第100話『金色の音』
カガリはアストレアと別れ、自室に戻る前に、王宮の外壁に沿って造られた高層の回廊へ足を向けた。
眼下には王都の光景が広がる。
人影はなく静かだが、王宮の内からわずかに喧騒が伝わってくる。
騎士たちが行き交い、命令が飛び交い、張りつめた空気がここまで滲んできていた。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
傍らのユエルが声をかける。
「大丈夫。ただ……少し、頭を整理したくて」
部屋に戻れば皆がいる。
迫る事態のためにも、その前に、どうしても心を落ち着けておきたかった。
狩猟祭。エルネストの反乱。アストレアの告白――。
さらに次は、王都に向かって魔物の進行。
怒涛のような出来事に、心はただ流されるばかりだった。
受け止めきれないほどの情報が押し寄せて、思考は置き去りにされたまま。
ユエルの癒しの力があったから、ようやく息がつける程度の余裕が生まれたのかもしれない。
じわり、じわりと、心が現実を追いかけはじめる。
「ユエル……私は、どうすればいいんだろう」
声にした瞬間、自分でも驚くほど、頼りなく響いた。
「そもそも私……何で今、ここにいるんだろう……」
エルグレア家を追放されてから、ただ必死だった。
一人で生きる術を身につけなければ。
リュカに負担をかけないように、力をつけなければ。
自分が持つスキルに意味があるのなら、戦わなければ。
守りたいもののために、過去とも向き合わなければ――。
必死に積み重ねてきただけで、気づけばここにいた。
自分が無能だからすべてを失ったと思っていた。
けれど実際は、誰かの陰謀に突き落とされただけ。
さらにまた利用され、奪われかけていた。
悲しいのか、悔しいのか、もうわからなかった。
感情の輪郭が溶けて、胸の内はただ空白。
ぽつん、と白い世界に一人置き去りにされたような感覚だった――。
「……これが、孤独っていうのかな」
零れた言葉に、ユエルの顔が痛ましく歪む。
「お嬢様……僕が、お傍にいます」
彼はそっと手を取り、確かめるように重ねた。
「僕だけじゃありません。リュカさんも、セラフィさんも、カイロスさんも……。フェリオさんや、レオルドさん……ナミルさんだって。みんな、お嬢様のお傍にいますよ」
まっすぐに告げられる声。
けれど、カガリの視線はまだ遠く、どこか焦点を結ばなかった。
「……どうして……」
深い意味はなかった。ただ口をついた言葉。
「それは――」
ユエルは言いかけて、息を呑む。
感謝、敬愛、それだけじゃない。理由なら、いくらでもある。
けれど、胸の奥を満たす思いを伝えるには、どの言葉でも足りない気がした。
気持ちが溢れ、握る手に自然と力がこもる。
「……お嬢様のことが……貴方のことが、好きだからです」
頭の中で思い浮かんだ沢山の言葉の中で、それがいちばん素直で、近いと思った。
驚きにカガリの瞳が揺れる。
ユエルは逃さず続けた。
「この世界で、何よりも……貴方が大切だからです」
一瞬、引かれかけた手。だが、ユエルは離さない。
「ずっと……ずっとお傍にいます。カガリお嬢様」
その力強さに、胸の奥で何かが溶けていく。
「ユエル……」と声を出した瞬間、涙があふれそうになった。
「ごめん……また私、弱音を……」
俯こうとした頬を、ユエルがそっと手で支え、拒む。
「……言ったはずです。あなたの身に起こった、つらいことも、悲しいことも――全部、僕が受け止めると」
微笑んだ彼の瞳は、ほんの数日前までは同じ高さで見ていたはずなのに。いまは見上げる場所にあった。
優しい、翡翠のような緑の瞳。
カガリはユエルの胸に、抱き着くように飛び込んだ。
ひだまりの匂いのする服に顔を埋め、涙をこすりつける。
ユエルの手が、そっと背を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
部屋の入口までカガリを送り届けると、ユエルは「お借りした上着を返してきますね」とだけ告げ、廊下の奥へ消えていった。
扉を開けて部屋に入ると、そこにはセラフィがひとり待っていた。
「カガリ!」
駆け寄ってきたその声には、いつもより強い切迫があった。
そして赤くなったカガリの目元に気づくなり、セラフィの表情が険しく固まる。
「陛下が、泣かせたの……?」
怒気を帯びた声に、カガリは慌てて手を振る。
「ち、違うよ。焚き火の煙が目に入っちゃっただけ」
「そんなわけない! どうして嘘をつくの」
珍しく、きつい口調。
普段の穏やかな彼と違う声音に、思わず息を呑む。
「なにもされなかった? 話をされただけ? 傷つくようなことは言われなかった?」
「うん、本当に大丈夫。……セラフィ、落ち着いて」
「俺は落ち着いてる。ただ……ただ、心配なんだっ」
セラフィの瞳が揺れる。
抑え込んでいた感情がひび割れるように、彼の声も揺れていた。
「ごめん。怒ってるんじゃない。ただ……君と離れると、不安で……」
「セラフィ……」
「胸騒ぎが、どうしても消えない。何か大事なものが壊れてしまいそうで……俺、どうしちゃったんだろう」
「――セラフィ」
カガリは彼の言葉を遮り、まっすぐ見つめる。
落ち着きを失っていたセラフィの動きが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、カガリはぎゅっと彼の体を抱きしめた。
驚きに目を見開いたセラフィの耳に、静かな声が落ちる。
「私も……陛下から全部きいたよ」
彼の体にしがみつきながら告げる。
セラフィの体がぴくりと反応し、張りつめた気配がさらに濃くなる。
冷静沈着であるはずの彼が、涙を流したり、誰かにこれほど強い敵意を向け、心を荒立てている姿を、今まで見たことがなかった。
目を覚ましてからずっと感じていた。
――セラフィが、極限まで気を張り詰めていると。
「……ここ数日、いろんなことがありすぎたし、私も整理しきれてないの。でも、私よりセラフィの方が、もっと……もっと混乱してるよね」
だから、まずは――彼の心を抱きしめてあげたかった。
その思いを腕にこめるように、抱く力を強める。
ようやく、セラフィが恐る恐る腕を回し、そして――押し殺していた感情が爆ぜるように、強烈に抱きしめ返してきた。
「俺はっ……俺のことより、カガリが心配で……!」
声が震えていた。
「奴らが、君にまで手を伸ばそうとした。それが許せない……。なのに俺は、知らずに君を星晶の間の英雄に押し上げようとしてた……危険にさらしてた……もし一歩間違えていたら、君を……君を失っていたんだって思うと……俺は……!」
その言葉と一緒に、胸の奥の恐怖が溢れ出していく。
抱きしめる腕が痛いほどに強くなる。
その腕も声も、細かく震えていた。
「どうしてこんなに苦しいんだろう……胸が押しつぶされそうだ……」
「セラフィ……」
「俺、多分、もう……君がいないと、生きていけない」
カガリは、その言葉に胸が締めつけられる。
セラフィは、自分の心の揺れに対して、とても不器用だ。
絶対的な力を持つがゆえに、情を殺し、温もりを遠ざけ、二百年もの間、己を縛り続けてきた人だ。
感情を封じ続けたその長い歳月は、きっと“感情を扱う”という当たり前の術さえ、彼から奪ってしまったのだと思う。
カガリ自身ですら、動揺と戸惑いで心が追いついていなった状況に、
彼の中でも、きっと同じように……いやそれ以上に、心が置き去りになっているはずだった。
(……ユエルが、私の心を落ち着かせてくれたように。今度は、私がセラフィを支えてあげたい……)
カガリはそっと彼の胸に凭れかかった。
脈打つ鼓動を、彼の鼓動に重ねるように体を押し付け、言葉を選びながら囁いた。
「セラフィ、私の音……聞こえる? 」
その声は、優しい慰めというより、確かな“証”を示すような響きだった。
今、彼に必要なのは言葉よりも、手触りのある安心。
カガリはそれを知っていた。
「大丈夫。私はここにいる」
カガリは深く息を吸い、彼の胸に重ねて吐き出す。
その呼吸が鼓動を和らげるように。
「焦らないで。一緒に、少しずつでいいから……整理していこう? そしてこれからのことを、二人で考えよう。私は、どこにも消えたりしないから」
規則正しく刻まれる鼓動が、二人のあいだに流れる沈黙をやさしく埋めていく。
セラフィは、声にならない答えを返すように、小さく頷いた。