第109話『姉妹』
「――誰かいるの?」
扉の向こうから、かすかな声が漏れた。
頼りさなげで、震えた声。
カガリは息を整え、静かに応える。
「私。……カガリ」
言い終わるとすぐに、内側で何かが動く音がした。
足音が扉の前まで駆け寄り、怒りを帯びた声がぶつかってくる。
「何しに来たのよ! こんなところまで!」
――ルシェリア。
敵対関係にあった彼女が、今、目の前の扉の向こうにいる。
カガリは指先をわずかに震わせながら、静かに意思を込めて告げる。
「……力を、貸してほしくて来たの」
「はあ……?」
「とにかく、まずはここを出よう。今、フェリオが鍵を取りに行ってくれてるから」
「何言ってんの、あんた」
「話はあとで。早く避難しないと――」
「避難なんてしない」
言いかけたカガリの言葉を、ルシェリアはさえぎるように吐き捨てた。
「え……?」
「聞こえなかったの? 私は、出ない」
「出ないって……今、王都は大変なことになってるの。ここにいたら危ないよ」
「うるさいな! ほっといてよ!」
蹴りが扉を鳴らす音。
鉄と木がぶつかる重い衝撃が、廊下に響いた。
「どうして……?」
「あんたに助けられたくないの!」
「じゃあ、看守を呼んでくるから」
「いいって言ってんのよ!!」
再び、扉が震える。
「どうせ転移を使いたいんでしょ? そうでしょ? 悪いけど、あんたなんかに絶対使わせないから!」
軽蔑。拒絶。
怒鳴り声の後に、乾いたすすり泣きのような音が混じった気がした。
「カガリちゃん……!」
そのとき、廊下の奥からフェリオが戻ってきた。
手には鍵の束が握りしめられている。
カガリはそれを受け取り、一つの鍵を鍵穴に差し込む。
カチャリと音がして、扉を押した。――が、びくともしない。
内側から押し返される感触が伝わった。
「俺がやる」
フェリオが代わろうとしたが、カガリは首を振る。
呼吸を一つ、気持ちを固めるようにして、両肩に力を込める。
扉を押すと、向こう側からも力が返ってきた。
鉄と木の悲鳴が重なり、押し合う二人の力が廊下に低く響いた。
「なっ、なんなのよ! あんたに手なんか貸さないって言ってるでしょ!」
「だとしても、出ないとっ……ここは危ないんだよ!」
「だからほっといてって言ってんでしょ!!」
叫び声が、涙声に変わっていた。
「あんたなんか――大っ嫌いなの! 顔も見たくないのよ!!」
扉の冷たさを通して、その震えが手のひらに伝わる。
カガリは静かに目を伏せ、息を詰めた。
「……私だって、嫌いだよ」
吐息のようにこぼれた声。
その瞬間、押さえつけていた力が一瞬だけ緩む。
カガリはその隙を逃さず、ぐっと押し込んだ。金属が悲鳴を上げ、わずかな隙間が生まれる。
「ルシェリアは意地悪だし、わがままばっかり。
会うたびに嫌な思いをさせられる。嫌なことをされたら、嫌いになるのは当たり前」
息を整え、言葉を重ねる。
「……けど、――けどね。
違う一面を知ったら、きっと……私の中で、貴方の見え方は変わっていくと思うの」
ただ真っ直ぐ、言葉を届けた。
押し返す力がぴたりと止まる。
鉄の向こうで、小さく息を呑む音がした。
「私たち、お互いのこと、もう少し知ってもいいんじゃないかな。ねえ、どう思う?」
投げかけた言葉が、静かな空気に溶ける。
その間に、ふたりの呼吸だけが重なって響く。
沈黙のあと、扉の向こうから震える声が返ってきた。
「……なによ。こんなとこまで来て、まだいい子ちゃんぶるの?」
掠れた声。
泣き出しそうな気配が滲む。
「……はあ……きっしょ……」
ほとんど声になっていなかった。
微かな鼻をすする音が聞こえる。
カガリは目を閉じ、覚悟を決める。
両腕に力を込め――再び扉を思いっきり押した。ギギ、と音を立てて鉄が動く。
わずかな抵抗のあと、重い扉が開かれた。
その瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。
中には、俯いたまま立ち尽くすルシェリアがいた。
裸足。
簡素な服。
つややかな金の髪は、まだらに黒く変色している。
「……何見てんのよ」
顔を上げた瞳が、かすかに揺れた。
「えっ、いや……」
「魔染料は、定期的に魔力を流さないと剥げるの。そんなことも知らないの」
「…………」
カガリは小さく息を吐いた。
視線が無意識に、ルシェリアの髪へと向かう。
「髪の色が……恥ずかしいの?」
その一言に、ルシェリアの肩がびくりと揺れた。
「あんたになにがわかんのよ!」
怒鳴り声が、狭い部屋に反響した。
ルシェリアは鋭くカガリを睨みつける。
「わ、分からないよ。私はそんなの気にしたことないし……ルシェリアが、どうして気にしてるのかも……分からないよ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシェリアの表情がぐしゃりと歪んだ。
涙が滲み、頬を伝う前に拳で乱暴に拭う。
「分かんないなら構わないでよっ……どうして察してくれないのよ……っ」
言葉の終わりが震え、ルシェリアは膝を抱えてその場にうずくまった。
「ルシェリア……」
「ほっといて!」
ルシェリアの肩が小さく上下する。
カガリはただ、黙って見つめた。
――なんだか、自分を見ているようだった。
持っていないものを、どうしても手に入れたくて。
焦って、傷ついて、誰かに認めてほしくて。
それでも届かなくて、苦しくて。気づいたら、自分を嫌いになっていた。
それはまるで、昔の自分そのものだった。
「……ほっとけないよ」
胸の奥から、自然に言葉がこぼれた。
カガリはゆっくりと膝をつき、彼女の隣に腰を下ろす。
静かに手を伸ばし、そっと肩に触れ――ルシェリアを抱きしめる。
一瞬、びくりと肩が跳ねた。
けれど、次の瞬間――震える指先が、カガリの服の裾をぎゅっと掴む。
震える指先にこめられた力には、
怒り、悲しみ、微かな安堵、そして――悔しさが入り混じっている気がした。
カガリは背中をあやすように撫でる。
そして、出来るだけ優しい声で話しかけた。
「……王都に、魔物が迫ってるの。ここは危ないから、王宮に避難しよう」
「……」
「ルシェリア……」
「……」
ルシェリアは何も答えない。
掴んだ服の布地が、きゅっとさらに強く引き寄せられる。
そのとき、静かに足音が近づいた。
フェリオが二人の隣にしゃがみ込む。
カガリと目を合わせると、彼は小さく微笑んだ。
ルシェリアに向けて、手のひらをかざす。
淡い水色の光が生まれ、糸のように揺れながらルシェリアの髪へ流れ込んでいく。
みるみるうちに、黒い髪が金の輝きを取り戻していった。
はっとして、ルシェリアが顔を上げる。
魔力を注ぎ終えると、フェリオは穏やかに言った。
「はい。君の好きな色、戻ったよ」
ルシェリアは光を受けて揺れる金の髪を見つめ、指先でそっと触れる。
確かめるように撫でたあと、フェリオの顔を見上げた。
「なんで……」
「べつに? できることを、しただけ」
フェリオは柔らかく笑い、彼女の目をのぞき込む。
「黒髪も綺麗だったけどね。……でも、自分の好きな色でいたいよね?」
その言葉に、ルシェリアは小さく息を呑んだ。
目を逸らし、髪を握りしめたままうつむく。
「……余計なお世話よ」
その声音に、もうとげはなかった。
カガリはフェリオに「ありがとう」と視線を送る。
フェリオは目を細め、軽くウインクを返した。
「――さて」
フェリオはゆっくりと立ち上がる。
そして、しゃがみこんだままの二人に手を差し出した。
「今回は、ちゃーんと空気を読んで黙ってたけど、そろそろフェリオさんも口を出していいよね?」
冗談めかした声に、張りつめていた空気が少しだけ緩む。
フェリオは二人を交互に見て、優しく笑いかけた。
「姉妹喧嘩は……一旦終わり、ってことでいい?」
カガリとルシェリアは、少しだけ戸惑いながらも視線を合わせる。
おずおずと、カガリが頷く。
ルシェリアは顔を逸らしたが、反論はしなかった。
二人は同時にフェリオの手を取る。
そしてゆっくりと、立ち上がった。