人同時なんて、絶対無理。クールタイムが必要だから、連続転移も無理。――だから、送るとしても1人が限界」
そう言ってから、少し声を落とす。
「龍晶の深窟には、前に兄様を送ったことがある。だから座標のイメージは掴めてるけど……今の状態じゃ、空間も魔力も混ざりすぎてる。転移が成立する保証すらない」
ルシェリアの指が震える。
その震えが、状況の危険さを物語っていた。
「失敗もあり得る。変なとこに出るかもしれないし……最悪、次元の狭間から出られなくなるかもしれない」
ルシェリアの言葉が、重く響いた。
――もし、失敗したら。
もし、戻れなくなったら。
その想像が、心をざわつかせた。
息を呑み、しばらく言葉を飲み込んだまま、カガリはただ静かに目を閉じた。
ゆっくりと、拳を握りしめる。
「……それでも、送ってほしい」
その言葉に、フェリオが思わず身を乗り出す。
「それは……さすがに駄目だ! そこまでは、させられない!」
「フェリオ」
声が、静かに、フェリオの胸に響く。
カガリはまっすぐに、彼の瞳を見た。
思考を読んでくれと言わんばかりに。
その視線に、フェリオの呼吸がひとつ、止まる。
読まなくても、わかる。
――止められない。
その瞳に宿る覚悟が、すべてを語っていた。
それが、痛いほど胸に突き刺さった。
「……っ」
咄嗟に、両手でカガリの手を握る。
彼女を止めるために、言いたい言葉が沢山こみ上げてくる。
でも、どれもきっと説得できない。それが分かってしまう自分が憎い。
……どれだけ強く握りしめても、言葉は出なかった。
「……惚れた弱みも、あるのかな……」
最後に、震えるくらい強く――強く握りしめた後、
息を吐き出しながら、フェリオはゆっくりと手を離した。
覚悟を受け入れたように、カガリの目をじっと見つめる。
カガリは、瞳を揺らし、ふわりと微笑んだ。
その時。
駆けてくる足音が、静寂を切り裂いて廊下に響いた。




