第10話『紅い瞳が咲いた』
黒い霧のような花粉が視界を覆い、カガリたちのいる場所からは、シャイアとガロの姿は完全に見えなくなっていた。
ディルの足元には、赤黒い血の水たまり。
応急処置としてポーションを注いだが、傷口は深く、ふさがる気配はない。
その時、ガロが、ついに黒煙の中から姿を現した。
「ガロさん!」
その姿は痛ましいものだった。
皮膚はただれ、腐食の痕跡が身体の至るところに広がっている。
カガリは震える手で、装置のレンズを覗く。
ガロの体から波紋が見える。――彼を蝕む“スキルの痕跡”。
「……解除!」
指先をそっと彼の腕に添え、祈るように言葉を紡ぐ。
光が走り、波紋が砕け散った。
腐食の進行が止まり、ガロが大きく息を吐く。
そのまま、ディルの体を担ぎ上げた。
「急ぐぞ」
「――シャイアさんは!?」
カガリの声が震えた。
目の前の光景は、あまりに現実離れしていた。
黒い花粉が地を這い、空を漂い、全てを飲み込んでいる。
その向こうに、シャイアの姿は――もう、見えなかった。
「シャイアさんは、どうなるんですか……!?」
「……」
「まさか、このまま、見捨てるなんて……!」
ガロは、カガリをじっと見ていた。
その大きな体の奥で、言葉を選んでいるように、一瞬だけ目を伏せたが、強い口調で一言を紡いだ。
「退却だ」
「そん……な……っ」
膝が震えていた。心も、体も。
立っているのが精一杯だった。
動き出せないカガリの腕を、ガロが掴んで引く。
(また、何もできないまま、誰かを失うの?)
記憶の奥――
「お前には何もできない」
「無能だ」
と繰り返された声がよみがえる。
(また、見てるだけなの?)
違う。私はあのころと違う。
――そう、胸の奥に渦巻く思いがあった。
カガリは、ガロの腕を振り払う。
装置を装着しなおし、振り返る。
膜のように広がる無数の波紋。
目を凝らすと、その奥、一際大きく、深く、異質な波紋がみえる。
――薔薇の騎士の胸にあった、深い“歪み”。
「行くな!」
ガロが叫ぶ。
けれど、彼女の足は止まらなかった。
足元の蔓に躓きそうになりながらも、花粉に咳き込みながらも、
カガリはその波紋に向かって、一直線に駆け出していく。
(私にできることで、誰かを救うんだ。この解除で、私が――!)
黒い霧の中に飛び込み、ひたすらに走る。
見えないはずの足元に、蔓の感触が絡みつくようにまとわりついてくる。
まるで意志を持った生き物のように、蠢くそれらは息をひそめて獲物を狙っていた。
「うぁ……!」
全身に、焼けるような痛みが走る。
思わず息を呑み、両手を見ると――黒い斑点が浮かび上がっていた。
手の中心あたりに、かすかに震えるような波紋が見える。
――《スキル》だ。
「……解除」
呟くと、波紋は霧散し、黒い斑点もすっと引いていく。
――だが、すぐにまた浮かぶ波紋。
伴う、黒い斑点と痛み。
(だめ……この中じゃ、解除してもキリがない……)
この空気そのものが“毒”だ。解除しても、またすぐに蝕まれる。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
装置を通した視界は歪み、波を打つような痛みが頭に響き続けている。
いつもの自分ならとっくに気絶しているはずだった。
それでも――
「……シャイアさん……どこ……!」
今にも崩れそうな膝を叱咤し、ひときわ強く揺れる“歪み”を目指す。
シャイアは、きっとその近くにいる。
そして、黒い霧の向こう、ついに異形の姿が浮かび上がった。
――薔薇の騎士。
黒鉄の鎧に包まれた異形の人影が、静かにそこに佇んでいた。
その足元に、うねるような蔓が幾重にも絡み、身体を縫いとめるように這っている。
だが、どこか不自然だった。蔓がもがくように、地面に貼りついている。
(これは……《密着》……?)
――シャイアのスキルだ。
薔薇の騎士の動きを封じるために、彼女が込めた力。
その姿は、騎士の向こう、うつ伏せに倒れ、かすかに息をしている。
彼女は震える膝で、シャイアの元へ行こうと踏み出す。
――その時。
「……!」
薔薇の騎士の腕が伸びた。
その手に握られていた剣が、カガリの進路を横に塞ぐ。
行く手を阻まれたまま、彼女は、騎士の胸に目を向ける。
そこには――脈打つ、ひときわ異質に歪んだ波紋。
視界の中で、それだけが異常な速度と濃度で震えている。
まるで、内側に何かを押し込めているような……もがくような苦しみすら感じられる歪みだった。
カガリの息が止まる。
目を離すことを許さないそれは、まるで、何かを訴えかけてきているように感じた。
「……あなたは……」
声が、震える。
薔薇の騎士の、顔のない仮面が、わずかにこちらを向いた。
「 」
呼びかけに答えるように、
歪みから、声のようなものが聞こえた気がした。
カガリはゆっくりと、音を発した歪みにむけて、手をかざす。
「……《解除》」
静かに、しかし確かに、その言葉は紡がれた。
次の瞬間――
視界が、白くはじけた。
薔薇の騎士の胸元から広がった、巨大な波紋が、砕けて消える。
風が、吹き抜けた。
地に咲いていた黒薔薇が、枯れ果てるようにしおれ、蔓が音を立てて崩れてゆく。
黒い花粉が消える。
森の空気が、一瞬で澄んでいく気がした。
そして――
薔薇の騎士の体から、甲冑がひとつ、またひとつと、次々に剥がれ落ちる。
黒鉄の仮面が、地面に落ちて音を立てた。
その中から現れたのは――青年の姿だった。
眠るように目を閉じていたその男が、ゆっくりとまぶたを開く。
薔薇のように深い紅が、その瞳に咲いた。
◇ ◇ ◇
「……ん、……あれ……?」
ゆっくりとまぶたを開くと、天井が映った。
白く塗られた板張りの天井。ほのかに香る薬草の匂い。
どこか遠くから聞こえる、鳥のさえずり――ここは、どこだっただろう。
カガリは、じんわりと重たい頭をもたげて、周囲を見渡した。
(……ここは……)
窓辺のカーテンが、柔らかな風に揺れている。
真昼の光が差し込み、部屋を静かに照らしていた。
そして――ベッドの傍らに、誰かが座っていることに気づく。
「あ……」
赤い髪。鋭さと儚さを宿した、男らしくも美しい横顔。
その人物は、カガリの目が覚めたことに気づき、僅かに目を見開いた。
――薔薇のような、深紅の瞳。
(……この目……どこかで……)
そうだ。
あの森の奥、黒鉄の仮面が砕け落ちたとき、最初に見たのがこの色だった。
「あなたは……?」
カガリが問いかけると、赤髪の男は何かを言いかけた――そのとき。
「気がつきましたか」
柔らかな声が、背後から届いた。
振り返ると、サイラスの姿があった。
その声を聞いた瞬間、ここがギルドの医務室だとようやく思い出す。
(……戻って、これたんだ)
サイラスは椅子を引き寄せると、カガリの顔をのぞき込み、優しく微笑んだ。
「あなたは、迷いの森から無事に帰還しました。……気分は、悪くないですか?」
その言葉に、記憶がゆっくりと、少しずつよみがえる。
黒薔薇の海。傷を負った仲間たち。
――倒れていたシャイア。
「みんな、無事なんですか!?」
すがるように聞いたのと同時に、聞き覚えのある声が耳に届く。
言い争うような賑やかな声がする。
(この声……!)
カガリはガバッと上体を起こし、ベッドから降りる。
慌てて止めようとするサイラスを振り切って、医務室の扉を開けた。
ロビーの吹き抜けを見下ろす廊下から、その声が聞こえてくる。
階段を駆け下り、酒場の入り口へ向かう。
そこでは、例によってディルとシャイアが口喧嘩じみた掛け合いをし、
ガロが無言でもくもくと食事をとっている姿があった。
カガリが現れると、三人の動きがピタリと止まった。
「カガリ!」
「おー! 起きたか!」
体中に包帯や絆創膏を巻いた状態だが、三人とも確かに“生きて”いた。
「体はもう、大丈夫――……どうした?」
「カガリ……?」
「……?」
カガリは何も言えずに、ただ彼らを見つめる。
――ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「は!? わっ、なんで!? なに泣いてんだよ!」
「あ~泣かした~」
「どーみても俺じゃねえだろ!? えと、まぁ、その……とにかく、ほら、座れ! なっ?」
うろたえたディルが椅子を引き、カガリを座らせる。
ガロが無言で、ハンカチを差し出してくれた。
「うえぇええん……! よかった……! 皆さん無事でぇ……!」
鼻をすすりながら、まるで子どものように泣きじゃくるカガリ。
シャイアが肩をすくめながら、笑って言う。
「あっははっ! 泣くほど会えて嬉しかったわけ? 可愛いねえ」
「あーあー、ぐちゃぐちゃ……涙と鼻水どっちだそれ」
そこへ、サイラスが慌てた様子でやってくる。
「カガリさん、大丈夫ですか? 急に走り出されたので、心配して――」
「うえぇぇぇぇん、ごめんなさぁぁい……!」
ハンカチに顔をうずめ、子犬のようにわんわん泣き続けているカガリ。
サイラスは苦笑しながら、ぽんぽんと彼女の背を優しく叩いた。
「本当に……皆さんが無事に帰ってきてくれて、よかったです。
――おかえりなさい」
その言葉が、ふとカガリの胸の奥深くに、まっすぐ落ちてきた。
――おかえり。
ただそれだけの、当たり前のようなひとことが、なぜか、とてつもなく重く感じた。
誰かが、自分の帰りを待っていてくれた。
誰かが、自分を“帰るべき場所”として受け入れてくれた。
それがどれほど、今までの人生で得られなかったことだったか――カガリは痛いほど、知っていた。
胸が熱くなった。
喉の奥が、きゅうっと締めつけられる。
張りつめていた何かが、音を立てて崩れていくような感覚。
震える声で、それでもカガリは言った。
「……た、だいま……です……」
言葉にした瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、すうっとほどけていった。
心があたたかいもので包まれていく。誰かに認められるって、こんなにも嬉しくて、こんなにも救われるものだったのか。
涙でぼやけた視界の中、カガリは一つ、深く息を吐いた。
もう少しだけ、このまま、安らいでいたい。
そう思っていた矢先――
「そういえば……あいつは?」
ぽつりと、ディルの声が落ちた。
ロビーの奥から、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
先ほど医務室にいた、あの“彼”だ。
彼は、カガリたちの前で立ち止まった。
少し戸惑ったような表情を浮かべながら、何かを言いたげに口を開きかけては、言葉に詰まり、目をそらす。
「……まあ。とりあえず、座んなよ?」
シャイアが促すと、男は一瞬迷い――そして静かに、カガリの隣の椅子に腰を下ろした。
沈黙の中、赤髪の男とカガリの視線が一瞬交差する。
その瞳は、薔薇のような深紅のままだった。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。