第105話『選択』
いったい、どうしてこんなことに――。
ユエルの頬を、冷たい汗が一筋、伝った。
目の前には、崩落した空間。大理石の大扉は半ば崩れ、瓦礫が山のように散らばっている。
彼はその瓦礫の中央に立ち尽くしていた。
背後には、ひとり――アストレアの姿。
「……ここは神聖な場所だ。特別な力が宿っている」
アストレアの声は静かだが、低く響き渡った。
「話した通りだ。王都に迫る魔物の数は増え続けている。この“星晶の間”の力を復元しなければ、流出は止められない」
そして、視線をユエルへと真っすぐ向ける。
「お前の力で、ここを再生させてほしい」
ユエルは息をのんだ。
アストレアが語る状況は、文字通り世界の危機だった。
このままでは国どころか大陸全体が呑み込まれる。
カイロスから聞いていた“ダンジョンの肥大化”という言葉が頭をかすめる。
まさか、王家がこんな方法でそれを抑えてきたとは思わなかった。
唇を噛み、目を伏せる。
「…………」
ユエルは腕の魔道具に目を落とした。
カイロスが作ってくれた“代償を肩代わりする腕輪”が、冷たく光っている。
数珠は、あと三つ。
胸元に手を当てる。内ポケットには、スペアとしてもらった数珠が十個ほど入っている。
だが、それをすべて使ったとしても、この広大な空間を修復できるかどうか……耐えられる自信はない。いや、きっと無理だ。
「……僕、は……」
世界と自分の命を天秤にかけたら、世界を取るべきだ。
カガリのためにも、平穏な世界は必要だ。
彼女のために命を捧げることなど、惜しくはない。本望だ。
――けど。
『 ……少しでも長く、私を傍で支えて……お願い 』
カガリの声が脳裏に浮かび、その瞬間、胸の奥に何かがひりついた。
彼女がくれた言葉。彼女の笑顔。
それは、どんな誓いよりも、ユエルを縛っていた。
ゆっくりと足元を見つめる。
磨かれた革靴が、瓦礫の上でかすかに光を返す。
――カガリが買ってくれたものだ。
前にもらった靴は、スキルの代償で体が成長してしまい、履けなくなってしまった。
それを気にしていた自分に、彼女は新しい靴を買い与えてくれた。
最初の靴を貰った時に言った。
『生まれて初めて、ちゃんとした靴を履いた気がします』――と。
その言葉に、カガリは微笑んで言った。
『なら、最初の一歩は、私と一緒でよかった』
その瞬間、心に刻んだ。
死ぬまで、絶対に、この人の隣で生きていくと。
同じ道を歩き、同じ景色を見て、共に笑っていくと――そう決めた。
けれど、今。
足元の靴が、やけに重く感じる。
(お嬢様……僕は……どうしたらいいんですか……)
息が詰まる。
胸の奥で、焦燥と恐怖がせめぎ合う。
守りたい。
生涯をかけて守りたい。
でも、力を使えば、もう二度と――あの人の隣を歩けないかもしれない。
彼女の願いを、……裏切りたくない。
でも。
それでも。
ユエルの手は、ゆっくりと魔道具に伸びていた。
震える指先が、光る数珠を掴む。
その瞬間――
「ユエル!!」
鋭く叫ぶような声が、瓦礫の静寂を切り裂いた。
振り返ると、崩れた扉の向こうにカガリの姿があった。
「お嬢様……!」
駆け寄ろうとしたユエルの前に、アストレアが立ちはだかる。
王の瞳は、決意と焦燥の光を宿していた。
・ ・ ・
「陛下……これは、どういうことですか」
カガリの声には、怒りよりも驚きが混じっていた。
アストレアは短く息を吐き、真っ直ぐに見据える。
「彼の力を借りて、星晶の間を復元する」
「……なんですって」
カガリの表情がみるみる険しくなる。
「させられません! ユエルのスキルには重い代償があります。ここを修復したら――彼の身体は耐えられません!」
「それでもだ」
「彼は……死んでしまうんです!」
「それでも、やってもらう」
アストレアの声が、空間を震わせた。
カガリの胸の奥で、何かがざらりと擦れた。
言葉の重みを理解した瞬間、ずっと心の奥で見て見ぬふりをしていたものが、炎のように燃え上がる。
「……そんなこと、許さない」
唇が震え、瞳が怒りで赤く縁取られる。
「――彼は道具じゃない! あなたは、人を何だと思っているの!?」
声が鋭く響いた。
それは怒鳴り声ではなく、抑えてきたものがついに零れ落ちたような音だった。
「……もう、我慢できないっ」
カガリは息を荒げたまま、拳を握りしめる。
「リュカと、セラフィのことだって、そう。……あの人たちは、世界のために何も知らずに犠牲にされた。それなのに、あなたは謝るどころか、また彼らの力を借りている。まるで、それが当然のことみたいに……!」
彼らは強く、優しかった。
誰かのために戦うことを、当たり前のように受け入れていた。
けれど、それを当然だと扱う世界の在り方に――ずっと、耐えがたい何かを感じていた。
堰を切ったように言葉があふれる。
心に刺さりつづけていた違和感が、ようやく形を持った。
これは、怒りだったんだ。
「そして今度は、ユエルに犠牲を強いるんですか? この子は戦士ですらないんですよ!?」
息が詰まるほどに叫んだ。
目の奥が熱く、滲んでいく。
アストレアは動かない。
静かなまなざしの奥で、光がわずかに揺れる。
それは理性ではなく、痛みを堪える光だった。
「あなたたち王家のしていることはおかしいです! ……こんなの、絶対おかしい……っ!」
最後の言葉は、怒りよりも悲しみに近かった。
アストレアは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
重い沈黙のあと、かすかに吐き出す。
「……君の怒りは、もっともだ。……私だって、犠牲なんて望んでいない」
視線を落とし、低く漏れた声には、わずかなかすれが混じっていた。
アストレアの瞳の奥に、深い疲労と苦悩が揺れる。
それでも彼は顔を上げ、王の目でカガリを見つめる。
「だが放置すれば、魔物は無限に湧き続ける。ダンジョンは拡大を続け、やがて王都も飲み込まれる。子供も、老人も、無関係の人々も――何もかもを失うのだ」
その言葉は理屈ではなく、叫びに近かった。
カガリは首を振り、爪が掌に食い込む。
「それでも、だからって……誰かの人生を奪っていいわけない!
あなたは謝るべきだった。世界のためだと言って――人を檻に変えてきたことを!」
その叫びが石壁に反響する。
アストレアはほんの一瞬、目を伏せた。
「……謝罪が世界を救うのか?」
最初は静かだった声が、次第に熱を帯びていく。
握り締めた手が白く変わる。
「手段は限られている。
守り続けてきた先祖と、命を捧げた英雄たちのためにも――私は謝れない。
彼らの犠牲を“間違い”にはできないんだ」
拳が震える。
こらえていた感情が、ほんのわずかに滲んだ。
「……私たちの選択は、間違っていない!」
それは自分に言い聞かせるような声だった。
王でありながら、ひとりの人間として、何度もその言葉を繰り返してきたのだろう。
そして、低く、確かな響きで言葉を結ぶ。
「歪みが消えなければ、この国は、世界は滅びる。
それを止める手段があるのなら――私は使う」
その声は、悲しみと決意がないまぜになっていた。
冷たい刃のような言葉の奥に、壊れそうなほどの誠実さが宿っていた。
カガリは何かを言いかけて、唇を噛んだ。
怒りの熱がふっと引いていく。
憤りは消えない。けれど、向ける先を失う。
拳を握りしめる。
視線を落とし、静かに息を吐いた。
(この人も……犠牲の輪の中にいる)
(選んだ選択が、誰かを救うたび、誰かを失ってきた。その重さを抱えて、それでも立ち続けてきたんだ……)
――『……宿命に囚われ、その傀儡となる王族を恨んだところで、何の意味もない』
エルネストの言葉が、脳裏でよみがえる。
彼もそれが分かっていた。
だから……――。
カガリは拳をゆるめ、指先を胸の上にそっと置いた。
鼓動が早く打ちつける。まるで、自分に問いかけるように。
(私は、どうする?)
(私に、なにができる?)
(――私は、何を選ぶ?)
息を吸う。
深く。胸の奥の震えが静まるまで。
そして、ゆっくりと顔を上げる。夕暮れの赤い光が、揺れる髪を照らした。
カガリは、アストレアをまっすぐ見つめる。