第97話『涙』
脈打つ箱の前で立ち尽くすアストレア。
その背が、白光の中に消えていく。
視界のすべてが飲み込まれていくその瞬間、気づけば足が勝手に動いていた。
背中に飛びつき、そのまま床へと押し倒す。
覆いかぶさるように身を差し出した刹那、焼け付くような痛みが全身を貫いた。
――そこで、意識が闇に沈んだ。
息を呑むように目を開いた。
目に映ったのは、見覚えのない天蓋。
窓から差し込む陽光が、静かに白い布を透かし、淡く揺れていた。
ぼーっとそれを眺めていると、枕元で布がこすれる音がする。
「……カガリ?」
呼びかける声。
すぐ横を振り返れば、銀の瞳。月を湛えたようなその瞳が、大きく見開かれていた。
「セラフィ……?」
声は自分でも驚くほど掠れていた。
静かに息を潜めるセラフィの胸の上下が、かすかに震える。
じっと見つめるうちに、その澄んだ瞳に涙が滲み、やがて一粒、頬を滑り落ちる。
その美しさに、思わず息を呑む。
上体をゆっくり起こし、頬に触れる。
セラフィはその手に自らの手を重ね、ぎゅっと握り返した。
「……よかった。本当に……よかった……」
目を伏せ、震える声をこぼす彼の頬に触れるたび、胸が締めつけられる。
言葉を返そうとした、その時――
ガタリ、と乾いた音が室内に響いた。
視線を向ける。
倒れた椅子。
その傍らで立ち尽くす影が二つ。
カイロスと、ユエル。
「お嬢様っ!」
ユエルが弾かれたように駆け寄る。膝をつき、カガリのすぐそばに縋りつく。
次々と涙がこぼれ、嗚咽で言葉が形にならない。
大粒の涙が頬を濡らす。青年の顔立ちの奥に隠れた、年相応の少年の素顔が少しずつ見えた。
慌てて背に手を回し、あやすように優しく叩く。
「ど、どうしたの……二人とも」
右にはセラフィ、左にはユエル。
両側から聞こえる涙の音。
正面を見れば、カイロスが腰に手を当てて立っていた。
笑っているのか泣いているのか、判別できない歪な表情。
それでもその奥には、確かな安堵が見えた。
「やっと起きたか。もうお昼だぞ……お姫様」
カガリは目の前の光景をぼんやりと見つめ、昨夜の光と痛みが現実に溶ける感覚を、静かに噛みしめた。
◇ ◇ ◇
「うん、大丈夫そうだね」
フェリオの声が、背後からそっとかけられた。
診察を終え、カガリのシャツを整える。
「ありがとう、フェリオ」
襟元のボタンを丁寧に留め、向き直る。
視線がぶつかったフェリオの顔には、わずかな驚きが残っていた。
「本当に、傷一つないなんてね」
フェリオの背後で、セラフィが微かに笑う。
「そういう力だからね」
「……ほんと、チートだよね、君。腹立ってくるよ」
フェリオは少し拗ねたように口をとがらせる。その口元に、カガリは笑いをこらえた。
目を覚ました後、体調を確認するためにフェリオはすぐに駆けつけた。
その心遣いが、静かに胸に沁みる。
「爆発に巻き込まれたって聞いた時は、本当に驚いた……。もう、絶対そんな無茶はしないでね」
その声は優しく、まるでカガリの胸に縋りつくようだった。
あの時の記憶が、頭の奥でふと蘇る。
――星晶の間の爆発。
導爆の匣による、炎と破壊の渦。
アストレアを庇い、盾となった自分。
無謀に飛び込んだわけではない。
星晶の間に踏み込む直前、カガリの体には、セラフィの≪絶対律≫の力が宿されていた。
≪ この身体は傷つかない ≫――その律は確かに、爆炎から二人を守ってくれた。
だが想定外だったのは、――痛みは感じるということ。
体を焼く強烈な痛みに、意識は一瞬で遠くへ吹き飛ばされた。
その瞬間を思い出し、肩が震える。そこに、温かい手が触れる。
見上げると、リュカが静かに寄り添って立っていた。
「大丈夫か……?」
「……うん、平気だよ。ありがとう。みんなも無事で、本当に良かった」
安心させるために笑う。
しかし、少し強がった笑顔はリュカには見抜かれていたようだった。
その目は離れず、優しく、そして心配で満ちていた。
言葉を続けようとした時、扉が弾かれるように開いた。
足音がわらわらと響く。
中に入った数人の影の懐かしさに、胸を小さく震わせる。
「ディルさん! ガロさん!」
「よ! 無事か!」
ディルは片手を上げ、顔いっぱいの笑みを見せる。
後ろでガロは控えめに小さく会釈した。
少し遅れて、レオルドも部屋に入ってくる。
ディルはそのままカガリの近くまで歩み寄ると、大げさにため息をついて腕を組んだ。
「いやー、昨日は散々だったな。久しぶりの再会が、まさかあんなことになるとはよ」
「ディルさんたちも王都に来てたんですね。……大丈夫でしたか?」
「巻き込まれやしたけど、問題ねえ。怪我もそこのにいちゃんに治してもらった。治癒魔法ってやっぱりすげーな」
ディルは体を丁寧に見回す。
カガリの横で、フェリオは少し得意げに手でブイサインを作った。
「協会の依頼で近くまで来てたんだ。……そっちも大変だったみたいだな」
カガリの頭をぽんぽんと撫でる、兄のようなディルの手。
街での生活の記憶がふわりと蘇った。
胸が、静かに暖かくなる。
ふと、その記憶の中で、もう一人の影があったことに気づく。
「シャイアさんも、……ここに?」
問いかけると、ディルは眉をわずかに下げ、一瞬視線を泳がせる。
だがすぐに、肩をすくめて笑みを作った。
「あいつは今、迷子だ。呑気に散歩でもしてんのか、帰ってこない」
ガロが小さく頷く。
狩猟祭の屋台で梯子酒でもして潰れてるんだろうと、呆れるその言葉に、自然にその姿を思い描く。シャイアならあり得ると思った。
帰ってきたら、またディルと言い合うのだろう。
その光景まで浮かび、思わず笑みがこぼれる。
その笑顔を見て、ディルもようやく肩の力を抜き、穏やかに目を細めた。
「……あれ?」
ふとディルが振り返り、首を伸ばして後ろを見やる。
「どうした?」
「いや、さっきまで後ろにいたんだけどな……あいつ、どこ行った?」
「あいつ……?」
カガリが首を傾げる。
リュカは思い当たったようで、小さく溜息をついた。
黙って部屋の入口へ歩み寄り、開いたままの扉の影に視線を落とす。
廊下に出て、腕を突っ込んだ。
「うわあ!」――聞き覚えのある声が、驚きと共に弾ける。
短いやり取りののち、首根っこを掴まれた人影がずるずると引き出されてきた。
垂れた耳と尾をしゅんと下げたナミルだった。
「ナミル!」
ベッドから勢いよく飛び降り、カガリは駆け寄った。
その名を呼ぶ声に、ナミルの耳がびくりと震える。
至近まで迫られると、怯えたように体が竦み、後ずさろうとする。
だが背後にはリュカの腕が壁のように立ちはだかり、逃げ場はなかった。
なぜそこまで怯えるのかと不思議に思う。
――洗脳されたまま刃を向け、傷を負わせた罪悪感だろうか。
胸の奥に苦い答えが浮かぶ。
「ナミル、こっちを見て」
そっと手を取り、両手で包み込むように握る。
温度を伝えるように、落ち着かせるように。
「ナミル」
もう一度、名前を呼んだ。
ナミルが恐る恐る顔を上げる。
「約束通り、会いに来てくれてありがとう。ずっと、会いたかったよ」
できる限りやわらかく、歩み寄るように告げる。
伏せていた犬耳が、かすかにぴくりと動き、ゆっくりと立ち上がっていった。
「……うっ……」
喉から漏れた声は震え、オッドアイに涙の膜が滲む。
あ、泣いちゃう――と思った瞬間には、強い力で抱きつかれていた。
不意の勢いに後ろへよろめく。
けれど、しがみつく腕の必死さが、そのまま支えとなった。
「うう~~っ! カガリいいぃ……! うううぅぅっ!」
肩口に顔を埋め、子どものように声を上げて泣く。
カガリはその背を抱きとめ、ぽんぽんと宥めるように叩いた。
「おーおー、三人目。泣き方にも個性が出るもんだな」
カイロスが茶化すように口笛を鳴らす。
「ちょっと! 子犬君ずるい! 俺も泣くから背中ぽんぽんしてほしい!」
「……キモ」
抗議するフェリオの横で、レオルドが短く切り捨てた。
そのとき、廊下から新たな足音が響く。
小走りで、どこか焦りを帯びた調子。
開け放たれたままの扉をくぐり、勢いよく飛び込んできたのはアストレアだった。
ベッドに人影が見えず、一瞬だけ表情が強張る。
だがすぐに、入口近くでナミルに抱きつかれたままのカガリを見つけた。
視線が交わる。
駆けてきたアストレアの肩が上下し、荒い呼吸のまましばし見つめ合った。
やがて、長く押し殺していたものを吐き出すように――安堵の息が静かに漏れた。




