第108話『澄明』
顔を上げると、そこにいたのは――フェリオだった。
見開かれた空色の瞳が、夕焼けの景色の中で際立っている。
砲撃の音が地を揺らす中、まるでそこだけ時間が止まったかのように感じた。
「どうして、こんなところにいるの……!」
走ってきたのか、息が乱れている。
フェリオはカガリの肩を支え、起き上がらせる。
指先が震えているようだった。
「砲撃が始まってる。……ここにいたら危ない」
フェリオは焦ったように言い、カガリの手を引く。
けれど、カガリは動かなかった。
小さな抵抗が、フェリオの胸に違和感を滲ませる。眉がわずかに寄る。
「どうしたの……?」
フェリオは息を詰めて問いかける。
応えかけて、カガリは視線を伏せた。
行き先を言えば、止められる。
訳を話すには、時間が足りない。
言葉を探すように唇が動くが、声にならなかった。
けど、それだけで、フェリオには十分だった。
彼はそっと、カガリの頬に触れた。
指先で、わずかに震える肌の熱を感じながら、低く問う。
「……読んで、いい?」
カガリは目を見開き、息をのむ。
一瞬だけ視線を逸らし、それでも――フェリオを見つめ直して頷いた。
フェリオの瞳が淡く光を帯びる。
薄い水色の光が波のように広がり、二人を包む。
空のように果てしなく澄む瞳を見つめていると、喧騒が遠ざかる。
砲撃の振動も、逃げ惑う人の声も、すべて消えたように感じた。
やがて彼の表情が歪む。
眉が寄り、唇が震える。
「なん……」
なんで、と言いかけたようだった。
言葉にしきれなかった声が、喉の奥で途切れた。
瞳に灯っていた光が消える。
わずかな沈黙のあと、フェリオは両手でカガリの頬を包んだ。
額をそっと寄せ、目を閉じる。
深く、考えを巡らせているような息遣い。
――やがて、微かな震えとともに、長く息を吐いた。
その吐息が、カガリの髪をかすかに揺らす。
「……君にも、俺の心を……見せられたらいいのに」
それは、苦しみと優しさの狭間で零れた声だった。
「フェリオ……」
「わかってる」
――君が、どこへ向かおうとしているのか。
――なぜ、そこへ行かねばならないのか。
――それが、どんなに危険なことか。
「……………………………………………………わかってる」
――俺が何を言っても、君を止められそうにないことも。
繰り返された言葉に、カガリは目を見開く。
引き留められると思っていたのに、返ってきたのは静かな覚悟だったからだろう。
驚きと戸惑いが顔に出ている。――それも、フェリオが予想した通りの表情だった。
「君は、ほんとに……ずるいよ」
声は小さく、どこか震えていた。
フェリオの親指が、カガリの頬をそっと撫でる。
「でも、やっぱり……そういうところが、好きだよ」
困ったように笑った――その笑顔には、たまらない愛しさが滲んでいた。
フェリオはカガリの手をとる。
「行こう」
民衆の波に逆らいながら、盾となって道を切り開く。
その背を追うように、カガリも走り出す。
離さないように、ぎゅっと手を握る。
その手を、フェリオもまた――痛いほど強く握り返した。
◇ ◇ ◇
混乱の王都を駆け抜ける。
逃げ惑う人の波の間を縫い、物が散乱する街路を踏みしめながら――それでも、やみくもに走っているわけじゃない。
「――!」
騎士団の列が道を封鎖していた。
盾と槍を構え、魔物の襲撃に備えて陣形を組んでいる。
空気には張りつめた緊張が漂っている。通れない。
「こっち……!」
フェリオが低く声をかけ、カガリの手を引く。
裏路地に身を滑らせた。
狭い石畳を蹴る足音が、響いては壁に反射して消える。
人影を避け、瓦礫を飛び越え――やがて二人はひとつの建物の前にたどり着いた。
王都の拘留施設。
混乱に乗じ、避難誘導と収容者の騒ぎが入り混じっている。
中に踏み込むと、怒号と鉄の軋みが一斉に押し寄せた。
逃げ出そうとする者、騎士に抑えられる者。
鎖の擦れる音が、空気を裂く。
「どけぇっ!」
「きゃあっ!」
怒鳴り声とともに、手錠をつけた男が突進してきた。
男の手がカガリに届く前に、フェリオの拳が叩き込まれる。
鈍い衝撃音とともに、男の体が壁に弾き飛ばされた。
「大丈夫!?」
「う、うん……!」
カガリが頷くと、フェリオはわずかに息を吐き、顔を上げた。
「貴族塔は奥だ。――行こう」
フェリオは再びカガリの手を握る。
乱れた空気の中を、二人は奥へと駆け抜けた。
貴族塔――貴族階級の者だけが収監される、特別な拘留区画。
粗末な牢ではなく、整然とした造りの石壁と、無機質な扉が並ぶ。
装飾は最小限で、どの部屋も沈黙を強いられるような冷たさを帯びていた。
進むにつれて喧騒が薄れていく。
やがて冷たい廊下に響く音は、ふたりの足音だけになっていた。
ある鉄扉の前で、フェリオが立ち止まる。
「この部屋だ。……鍵を探してくる。ここで待ってて」
短く言い残し、彼は来た道を駆け戻っていった。
残されたカガリは、胸の奥に手を当て、静かに一度だけ息を整える。
扉の前に立ち、指先でその表面をなぞった。
冷たい鉄の感触。
――内側から、わずかに気配がした。
「……誰?」
扉越しに、かすかな声が響いた。
次回更新は連休明け火曜日になります。