第107話『黄昏の落ちる場所』
――カイロスは、捨てられた子だった。
生まれつき、触れるだけで物の形を変える異質な力を持っていた。
それを気味悪がられ、手に負えなくなった親は、彼を置き去りにした。
カゼノアに拾われるまで、たくさんの苦労をした。
世界は理不尽だと思った。けれど、彼は納得できる形を探した。
苦しみや喪失、すべてに必ず理由があるはずだと。それなら――ただの悲劇ではなく「結果」として受け入れられる気がした。
だから、世界のすべてを知りたかった。
何もかも、式で証明できる単純なものだと信じたかった。
カゼノアが導いた魔導の世界は、そんな彼に秩序を与えた。
その秩序の中で、彼は初めて安らげた。
――子供の頃、自ら造った装置。
スキルという世界の異質を可視化するための器。
カゼノアは興味深そうに笑った。
「お前の目は、神の思想を覗くかもしれない」と言って。
それ以来、カゼノアもスキルの研究に没頭した。
スキルの発動が空間や意識に与える微細な歪み――その波紋を追うように、ダンジョンの奥へと姿を消した。
そして、もう二度と戻らなかった。
(また……同じだ)
今度は、カガリが行こうとしている。
その胸元に、自分が作り上げた小さな装置が、光を受けて揺れている。
脳裏に過る光景。
振り返らず消えていく背中。
止められなかった後悔。
「……行かせない」
掠れた声が震える。
指先に、焦げるような熱がこもった。
「今度は、絶対に……行かせない……っ!」
胸の奥に溜め込んでいた言葉が、形となって溢れ出す。
それは、ただ一つの願いだ。
カガリはカイロスの瞳をまっすぐに受け止め、そっと息を整える。
「……静謐の神殿」
その名前に、カイロスの肩がわずかに跳ねる。
ふと、カガリは微笑んだ。
「二百年間、誰も帰ってこられないって言われてたダンジョンから、私たちは帰ってきたよね」
懐かしさの中に、確かな強さがあった。
カガリの声が、ゆっくりと続く。
「――あのとき、“奇跡”みたいなことが起きた。
だったら、もう一度……同じように起こるかもしれない」
カイロスは目を見開いた。
あの日、東の空に曙光が差し始めた時間の館で、彼女は自分に同じことを言った。
言葉が、二重になって胸の奥に突き刺さる。
「カイロス」
彼女は一歩、近づく。
「私は、たぶん――行かなきゃいけない」
それは、震えのない声だった。
夕光を受けて、舞う塵が金色に染まる。
その光の中で、カガリの笑みは儚くも眩しかった。
カイロスの胸の奥で、何かがひび割れる。
奇跡という言葉に、ほんの一瞬、心が縋りかけた。
彼女なら。……――カガリなら。
だがすぐに、失う恐怖がその希望を押し潰す。
「……やめろ」
声が低く漏れる。
「……駄目だ。行かせない」
低い声が、震えながら絞り出される。
一歩、前に出る。
カガリが一歩、下がった。
届かない距離を、どうしても埋めたくて手を伸ばす――しかし、その腕を、誰かが掴んだ。
カイロスが振り返ると、強張った顔でナミルが見つめていた。
その表情には、迷いと決意が入り混じっている。
「……カガリを行かせてやれ」
「お前、何言ってんだ――! 今どういう話をしてんのか、分かってんのか!」
「分かってるよ!」
ナミルの声が、悲鳴のように響いた。
「俺だって、行かせたくない! でも……」
震える唇を噛みしめ、息を吐く。
「信じるって、もう決めてんだ……っ! だから、カガリが行くって言うなら……俺は信じて帰りを待つんだっ!」
喉の奥に熱がこもる。息が詰まり、胸の内で何かが軋む。
涙はまだ零れない。けれど、その寸前の苦しさが、ナミルの全身を締めつけていた。
――今日、彼女と再会した時。
ナミルは、心に決めてしまったのだ。
もう、どんなことがあっても、この人を信じよう、と。
もう、自分の弱さで迷ったり、疑ったりしない、と。
だから――。
「……待ってるっ!」
顔を上げたナミルの目は、泣きそうに滲んでいた。
その顔を見た瞬間、カガリの胸にも熱いものが込み上げる。
それが零れそうになるのをどうにか押し殺し、小さく息を吐いた。
唇を引き結ぶ。
カガリは一歩、後ずさるように下がり――
次の瞬間、踵を返して駆け出した。
ナミルが捕む手の中で、カイロスが動こうとする。
だが、その腕を、ナミルは最後まで離さなかった。
カイロスの声が――痛いほど、回廊に響いた。
でも、振り返らない。
――走った。
王宮の外を目指して、石畳の回廊を一直線に駆け抜ける。
角を曲がった瞬間、眩しい光が視界を貫いた。
王宮の外回廊。
そこには、避難してきた民たちの群れが押し寄せていた。
泣き叫ぶ声、転げる荷車、破裂するような足音。
混乱の渦が、風よりも激しく渦巻いている。
「どいて……っ!」
人の肩を押し分け、逆流する波を突き進む。
その時、空気が震えた。
地の底から鳴るような低音――大砲の音だ。
耳に刺さる命令の声。誰かの叫び。
混乱が、確実に始まりつつあった。
押し返された人波の中で、カガリの身体がよろめく。
足がもつれ、地面に手をついた。
掌を打つ鈍い痛み。
遅れて、皮膚の裂ける感覚が走る。
掌に傷はないのに、じんじんと痛みが広がる。
息を吸う暇もなく、胸の奥までも痛む。
それでも立ち上がろうとした、その瞬間――
誰かの手が、カガリの手を包んだ。
男らしくも細く、白く、あたたかい手だった。
その温度が、混乱と喧騒を一瞬で遠ざける。
ざわめきが消える。音が引く――。
カガリは、ゆっくりと顔を上げた。