第106話『裁断の時』
カガリの言葉に、ユエルの顔が青ざめた。
まるで血の気が一気に引いていくように、頬が白くなる。
瞳が震え、唇から掠れた声が漏れた。
「お嬢様……何を……何を言ってるんですか……」
喉が詰まり、声が途切れた。
息を吸っても肺がうまく動かない。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
「それは、だめです。そんなの……そんなの絶対にダメだ……!」
思わず足が前に出る。
止めなくては――止めなければ、取り返しがつかない。
その瞬間、影が割り込んだ。
アストレアの側近――レヴィが、無言でユエルの肩を掴む。
鋭い痛みが走るほど強く。
ユエルは息をのむ。
掴まれた肩を振り払おうと、全身の力を込めて藻掻いた。
「離してください!!」
「駄目だ……! 君にはここにいてもらう」
レヴィの腕は鉄のように固く、びくともしない。
血が上る。
痛みすら感じないほど、頭の中が真っ白だった。
「お嬢様、お願いです! 考え直してください! 僕は平気です! 命なんて惜しくありません! だから、そんなことしないでください!」
必死の声が、崩れた空間に響き渡る。
胸の奥から絞り出すような叫びだった。
その声を遮るように、カガリがそっと言った。
「……大丈夫だよ、ユエル」
優しく包み込むような声だった。
向き合ったカガリの瞳には、静かな決意が宿っている。
「言ったでしょ。私もユエルを守るって。……大事だって」
静かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ユエルの心が軋む。
(その顔……また、そんな顔を……)
ユエルは知っている。
誰かを安心させるために、カガリが自分の痛みを隠すときの笑顔だ。
何度も見てきた。優しすぎる彼女の、いちばん悲しい笑顔。
(だめだ……だめだ、だめだ、だめだ……!)
涙があふれ、頬を伝って落ちた。
視界が滲み、カガリの姿が霞む。
それでも、レヴィの腕の中で暴れながら手を伸ばす。
「全然……っ、全然、大丈夫じゃないじゃないですかぁ……っ!」
声が掠れても、喉が裂けるように痛んでも、言葉を止められなかった。
「僕は……あなたにそんな顔を、させたくない……っ!」
その声に、カガリの表情がわずかに揺れる。
けれど、すぐに優しく目を細めた。
「……ありがとう。……でも、私にできることをしなきゃ。今度は、私がみんなを守る番だから」
その言葉とともに、カガリはアストレアの方へ向き直る。
燃えるような光を宿した瞳で、まっすぐに言い放った。
「――陛下。約束を、守ってください」
アストレアの瞳がわずかに揺れる。
一瞬、口を開きかけて何かを言おうとしたが、喉の奥で止まった。
握りしめた拳が小さく震える。
「……夜明けまでだ。それ以上は、待てない」
静かに、けれど力を込めて。
その声音には、命令ではなく――祈りのような響きがあった。
カガリは静かに頷いた。
一瞬だけ目を閉じ、息を整える。
握った拳をほどき、足を一歩、前へ踏み出す。
「……!」
その瞬間、アストレアの手が咄嗟に伸びた。
無意識のように、カガリの腕を掴んでいた。
驚いたようにカガリが目を見開く。
アストレアも、自分の行動に気づいたのか、わずかに息を呑む。
掴んだ手に力がこもる――けれど、それはほんの一瞬だった。
静かにその手を離す。
けれど、その指先に残る体温が、痛いほど離れがたかった。
カガリは静かに微笑んだ。
何も言わなかった。
そしてゆっくり背を向ける。
「やめて……っ、行かないで……! お嬢様ぁーっ!!」
ユエルの叫びが、崩れた天井に反響する。
その声を背に、カガリは走り出した。
瓦礫を踏みしめるたび、靴底に鈍い音が響く。
振り返らない。
夕陽が、赤い光が髪を照らす。
風が頬を撫で、背を押した。
◇ ◇ ◇
回廊を駆け抜ける。
壁の隙間から差す光が、走るたびに視界を揺らした。
熱い息が喉を焼く。
曲がり角を抜けた先で、聞き慣れた声が響く。
「――カガリ!」
ナミルだった。
その隣には、息を切らしたカイロスの姿。
「ナミル……カイロス……!」
ナミルは、星晶の間の前までカガリを送ったあと、“自分の手には負えない”と悟り、カイロスを探しに走ったのだ。
「騎士に連れていかれたって聞いて心配した……。怪我は……?」
「大丈夫。……大したことない」
答えるカイロスの腕には痛々しい跡が見える。
鎖の跡。――騎士団の拘束を、力ずくで破ろうとしたのだろう。
「それより、ユエルは…! 無事なのか!?」
「うん。カイロスが知らせてくれたおかげで、間に合った」
ふたりの肩がほっと緩む。
だが、カイロスの表情は、すぐに疑念へと変わった。
「陛下も一緒だっただろ。……二人は?」
「……まだ、星晶の間にいる」
短い答え。
けれど、その声音には妙な影があった。
カイロスの目が細くなる。
彼の胸の奥で、嫌な予感がひやりと膨らんだ。
「ユエルはともかく……陛下を、どうやって説得した」
問われた瞬間、カガリのまつげが揺れた。
何かを言おうとして、言葉が喉の奥で止まる。
沈黙。
その一瞬の空白が、かえって雄弁だった。
カイロスは息を詰め、ほんの僅かに声を落とす。
「……おい、カガリ。お前」
いつもより低い声に、静かで、鋭く、背筋を撫でるような緊張が漂う。
ナミルが心配そうに顔を覗き込む。
カイロスがその横を抜け、カガリの正面に立った。
「何をしようとしてた」
カガリは目を伏せる。
「何があった。何を言われた……!」
「お、おい。どうしたんだよ、カイロス……」
ナミルがカガリの前に出て、庇うように腕を広げる。
けれどカイロスは構わず、鋭い視線でカガリを射抜いた。
「お前――どこへ行く気だった」
その声音は、問うというより確かめるようだった。
まるで、すでに答えを知っているかのように。
カガリの喉がかすかに動く。
――この人には、嘘はつけない。
「……龍晶の深窟へ」
告げた瞬間、カイロスの瞳が見開かれた。
呼吸が一拍、止まる。
「……どうして。なんで、そんなことになってる……っ!」
絞り出すような声。
その奥には、焦りと恐怖が混ざっていた。
ナミルは呆然と二人を見比べる。
何が起きているのか理解できず、ただ空気の重さに飲み込まれていく。
カガリは目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……私なら、歪みを消せるかもしれない」
その言葉に、カイロスの顔がわずかに歪む。
拳が震えた。
「馬鹿言うな、何の根拠がある」
「……私のスキルで、リュカとセラフィを元に戻せた」
「お前の解除は、星籠のスキルを打ち消したんだ。歪みを消したわけじゃない」
「でも、星籠は二人が抱えていた“歪みごと”消えた。――もしかしたら、歪みそのものにも、私のスキルが通用するかもしれない」
「そんなのただの推測に過ぎないだろっ!」
カイロスは歯を食いしばる。
こみ上げる焦燥を押し殺しながら、低く唸るように言った。
「それはただの無謀ってやつだ。そんなものに命を張るな……っ」
怒鳴るでもなく、諭すでもなく――それは、かすれた懇願だった。
カガリは、その声音の奥に揺らぐものを感じた。
そして、静かに問う。
「……本当は、……カイロスは、もっと前から……気づいてたんじゃないの?」
カガリはまっすぐ彼を見た。
その瞳に怯えも迷いもなかった。
「私の“解除”が……歪みを消せるかもしれないって。
――世界を、救えるかもしれないって」
言葉が落ちた瞬間、カイロスの肩がびくりと動いた。
拳がかすかに震える。
「……っ」
喉の奥で言葉が詰まる。
顔は俯いたまま、握った手の甲に浮かぶ血管が脈打っていた。