第104話『焦走』
「ユエル……、遅いな……」
窓辺に立ち、カガリはぽつりと呟いた。
弓を借りに行くと言ってから、もう三十分ほどの時間が経っていた。
王宮は混乱の渦中にある。物資の確保も難航しているだろう――そう思おうとしても、胸の奥に不安が広がっていく。
夕暮れが迫り、空は鈍い赤に染まりはじめていた。
街を見下ろすと、避難を急ぐ人々と、隊列を組む騎士たちの姿が見える。
松明の光が連なり、風に揺れていた。
その光を見つめながら、カガリの心にふとリュカの顔が浮かんだ。
先ほど作戦室で観た、あの表情が、頭から離れない。
(……リュカ……どうして、あんな顔をしたんだろう)
王宮騎士として、きっともう一度剣を振りたいはず。
自分はその想いを汲んだつもりだった。彼の心を思えば、自分が言った言葉は、きっと間違っていなかったはず。
なのに、リュカの瞳にはどこか悲しみがあった。
「リュカ……」
そんな考えに沈んでいたそのとき――。
「カガリ!!」
扉が勢いよく開かれた。
反射的に振り返ると、そこに立っていたのはナミルだった。
「ナミル……? どうしたの?」
彼は息を切らし、耳を伏せていた。
息は荒く、目は落ち着かずに揺れている。
「え、えっと……! その……!」
焦りで舌がもつれていた。
その直後、廊下の奥から怒声が響く。
「どこへ行った!?」
「あっちだ!」
ナミルの尻尾がびくりと跳ねた。
「ナミル、誰かに追われてるの?」
ナミルはぶんぶんと首を縦に振る。
素早くカガリのいる窓辺まで駆け寄ると、外を確認した。
短く「よし」と呟き、カガリに向き直る。
「カガリ、ちょっとごめんな!」
「えっ?」
返事を待つ暇もなく、体がふわりと持ち上げられた。
気付けばナミルの腕の中。驚いて、反射的にその首にしがみつく。
「な、なにっ!? ちょっと待って――」
その声をかき消すように、廊下から再び声がした。
「いたぞ!」
ナミルの表情が引き締まる。
「しっかりつかまって!」
次の瞬間、ナミルの足が窓枠を蹴った。
「え!? きゃああ!」
風が一気に顔を打ち、視界が傾ぐ。
思わず目をつむる――が、衝撃は思ったよりも軽かった。
地面を滑るように着地したナミルが、息をつく。
「カガリ、大丈夫?」
カガリが恐る恐る顔を上げると、ナミルが心配そうに覗き込んでいた。
オッドアイの瞳に、罪悪感と焦燥が滲んでいる。
「ご、ごめん、怖かった?」
「い、いきなりどうしたの!? びっくりしたよ!」
「ごめん! 説明したかったけど、逃げるのが先だと思って……」
尻尾がばさりと揺れる。
息がまだ整っていないナミルを見つめながら、カガリの鼓動もまた、しばらく収まりそうになかった。
「どうして逃げてるの……? 追ってたの、騎士の人だったみたいだけど……」
胸に手を当てながら尋ねると、ナミルの表情がきゅっと引き締まった。
いつもの軽さが消え、真剣な声音になる。
「それが、大変なんだ! カイロスが――騎士に連行されちまって!」
「……え?」
予想外の言葉に、心臓が跳ねた。
聞き間違いかと思ったが、ナミルの焦りようがそれを否定する。
「ど、どういうこと? なんでカイロスが?」
「俺も通りがかっただけで、詳しくはわかんないんだけど……なんか、ずっと引きずられながら怒鳴ってて」
カガリの眉がぴくりと動く。
いつも落ち着いて、余裕を崩さないあのカイロスが――怒鳴る?
「何があったのか聞こうとしたら、カイロスが俺に叫んだんだ。“カガリに伝えろ”って」
「私に……? なにを?」
ナミルは唇を結び、息をのみ込んでから言った。
「『ユエルが危ない。星晶の間に行け』って」
「ユエルが……危ない?」
言葉が空気の中で重く沈む。
何を言っているのか、理解に結びつかず思考が止まる。
「俺も意味はわからなくて……でも、騎士が追っかけてきたから、とにかく逃げてきたんだ」
ナミルは早口で言いながらも、カガリの反応を探るように視線を向けた。
そして、言葉を絞り出すように続ける。
「……“カガリにしか止められない”、って言ってた。……思い当たること、ある?」
その瞬間――胸の奥が、ひどく冷たくなった。
まるで、心臓の中心を針で突かれたように。
全身の血が引いていく感覚。
「……まさか」
小さく呟いた声は、風に溶けるほど震えていた。
そんなはずない。そう信じたい。
だって――あの子には、何度も言い聞かせた。
けれど、カイロスが暴れてまで伝えたということは――。
思い当たることはひとつしかなかった。
それだけは、絶対にあってはならないこと。
「止めないと……!」
カガリはナミルの腕の中で身を捩り、地面に降りようとする。
慌ててナミルが抱き直した。
「わ、ちょ、ちょっと待った! 急に暴れんなって!」
「私、行かなきゃ!」
「どこに!? 星晶の間!?」
カガリは息を荒くしながら力強く頷く。
その必死な表情に、――なにか取り返しのつかないことが起きようとしているのだと、ナミルは理解する。
ナミルは短く息を吐き、表情を引き締めた。
「……わかった。しっかり掴まってろ」
「え?」
一瞬だけ、彼の口元にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「俺が抱えて走った方が早い!」
言うが早いか、風が弾けた。
景色が一瞬で後ろに流れ去り、赤い光と風の轟きが視界を埋める。
「きゃあっ!」
石畳を蹴り、壁を駆け上がり、回廊を飛ぶように走り抜ける。
ナミルの動きは獣のように軽く、しなやかだった。
「ナ、ナミル、怖いっ!」
「大丈夫、絶対落とさない! でも、ちゃんと掴まってて!」
風を切る音の中で、カガリはぎゅっとナミルの胸にしがみつく。
抱かれたまま、胸の奥で波のように高まる不安を抑えようと、息を整えた。
(ユエル……)
喉の奥から零れそうになる名前を、心の中で強く呼ぶ。
ナミルの耳がかすかに動く。
カガリの乱れた鼓動と指先の震えが、焦りと不安の色をが伝えてくる。
ナミルは短く息を吐き、わずかに顔を引き締める。
さらに力を込めて地を蹴った。走りは一層速くなる。
王宮の奥に立つ、崩れかけた白銀の塔が、赤い光の中に近づいてくる。
二人の影が夕空を裂くように駆け抜けた。