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船田鏡介 怪異短編集

土鈴(どれい)

作者: 船田鏡介

とある神社に古くから伝わる

かわいらしい魔除けの鈴、だが、その本当の正体は……

 三日ぶりの好天に恵まれた十一月下旬の夕方、神田淡路町からJR御茶ノ水駅の聖橋に向かう途中の坂道で、折井透(おりいとおる)は不意にたまらなく(のど)が渇くのを感じて顔をしかめた。登り坂だとは言ってもそれまでは別にどうということもなかったのに、今は体全体がだるくてなかなか足が前にでない。もし真夏だったら、熱中症にかかったのではないかと疑っていただろう。

 どこかに飲み物の自販機がないかとあたりを見まわした透は、十メートルほど先で左隣の坂に通じている路地の入口の角に、おあつらえ向きの喫茶店があることに気がついた。店は三階建ての古びた煉瓦(れんが)造りの建物の一階に入っていて、入口近くの壁に取りつけられた木製の小さな看板には、『珈琲館 ―壺中天(こちゅうてん)』という手書きの文字が彫りこまれている。

 この四月から通っている大学は反対の方角にあるので、彼が淡路町に足を向けることはあまりないのだが、それでも二度くらいはこの坂を上り下りした記憶がある。それなのにここにこんな店があることに今までまったく気がつかなかったのは、鎧戸(よろいど)がついた窓を三つとも閉め切ったままにしているような、商売気(しょうばいけ)を少しも感じさせない店の構えのせいだろう。

 やっとの思いで店の入口までやって来た透は、無造作にドアのノブに掛けられた『営業中』の札を目にして、ほっと安堵(あんど)の息をついた。

「いらっしゃいませ」

 奥まったカウンター席の前に立って透を迎えたのは、黒いボウタイとベストを身につけた初老のマスターだった。年齢は六十歳前後といったところだが、長身の引き締まった体格で、ライオンの(たてがみ)のような波打った髪の毛やきれいに刈りそろえた口髭が銀色になってさえいなければ、十歳は若く見えただろう。全部で五つある四人掛けのテーブル席にもカウンター席にも客の姿はなく、透はカウンターに一番近いテーブルを選んで腰を下ろした。『珈琲館』と名乗っているだけあって、テーブルに置かれたメニューにはブレンドと五種類のストレートコーヒーしか載っていない。

「ブレンドコーヒーをお願いします」

「かしこまりました」

 大振りのグラスに入れて出された水はひんやりとしていて口当たりがやわらかく、飲む(はし)から全身にしみ渡ってゆくかのようだった。透は息もつかずに夢中で水を飲み続けた。

「ずいぶん喉が渇いていらっしゃるようですね」と、ほとんど空になった透のグラスに水を注ぎ足しながらマスターが言った。

「ええ、坂を登っていたら急に喉が渇いてきて、体がどこかおかしくなったのかと思ったくらいです。それにしても、本当に美味しい水ですね」

「親戚が青梅(おうめ)市で造り酒屋をやっていましてね、敷地の中で湧いている水を仕込みに使っているから、それをわけてもらっているんです。軟水(なんすい)だから、コーヒーの味がまろやかになる」

 少し得意気にそう答えたマスターは、カウンターの向う側のキッチンに戻ると、ネルドリップでコーヒーを()れ始めた。白熱灯のスタンドくらいしか明かりがないので店内はほの暗く、喫茶店らしい装飾品もほとんど見当たらないが、カウンターの奧の壁には、江戸の古地図や現代の関東地方の地図などが合計六枚も貼られていた。もっとも、どの地図にも赤と青の色鉛筆で曲がりくねった境界線のようなものが書きこまれているので、単なる飾りではないらしい。

 赤い線のほうは埼玉県の北東部や南部まで入りこんでいて、線の近くにある大宮と浦和の三つの氷川(ひかわ)神社などには、黄色いマーカーで印がつけられていた。一方の青い線はもっと東京湾の海岸線に近くて、『日比谷入江(いりえ)』、『江戸前島(えどまえじま)』といった聞き慣れない地名が書き加えられている。

 このあたりにも何か印がないかと目を凝らして探してみると、ちょうどこの坂を横切るように赤い線が通っていて、御茶ノ水駅のところにもマーカーの印があった。

「お待たせしました。ごゆっくり、どうぞ」

 透の前にコーヒーのカップを置いたマスターは、そのままカウンターの向うに戻ろうとはせずに真ん中の出窓に近づいてゆくと、(ふち)のところに置いてあった水の入ったグラスを別のものと取り替えた。窓辺のテーブルにいくぶん行儀(ぎょうぎ)の悪い客がいて飲みさしを置いていったのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。几帳面(きちょうめん)で無駄なことは一切しないという印象のマスターだけに、どことなく儀式めいた感じがする。

「あの……、どうしてそこにグラスを置くんですか?」

 透が思い切ってそうたずねると、マスターは透のひどく緊張した様子に一瞬とまどったような表情を浮かべた後で、おだやかに微笑みながら答えた。

「ああ、ちょっとした(げん)かつぎですよ。以前お客さんのどなたかがここにグラスを置いていかれたら、流行(はや)らない店には珍しくお客さんが続いたものですから……。おや? さっそく効果が現れたかな?」

 マスターが入口に目をやりながらそうつけ加えるのとほとんど同時に、ゆっくりとドアが開いて新しい客が店内に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 現れたのは二十代半ばの女性だった。地味なグレーのスーツを着て、大ぶりで無骨(ぶこつ)な黒い革製の鞄を手にしている。化粧もごく控え目で、いかにも役所か銀行あたりに勤めていそうなタイプのように見えた。彼女は入口から二、三歩進んだところでふいに足を止めると、困惑した様子であたりを見まわした。空いている席が多すぎて、かえってどこに坐ればいいのかとまどっているらしい。

「どこでもお好きな席にどうぞ」

「あ、はい、どうも……」

 マスターにうながされてようやく心を決めると、女性客は透の目の前のカウンター席に腰を下ろした。彼女もひどく喉が渇いていたらしく、飲み物を注文する余裕もなく、喉を鳴らすようにして一気にグラスの水を飲み干した。

 喉の渇きが一段落して、彼女はメニューを手にしたが、選択肢はわずかだというのに、なかなか注文が決まらないようだった。

「何でしたら、カフェオレをお出ししましょうか?」と、マスターは女性客の困惑した表情を見て取って声をかけた。

「え、お願いできるんですか?」

 彼女はメニューから顔を上げて、驚いた様子でマスターを見つめた。

「メニューにはないんですが、もしよろしければ。代金はブレンドと同じということにさせていただきます」

「ありがとうございます。ぜひお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 厚手の大きなカップに入ったカフェオレをゆっくりと味わった女性客は、ようやく人心地(ひとごこち)がついたというようにほっと息をついた。

「とっても優しい味……」

「お気に召したようで何よりです」

「あの……、マスターはどうして私がカフェオレを飲みたがっていることがお分かりになったんですか?」

「いえ、できるだけ刺激の少ない飲み物をお勧めしただけのことです。いくぶん体調がすぐれないようにお見受けしたものですから」

「本当に何でもお見通しなんですね」

 彼女は感心したようにそう言うと、カフェオレをもうひと口飲んでから話を続けた。

「先週、友達が事故で亡くなったんです。朝のラッシュ時に新宿駅のホームで線路に落ちて、周りの人たちが助け上げようとしたんですけど、ハイヒールの(かかと)が線路と枕木(まくらぎ)の間にはさまってしまって、入ってきた電車に……」

「まだ若い女性が……。なんとも痛ましい話だ」と、マスターが声を(しぼ)り出すようにして言った。

「ついこの間も二人でドライブに行ったところだったんです。パワースポットって気持ちがいいから、すぐまたどこかに行こうって約束したのに」

「パワースポットにドライブ……、車でどこかの神社に行かれたんですか?」

「ええ、伊勢原市の美瀧(みたき)神社です。友達が〈彼〉と別れたところだからパワーをもらいに行こうって言い出して、コンビニで買ったガイドブックを見て良さそうな場所を選んだんですけど、ご利益(りやく)があるどころか、あんな事故に()うなんて……」

 女性客はカフェオレのカップを両手で包むように持ったまま、それ以上話を続けることができずに両目を閉じた。

「月並みな言葉で申し訳ないが、とにかく気持ちをしっかりと保つことです。ふさぎこんでしまっていては、体の調子までおかしくなる」

「ええ、その通りですね。自分でもなんとかしなくちゃと思っていたんですけど、美味しい飲み物のおかげで元気が出ました」

「それはよかった。どうぞゆっくりなさってください」

 透のグラスに水を注ぐためにガラスのポットを手にしてカウンターから出てきたマスターは、女性客の後ろの位置に差しかかったところで不意に足を止めると、空いていた右手を彼女の肩のあたりに伸ばした。透は彼が糸屑(いとくず)でも取ろうとしているのだろうと考えながら何気なくその仕草(しぐさ)を見守っていたのだが、(こぶし)ほどの大きさの不気味な黒い影がいつの間にか彼女の首筋にまとわりついてうごめいていることに気がついて目を見張った。

 しかし、マスターのほうは一向(いっこう)に驚いた様子はなく、その影の(かたまり)を無造作に親指と人差し指でつまみ上げて軽く息を吹きかけると、彼の指先から逃れようとするかのようにうねうねと動き続けていた影は、瞬く間に散り散りになって跡形もなく消え去った。

 透は自分が目にした光景の意味どころか、それが現実だったのかどうかさえよく分からずに、ただ呆然(ぼうぜん)とマスターの姿を見つめていた。透の視線を感じたかのように後ろを振り向いたマスターは、透の表情からすばやく状況を読み取ると、人差し指を口元に当てて騒がないようにという合図を送ってから近づいてきた。

「〈あれ〉が見えたんだね?」とマスターが小声で言った。

「いったい、あの黒い影は何なんですか?」

 透が勢いこんでそう尋ねると、マスターは騒がないようにという合図をあらためて繰り返してから、さらに声をひそめて答えた。

種明(たねあ)かしはしばらく待ってもらえるかな? きちんとした説明をするには時間が必要なんだが、他のお客さんを()いて話しこむわけにはいかないのでね」


 女性客が帰ってゆくと、マスターは透のコーヒーのお代わりと自分が飲む分のコーヒーを持って透のテーブルにやってきた。

「すっかり待たせてしまって申し訳なかったね。このコーヒーは私のおごりだよ」

「あ、すみません」

「いやいや、君は相当なコーヒー好きのようだからね。()れる方としても張り合いがあるよ。それはさておき、どこから話を始めたらいいのかな?」

 マスターは上機嫌でそう言うと、透の顔をじっと見つめたままコーヒーのカップを口元に運んだ。

「あの影のようなものは何だったんですか?」

「物の怪、魔物、悪鬼、魑魅魍魎(ちみもうりょう)……。まあ、そんな名前で呼ばれている(たぐい)のものだよ。なあに、ああやってわけなく追い散らせる程度の雑魚(ざこ)さ。ただ、()かれるとひどく喉が渇く。昔は山の中でひだる(がみ)に憑かれると空腹に悩まされたものだが、今時(いまどき)の物の怪どもは水のほうに飢えているようでね。川は汚い。せっかくの雨もアスファルトが邪魔をして、地面を(うるお)さずに下水溝(げすいこう)へ……。連中だって気の毒なものさ」

 物の怪、魑魅魍魎、ひだる神……。そんなものがごく当たり前の存在のように話をされても、透のほうはただ混乱するばかりだった。

「あの、マスターは霊能力者なんですか?」

 散々あれこれと考えをめぐらせたあげくに透の口をついて出たのは、自分でもあきれるくらい陳腐(ちんぷ)な質問だった。

「いいや、ああいうものが少しばかり見えはするがね。私はしがない喫茶店の親父だよ。ただ、人間の心の奥底で働いている力とでもいうのかな、そんなものに昔から興味があってね。古代宗教、民間信仰、深層心理、心霊現象、都市伝説と、面白そうだと思ったものに片っ端から首を突っこんでいるうちに、いつのまにやらこんな歳になっていたというわけさ。さてと、今度は少し君のことを聞かせてもらえないかな? おっと、申し遅れたが私の名前は皆方行雄、ミナは南でなく(みんな)のほうだよ」

「折井透です。トオルは透明の(とう)の字です」

「折井透君か、いい名前だ。で、透君、どうやら君には〈見鬼(けんき)〉の素質があるようなんだが、これまでにもさっきのような〈もの〉を見たことがあるかい?」

「ケンキ、ですか?」

「鬼を見ると書いて見鬼。霊的な存在を見る能力を持った人間のことさ。いくらこの店の中が見やすいように〈調整〉してあるとは言っても、いきなりあれだけはっきり見えたとなると驚きでね。過去に同じような経験があってもおかしくないはずなんだよ」

「いえ、特に思い当たるようなことは何も。さっきは本当にびっくりして、自分の目が信じられなかったくらいですから」

「子供の頃のことも思い出してみてもらえるかな。先入観にとらわれていないから、かえって色々なものが見える時期なんだが……」

 皆方の言葉が呼び水となって、突然透の脳裏に、毎日が白昼夢(はくちゅうむ)の連続のようだった幼少の一時期の記憶が、脈絡(みゃくらく)のつかない断片のまま次々と浮かび上がってきた。

「そう言えば、五歳の時、人の姿がぶれて二重に見えたり、台所の(すみ)に大きな鳥のようなものがうずくまっているのを見たりした時期がありました。両親が離婚して父が家を出ていった頃で、僕は急に熱を出したり、怖い夢を何度も繰り返し見たりしていて、どこまでが実際に見た光景だったのかよく分からないんですが。折井というのは母方(ははかた)の姓なんです」

「ふむ、一時的に〈見える〉ようになって、しばらくしたら元に戻ったと」

「ええ」

「見えていた期間はどのくらいかな?」

「半年くらいだったんじゃないかと思います。今お話ししたようにかなり精神的に不安定な状態だったんで、はっきりと断言はできませんが」

「〈見える〉ようになったきっかけを、何か思いつかないかい?」

 夏の日差しが照りつけるアスファルトの舗道(ほどう)(へい)の金網に巻きついて咲いている昼顔、そして、色白の美しい女性の着物の(たもと)からほのかに漂ってくる甘い香気…。意識の底に眠っていたある夏の日の記憶の断片が瞬く間に(つな)がりを取り戻してゆくのを感じながら、透はそれらを(いと)おしむようにゆっくりと話し始めた。

「幼稚園の夏休みに、長野県の小諸市にある母の実家に一週間ほど帰省していたんですが、明日は父が留守番している横浜の家に帰るという日に、迷子(まいご)になってしまったんです……」

 八月十七日の昼過ぎ、透は三人の従兄(いとこ)達と一緒に、母の実家の裏手にある小高い丘の上で遊んでいた。以前この丘にはスプリングを作る小さな工場があったのだが、今は廃業して建物も取り壊され、見晴らしの良い空き地は近所の子供達の格好の遊び場になっていた。三人の従兄と言っても三人兄弟ではなく、年長の二人が本家を継いでいる母の兄の子供で、最年少の一人は本家から歩いて五分ほどの所に住んでいる母の弟の子供だった。

 標高が高い小諸市は秋の訪れが早く、旧盆を過ぎた空にはすでにアキアカネが飛び回っていた。透達がやっていた遊びは缶蹴りで、一人だけまだ幼稚園児の透は、真っ先に見つかっても鬼にならない〈あぶらおに〉ということになっていた。そのような特別ルールは近所中の年の離れた子供達が集まって遊んでいた時代のもので、透の従兄達は言葉さえ聞いたことがなかったのだが、透が遊びに加われるようにと本家の伯父が息子達に教えたのだった。従兄達に手加減してもらっていることは幼いなりに感じてはいても、独りっ子の透にとっては遊んでくれる兄が三人もできたようで、楽しさは格別だった。

 最年長の従兄が右足を空き缶の上に置いたまま、どこに缶を蹴ろうかとあたりを見まわしていた時、彼は数メートル先のコンクリートの土台の割れ目にふと目を留めると、面白いものを見つけたという顔をして声を上げた。

「おっ、かがみっちょ!」

 透は従兄が見つめている先に急いで目をやったのだが、いくら目を凝らしても、瓦礫(がれき)以外のものは何も見当たらなかった。『かがみっちょ』というは一体何なのか聞こうと透が後ろを振り向いた時、言い出しっぺの従兄のほうは、いなくなった『かがみっちょ』のことなどもうどうでもよくなってしまっていて、空き缶を思い切り蹴り飛ばして遊びを再開した。

 やがて、一度本家に戻っておやつにしようという話になった時、透は一人だけで丘の上に残った。聞きそびれてしまったかがみっちょの正体を、自分で突き止めてやろうと心に決めていたのだ。

 しばらく丘の上を歩き回ったもののそれらしいものを見つけることができなかった透は、本家とは反対の方角にある階段から丘を降りることにした。従兄達とアイスクリームを買いに行く時に一度通ったことがあるだけなので、普段なら一人でこの階段を降りるなどという無茶な真似(まね)は決してしなかっただろう。しかし、その日の透は『かがみっちょ』という言葉の不思議な響きにすっかり魅せられてしまっていて、見たことのないものは行ったことのない場所にいるはずだという子供ならではの奇妙な思いこみに突き動かされて、一人だけで先へ先へと進み続けた。

 透は時々後ろを振り返って帰り道を確かめていたのだが、二度十字路で曲がってから元の場所に戻ろうとして、自分がいつの間にかまったく知らない場所に来てしまっていることに気がついた。迷子になったのではなくて、かがみっちょを探しているのだといくら自分に言い聞かせてみても、当てずっぽうに歩き回っているだけの状態では、心細さが次第に(つの)ってくるのをどうすることもできなかった。

 その時、透は祖母のものにそっくりな紫色の洋服を着た高齢の女性が、数十メートル先のところを歩いていることに気がついた。後ろ姿しか見えないが、髪型や背格好(せかっこう)もよく似ている。祖母を見つけたのだと考えた透は、大喜びでその後を追った。しかし、高齢のはずなのに彼女は驚くほど足が速く、透が懸命に走っても二人の距離はなかなか縮まらなかった。結局彼女は透が追いつくよりも先に、茶色い板塀(いたべい)越しに松などの庭木が(いただき)をのぞかせている立派な屋敷の中に姿を消してしまった。

 もしかしたら人違いだったのかもしれない。そんな思いが胸の中で頭をもたげてくるのを振り払いながら、透は屋敷の中にそっと足を踏み入れた。母屋(おもや)の手前は手入れの行き届いた庭で、歳月を経た木々が至る所に涼しげな日陰を作り、庭の左側には、白壁(しらかべ)土蔵(どぞう)が二つ並んで立っていた。

(ぼく)や、勝手に他人(ひと)ん家に入っちゃだめだに」

 不意に背後から声をかけられて透が驚いて振り向くと、玄関の前に野良着(のらぎ)姿の老人が立っていた。

「うちのおばあちゃんが、ここに……」

 透は耳が火照(ほて)るのを感じながら、やっとの思いでそう答えた。

「ばあちゃんが? 今日はお客なんぞまぁず来ておりやせんでや」

 老人が首を傾げながらそう言った時、玄関の格子戸(こうしど)が開いて、白地に青い花の(がら)が描かれた着物を着た三十代半ばの女性が姿を現した。彼女がこの屋敷の女主人で、老人のほうは手伝いを頼まれて毎日顔を出している近所のお百姓といったところだろう。

「どうかしたの? おや、ずいぶん可愛らしいお客さんねえ!」

 老人と違って、彼女にはこのあたりの土地の(なま)りがまったくなかった。

「どうも、奥様、この(ぼう)が、ばあちゃんがここに来ていると言っておりやして」

「おばあさんが? おかしいわねえ。坊や、もう聞いたかもしれないけど、今日はお客さんなんて一人も来てやしないのよ。どこか余所(よそ)の家に入るところを見間違えたりしていないかしら?」

 そう言われてみればその通りのような気がしてくる上に、そもそも人違いだったのかもしれないという疑いまでが再び(よみがえ)ってきて、透は返す言葉もなくうつむいた。

「それじゃ、おばあちゃんとはぐれて迷子になったの?」

 そう尋ねられた透はなんとか名誉を守ろうと顔をあげると、自分は迷子になっていたわけではなくて、ちゃんとした用事があってこのあたりを歩いていたのだと言わんばかりに、首を横に振りながら答えた。

「かがみっちょを見つけてて……」

「そう、それは大冒険だったわねえ」

 女主人はきりっとした紅い色の口紅を引いた口元をほころばせながらそう(あい)づちを打って話を続けた。

「それで、坊やのお名前は?」

「森下透」

「お家は?」

八幡様(はちまんさま)の近く。折井っていう家」

「どこかよそから来ているのね?」

「うん、横浜から」

「それじゃ、家の人はみんな心配しているわねえ。早く帰らなくちゃ」

 彼女はかたわらの老人のほうを振り返ると、

(じい)や、折井というお宅がどこかわかるかしら?」と尋ねた。

「知んねえですが、聞きながら行けばなんてことねえでがしょう」

「そう、じゃ、悪いけどこの子を送ってあげてね」

「へい、ようがす」

「ああ、そうだ、大事なことを忘れていたわ。かがみっちょを探していたんだものね。この庭でも時々見かけることがあるんだけど、爺や、あなたなら捕まえられるんじゃなくて?」

「へい。まぁず、造作(ぞうさ)ねいこって」

 老人がそう答えると、女主人は透の目の前に(かが)みこんで言った。

「かがみっちょを見せてあげるわ。でも、触るのはだめよ。とっても怖がりなの。どう、見るだけで我慢するって約束できる?」

「うん!」

 家まで送ってもらえる上に、『かがみっちょ』まで見ることができるなんて。透は彼女の着物の(たもと)からほのかに漂ってくる甘い香りを胸一杯に吸いこみながら大喜びでうなずいた。

「さあ、それじゃ、そこの縁側に腰かけて待っていらっしゃい。今、おばちゃんが西瓜(すいか)を切ってくるから。爺や、よろしくお願いね」

「へい」

 老人は軽く腰をかがめてお辞儀をすると、かがみっちょを探すために土蔵の方に歩いていった。

 透が女主人の出してくれた西瓜にかぶりついているところに、老人が()り足でゆっくりと戻ってきた。胸のあたりで左右の掌を組み合わせて、何かをその中に閉じこめている。

「捕まえたのね?」と、縁側に透と並んで坐っていた女主人が声をかけた。

「へい、上手くいきやした」

 老人は得意気(とくいげ)にそう答えながら透たちの前にやって来た。

「ほら、ご覧、坊や、これがかがみっちょよ」

 女主人の言葉を合図に老人が掌を開くと、十センチほどの大きさのトカゲが現れた。縞のある体全体が日の光を浴びてきらきらと輝いているが、長い尾は青い色が入っていて特に美しい。

 老人の扱いがよほど上手いのか、かがみっちょは彼の掌の上でのんびりと体を伸ばしたまま、日光浴でもしているかのようにほとんど動かなかった。

「本当は触らせてあげたいんだけど、びっくりすると尻尾(しっぽ)を切って逃げてしまうの。新しい尻尾が生えてくることはくるけど貧相(ひんそう)でね、こんなにきれいで立派な尻尾がなくなったらかわいそうでしょう?」

 女主人がそう話しかけると、透はかがみっちょの美しさにうっとりとしながらうなずいた。

「お利口でいい子ね。さあ、そろそろ逃がしてあげましょう」

「うん」

 老人が池の手前の地面にかがみっちょを下ろすと、その小さなトカゲはすばやく走り出して庭石の下の隙間に姿を消した。

 透が再び縁側に坐って西瓜を食べ始めると、女主人は隣に腰を下ろして優しく微笑みながら彼の頭をなでた。

「本当に可愛い子ねえ。帰すのが惜しいくらい」

「奥様!」

 女主人の何気ないつぶやきを耳にしたとたんに、老人はぎょっとしたように声を上げた。

「いやねえ、ほんの冗談じゃないの。さあ、早くおあがりなさい。家の人が心配しているわ」

 女主人はそう言って透の頭から手を下ろすと、縁側から立ち上がりながら老人に声をかけた。

「じゃ、爺や、この子をお願いね。それと、ついでだから酒屋に寄ってもらえるかしら? 旦那様が召し上がるお酒が切れてしまいそうなの」


 透が老人と連れだって変電所の巨大な鉄塔の近くまで来た時、本家の伯母がものすごい勢いで駆け寄ってきた。

「透ちゃん、こんな所にいたの!」

 伯母に抱き上げられながら透は老人のほうを振り返ったが、つい今しがたまで一緒にいたはずの老人の姿は、なぜかどこにも見当たらなかった。

 本家に戻った透が母親や伯父夫婦にたっぷりと油を(しぼ)られたことは言うまでもないが、不思議だったのは、透がいくら見た事を話しても、誰一人としてそれらしい屋敷が思い当たらなかったことだった。土蔵が二つもある屋敷などこのあたりには一軒もないというのだ。伯母は透が変電所の前の道を一人で歩いていたと言って取り合ってくれなかったし、意外と言うほどでもなかったが、祖母も足を痛めていて、家の外には一歩も出ていなかった。

 見知らぬ場所を歩き回った疲れが出たせいか、透はその晩から熱を出して二日ほど寝込んだ。


「それからしばらくの間、人の輪郭が二重に見えたり、奇怪なものの姿を見たりしたと言うんだね?」と、透の話を聞き終えた皆方が尋ねた。

「そうです」

「ふむ、面白い。取られかけて〈(ちから)〉がついたんだな」

「取られる?」

「君はいわゆる『神隠(かみかく)し』に()いかけたんだよ。民俗学者の柳田國男(やなぎだくにお)も幼い頃、弟が生まれて一時的な情緒不安定状態になった時に、君とよく似た経験をしている。それで、〈力〉がなくなったきっかけのほうはどうかな?」

「それから半年ほどたってから、またひどい熱が続いたことがあったんです。両親はもう離婚していて、母は勤めに出なくてはならないので、本家の伯母が小諸から出かけてきて僕を看病してくれたんですが、熱に浮かされた夢うつつの状態の中で、枕元に坐っている人影が伯母ではなくて例の女主人のように見えたことがありました。あの甘い香りが漂ってきたかと思うと、ひんやりとした手が額をなでてくれたんです……。それにしても不思議だなあ。この夢のことも迷子になったことも、いつの間にか忘れてしまっていました。かなり印象深い出来事だったはずなんですが」

「見鬼の能力が子供の手に余るのを見かねて封じに来たのかもしれないな。〈女主人〉はよほど君のことが気に入っていたようだ」

「あの人たちは物の怪で、屋敷は別の世界にあったということですか?」

「はっきりしたことは私にも分からんよ。ただまあ、君が力を取り戻した以上、いずれ彼女と再会する機会があるかもしれないね」

 皆方はそう言い終わると、カップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。

「あの、さっきの黒い影ですが、僕にも同じようなものがついていたんですか?」と、透はこの店に入った時に感じていた激しい渇きのことを思い出して皆方に尋ねた。

「まあね。なあに、心配するようなことは何もないよ。私が見たところ、君のは季節はずれの五月病ってやつだ。大学の授業はつまらん。同級生の話題はアルバイトと就職関連の情報だけ……。ふさいだ気分のせいでろくでもないものが()いたんだな。きれいに()んでおいたから、もう大丈夫だよ」

「すみません、お手数をおかけして」

 皆方に図星(ずぼし)を指された透は、自分の顔が見る見るうちに赤くなってゆくのを感じてうつむいた。友人の死の衝撃に苦しんでいるあの女性とはなんという違いだろうと考えると、こみあげてくる恥ずかしさをどうすることもできなかった。

「別に謝るようなことじゃない。君の悩みは至極(しごく)もっともなものだよ。私はこの国をこんなどうしようもない代物(しろもの)にしたのは私達の世代だと思っているんだ。学生運動を卒業した後は政治から目をそむけ、家庭では家族、会社では同僚という仲間意識の中に安住して、出る(くい)は必ず打たれる横並(よこなら)び大好き社会を作り上げた。気にしているのは自分の見てくれや肩書きだけだという人間が、君達の手本になれるはずがあるかね? 君はお父さんと離れて育ったそうだが、他の子供だって同じだよ。今時、父親なんてどこにもいやしない。家にいるのは『パパ』とかいうお友達だけさ」

 皆方は苦虫(にがむし)()(つぶ)したような顔をしてそう言い放つと、自分のコーヒーカップを片づけ始めた。

「あの女性にもう一度物の怪が憑くことはないんですか?」

 透は皆方が席を立とうとしていることを見て取って、(あわ)ててそう尋ねた。

「亡くなった友達のことを思って心を痛めているだけならさほど心配することはないんだが、事故の直前に出かけたドライブというやつが少々気になってね……」

 皆方はそう言いながら後ろを振り返ると、カウンターの奧の壁に貼ってある関東地方の地図に目をやった。

「ドライブがですか?」

 皆方の視線を追って地図を見つめた透は、あの女性客が亡くなった友人と出かけたという伊勢原市を、例の赤い線が通っていることに気がついた。

「あの、ずっと気になっていたんですが、そちらの地図に書きこまれている線は何なんですか?」

「ああ、昔の海岸線だよ。赤は縄文時代の海進期(かいしんき)の海岸線、青は徳川幕府が手を入れ始める前の、江戸本来の海岸線さ」

「すみません、そのカイシンキというのは?」

「海が陸に侵入した時期のことだよ。最終氷河期の後で進行した地球温暖化の影響で、縄文中期のピーク時には、今より二、三メートル海面が高かったことが知られている。古代の遺跡や自然崇拝的な宗教儀式が行なわれていたと思われる場所は、面白いほどこうした古い海岸線沿いにあってね……。それにしても、パワースポットとはまた、妙な流行が始まったものだよ」

「何かまずいことでも?」

「神社の中には(たた)り神や怨霊(おんりょう)(しず)めるために建てられたものがたくさんあってね、寺院にしても、あの法隆寺でさえ、聖徳太子の怨霊を封じこめるための呪術的な仕掛けが施されているという説を唱えている学者がいるくらいだ。パワースポットも、その霊的な力が怨霊封じに利用されているものがかなりの数になる。ガイドブックを片手に観光気分で霊場巡(れいじょうめぐ)りをしようなんて考えには、正直言って賛同できないね。知り合いの宮司(ぐうじ)の話だと、流行に踊らされてやってくる参拝客の中には、目に余るほど無作法な連中が混じっているそうだし」

美瀧(みたき)神社に何かが封じこめられているんですか?」

「それはこれから調べてみないとね……。とにかく、透君、今日は君と話ができて楽しかったよ」

 皆方はそう言って微笑むと、透と握手をしようと右手を差し出した。


 皆方の言葉通り、透はそれ以上喉の渇きに悩まされるようなことはなかったが、ほとんど毎日のように『壺中天(こちゅうてん)』に顔を出すようになった。驚くほど博識な皆方が(ひま)にまかせて語る古代宗教や民俗学に関する逸話は大学の講義などよりはるかに面白かったし、この自分にも他人にも厳しい人物の、多少極端だがぶれのない言動に触れているうちに、昔の頑固親父(がんこおやじ)というのはまさにこういうものだったのではないかという気がしてきて、父親に対するような親しみを感じるようになっていたのだった。

 それにしても、商売気(しょうばいけ)のない店だということは透も承知していたが、客の少なさは想像以上だった。三人以上が同時に来店していることはほとんどなく、常連客は数人、いずれも黒や灰色の陰気な服装で、カウンター席に坐って顔をふせたまま皆方と低い声で言葉を交わすと、背中を丸めてそそくさと店を出てゆく。初めて店に入った時に彼らと居合(いあ)わせたりしたら、もう一度来店しようとは誰も考えないだろう。

 あの女性客が再び『壺中天』にやって来たのは、透が初めてこの店に足を踏み入れてから一週間が過ぎた水曜の夕方だった。

 彼女が真ん中の窓の前を横切ったとたんに、透は驚きのあまり体をこわばらせた。窓の縁に置かれていたグラスの中の澄み切った水が、突然鉛色(なまりいろ)に変わったのだ。あの黒い影はどうかと彼女の後ろ姿に目を凝らすと、首、両肩、背中に黒々とした影がまとわりついてうごめいていた。

「今日もカフェオレでよろしいですか?」と、皆方は先日と同じカウンター席に坐った女性客に尋ねた。

「ええ、お願いします」

「まだご気分がすぐれないようですね」

「毎晩怖い夢を見るせいで、よく眠れないんです」

「怖い夢?」

「ええ、それが、恐ろしくてたまらなくて目を覚ますんですけど、起きてみると、どんな夢だったのか忘れてしまっているんです」

「それはいけませんね。睡眠不足が続いては疲れが取れない」

 皆方は女性客の前にカフェオレのカップを置くと、先日と同じように、透のグラスに水を注ぎに行くふりをしながら、彼女に憑いている黒い影を取り除いた。

「ああ、美味しい」

「ところで、このあいだおっしゃっていた美瀧(みたき)神社ですが、やはり名前にふさわしい立派な滝があるんでしょうね」と、カウンターの向う側に戻った皆方が言った。

「ええ、すごく高くて幅も広いんです。私達が行った時は紅葉がちょうど真っ盛りで、最高の景色でした」

「なるほど、これは何としても一度行ってみなくては。私はものさびた神社や古代の遺跡を巡るのが趣味でしてね。滝のまわりに何か珍しいものがありませんでしたか?」

「そうですね……、滝は神社の建物の裏手にある山道を十分ほど登ったところにあるんですが、滝の左上の岩場に小さな鳥居があって、細くて急な坂道がそこまで続いていました」

「ほう、鳥居のところまで登られたんですか?」

「登ってみようとはしたんですが、最初に思ったよりもずっときつい坂で、半分も行かないうちに二人ともすっかりへばってしまいました。それでこれ以上は無理だとあきらめて引き返そうとした時、道の少し先のところに、土を盛り上げて作った一メートルくらいの高さの山があることに気がついたんです」

「おそらく、地元で山伏塚(やまぶしづか)と呼ばれているものですね。形はどんな風でした?」

「近くに行ってみると、山の頂上には細長い柱のような石があって、そのまわりには焼いた粘土(ねんど)欠片(かけら)がたくさん落ちていました」

「粘土の欠片ですか?」

「ええ。元々は土の鈴だったんだと思います。うずらの卵くらいの大きさの壊れていない鈴が一つ、ぽつんとその石の上に載っていたんです」

「壊れていない鈴が?」と皆方は意外そうに声を上げた。

「それで、その鈴はどうなさったんですか?」

「美加に、あ、友達の名前です。彼女に渡しました。私が手に取って見ていたら、すごく気に入った様子だったので……。鈴についているわらの(ひも)さえなんとかすれば、スマートホンのアクセサリーにぴったりだと言うんです」

「では、美加さんは鈴をスマートホンにつけて持ち歩いていらしたんですか?」

「いいえ。彼女のお母さんの話だと、自分の部屋に置いたままだったそうです。あの子、ちょっと飽きっぽいところがあったから、紐を取り替えたりするのが面倒臭くなったんだと思います」

「ふむ、鈴は今どこにあるんですか?」

「私の部屋にあります。彼女のお母さんから葬儀の時にいただいたんです。私達が一緒にドライブに行った事をご存じだったので、形見(かたみ)にもらって欲しいとおっしゃって」

「なるほど……。いや、長々とあれこれお聞きしてしまって申し訳ありませんでした。興味深いお話だったもので、途中で切り上げるのがもったいなくて」

「いいえ、私なんかの話がお役に立ったのならうれしいです」

 女性客は力なく微笑みながらそう言うと、カフェオレのカップをゆっくりと口に運んだ。

「マスターの()れてくださるカフェオレを飲むと、元気が()いてくるような気がするんです」

「それはよかった。是非また起こしください。このあたりにお勤めなんですか?」

「ええ。淡路町の大住(おおすみ)銀行に勤めているんです」

「それは確かにすぐ近くだ。私は皆方行雄と申します。どうかご贔屓(ひいき)に」

「大西由実です。こちらこそよろしくお願いします」

 彼女とのやり取りが一段落して程なく、皆方が今度は本当に透のグラスに水を注ぐために近づいてきた。

「透君、このあいだ()(くび)を見たと言っていたね?」

「えっ? あ、はい、そうでした」

 透はかろうじて話を合わせたものの、皆方が何のつもりでそんな話題を持ち出したのか、まったく見当がつかなかった。この話は二日前、透が大学のキャンパスで首のようなものがふわふわと飛んでいるのを見てぎょっとしたと皆方に話したのが始まりだった。

 透自身は夕闇のせいで鳥かコウモリを見間違えたのだろうと考えていたのだが、皆方は冗談交じりにそれは人の体から首が抜けて飛び回る『抜け首』かもしれないと答えると、抜け首はおなじみの妖怪『ろくろ首』の原形で、中国の『飛頭蛮(ひとうばん)』が日本に伝わったという説が有力だと付け加えた。彼の話では、マレーシアのペナンガラン、チリのチョンチョンなど、頭だけの妖怪の伝説は、世界各地に残っているらしい。

「あの後で抜け首について書かれた古い文献を調べてみると、魂が体から抜け出したのだと説明しているものが多くてね。抜け首の正体は、恨みのある相手を苦しめに行こうとしている()(りょう)なんじゃないか、そう考えるようになったんだよ」

「生き霊ですか?」

「そう。実は死霊(しりょう)よりも生き霊のほうが恐ろしい。恨みや憎しみといった生々(なまなま)しい感情のエネルギーが、絶え間なく補充され続けているわけだからね。『源氏物語』の六条御息所ろくじょうのみやすどころにしても、生き霊として現れた時のほうが、死霊になってから紫の上に取り憑いた時よりも凄みがあったと思わないかね?」

「『(あおい)』ですね? 確かにあの御息所の描写はすごいな。夢の中で繰り返し葵の上を苦しめていて、目覚めてみると葵の上の部屋で()かれていた護摩(ごま)の香りが体にしみついている。いくら髪を洗ったり着替えをしても、その香りはいっこうに落ちない……」

 皆方の話を受けて透がそう言った時、突然カウンター席でガタンという物音がした。

「すみません。手が滑ってしまって」

 いっせいに振り向いた透と皆方に向かって、大西由美が声を震わせながら言った。水が入っていたグラスがカウンターの上で倒れていたが、中に残っていた水の量はわずかで、彼女の服や床が濡れるほどではなかった。

「ああ、どうぞそのままで」

 皆方はそう言ってこぼれた水を自分のハンカチで拭き取ろうとしている由実を押し(とど)めると、台拭(だいふ)きを取りにカウンターの向うに戻って行った。

「怪談じみた話をお聞かせしてしまって、申し訳ありませんでしたね」

 そう言いながら皆方は新しいグラスを由実の前に置いたが、彼女はそれに手をつけようとはせずに、あわただしく支払いを済ませて店を出て行った。

 皆方は出口まで行って彼女を送り出すと、ドアに掛けてあった『営業中』の札を裏返して『準備中』にしてから透のテーブルに戻って来た。

「さてと、色々と聞きたいことがあるようだね。遠慮なく何でもどうぞ」

「窓辺に置かれたグラスの水が、大西さんが通りかかったとたんに鉛のような色になったんですけど」

「ああ、物の怪達が渇きを()やしたんだよ。君はどんどん〈力〉が増しているようだね」

「彼女に憑いている影の数がこのあいだより増えたようなんですが、大丈夫なんでしょうか?」

「うーん、もうしばらくさっきのような〈対症療法〉で様子を見たいと考えているところなんだよ。いきさつは大体わかったんだが、どう解決するかということになると、まだ見極(みきわ)めがついていない部分があってね」

「いきさつというのは? ドライブのことをずいぶん細かく()かれていましたね」

「あの土地では疫病(えやみ)の神は盲目だと言われていて、美瀧神社の拝殿(はいでん)(さず)かった土鈴(どれい)を鳴らしながら山伏塚に行って、そこで鈴を(くだ)いて厄落(やくお)としをする風習があったんだよ。鈴の音で疫神(やくじん)を導いて封じるわけだね。ところが、だんだん時代が下がるうちに、塚で鈴を砕かずに持ち帰って、呪いをかけようと思う相手の家にこっそりと置いてくるという邪法(じゃほう)が密かに流行するようになったんだよ。神社側にしてみれば評判にかかわるとんでもない話だからね、あわてて山伏塚に邪法を(いまし)める禁札(きんさつ)を立てたんだが、鈴を持ち帰る(やから)は後を絶たなくて、とうとう鈴を授けること自体が中止されてしまった。―とまあ、そんなことがあったのが幕末から明治の初年にかけての話でね。今となっては地元でも、邪法どころか厄落としの風習のことすら知っている人間はほとんどいないだろう」

「それが今頃になって壊れていない土鈴が出てくるなんて……。それじゃ、大西さんの友達は鈴を持ち帰ったせいで、疫神(やくじん)を招き寄せてしまったんですか?」

「どうやらそのようだね。一般に土鈴は魔除けのお守りとされていて、このような呪具(じゅぐ)としての使い方は珍しい。ただ、土鈴は祭祀(さいし)遺跡からの出土も多くて縄文時代から作られてきたからね。用途がずっと一定していたとは限らないだろう。美瀧神社の厄落としは、太古(たいこ)の時代の土鈴の使い方の名残(なご)りなのかもしれないね。ある遺跡から意図的に砕かれた土鈴の破片がごっそりと出てきたと話している知り合いもいるんだが、なにしろそいつは盗掘品(とうくつひん)を売り(さば)(やみ)ブローカーでね、どこまで信用したものやら」

 透は皆方の話を聞きながら、いつもカウンター席に坐るあの陰気な常連客達の一人がその闇ブローカーに違いないと考えていた。しかし、今はそんなことよりも、大西由実が土鈴を持っているということのほうが、明らかに重大な問題だった。

「土鈴をこのままにしておいても大丈夫なんですか?」と、透は皆方に尋ねた。

「あの呪具はすでに発動しているから、うかつに手を出すわけにはいかないんだよ。幸い、まだ彼女に強力な疫神や魔物が憑いた気配はないから、もうしばらく様子を見ようと思っている。少しばかり気になっていることもあるしね」

 皆方はそう答えながら、カウンターの上に水が入ったまま残されているグラスに目をやった。


 大西由実は一人暮らしをしている中野のマンションの一室で眠っていた。寝苦しいのか、額に汗をにじませて、ベッドの上でしきりに寝返りを打っている。

 夢の中で、彼女は駅のホームで電車を待っていた。周囲の様子から見ると、JRの新宿駅らしい。

―ちりり、ちりり……

 耳元で土鈴の音が聞こえたかと思うと、何者かにいきなり背中を突かれて、由実は悲鳴をあげながら線路に転落した。けたたましく鳴り響く警笛と、ブレーキが(きし)る不気味な金属音とともに、電車は容赦(ようしゃ)なく間近に迫って来た。

「早く!」

「急いで!」

 由実は乗客達が差し伸べた手につかまって、一刻も早くホームに戻ろうと必死でもがいたが、線路に落ちた時に両膝(りょうひざ)を激しく打ったせいか、(あせ)れば焦るほど思うように足が動かなかった。

―ちりり、ちりり……

 再び土鈴の音を耳にして足元を振り返った由実は、自分の両足にしがみついている女の姿を見て恐怖に凍りついた。その女の顔には目も鼻もなく、ただ小さな唇だけが、勝ち誇ったような笑みをうっすらと浮かべていた。

「助けて、誰か!」

 女の腕をなんとかしてふりほどこうと足をばたつかせているうちに、由実の体にベッドの感触が甦ってきた。

「今のは、夢?」

 彼女はそう独り()ちながら体を起こすと、ベッドに付いているミニライトのスイッチを入れた。全身がじっとりと汗ばんでいて、ひどく頭が重い。連日の悪夢のせいで、疲労感は増すばかりだ。ただ、今日はどういうわけか、目覚めてからも夢の内容をはっきりと覚えている。

―ちりり、ちりり……

 土鈴が今でも耳元で鳴っているような気がして、由実は窓辺に置かれたパソコンデスクに駆け寄ると、ディスプレイの脇にあった土鈴を引き出しの奥深くしまいこんだ。

―道ハツイタカ?

―イイヤ、マダ……

―ノガスマイゾ

―オウ、決シテ!

 そんなささやきがこの部屋の片隅の暗闇の中で交わされていたのだが、見鬼でない由実の耳には、それが届くことはなかった。


 ()(りょう)の話を耳にした時の(おび)え方が()を越していたので、透は大西由実がもう来店しないのではないかと密かに(あや)ぶんでいたのだが、それからわずか二日後に彼女は再び『壺中天』に姿を見せた。

「お休みなんですか?」と、彼女は皆方に頼まれて店を閉めようとしていた透に背後から声をかけた。

「ええ、皆方さんが外出中なんです。三十分程で戻れるだろうという話だったんで、僕が留守番を引き受けたんですが、つい今しがた電話があって、思ったより時間がかかりそうだから、今日はもう戸締(とじ)まりして帰るようにと言われたところなんです」

 そう答えながら由実の顔を見つめた透は、彼女の余りのやつれ(よう)に驚いて目を見張った。たった二日の間に(ほお)はすっかり()け、落ちくぼんだ目には(くま)まで浮かんでいる。

「あの、コーヒーの(たぐい)はお出しできませんが、中で少し休んで行かれたらどうですか? ひどく顔色が悪いから、水だけでも口にしておかないと」

 その場に立ち続けていることさえ辛そうな由実の様子を見かねて透がそう言うと、彼女は心底からほっとした表情を見せた。

「本当に構わないんですか? ありがとうございます。ここまで来れば休めると思いこんでいたので、当てが外れて一体どうしようかと」

「どうぞ、遠慮なさらずにお入りください。もともと僕が残っていたのは、大西さんがいらっしゃるかもしれないという話が出たからなんですよ」

「わざわざ、私のためにですか?」

「正直言って流行(はや)らない店なんで、この時間帯にいらっしゃるのは大西さんくらいのものだとも言えるんですけどね。さあ、とにかく中にどうぞ」

 由実が店内に足を踏み入れたとたんに、窓辺に置かれたグラスの水は早くも鉛色に変わった。彼女の首筋や背中は、完全に黒い影に(おお)()くされてしまっている。皆方ならこんなものはわけなくつまみ取ってしまうのにと歯がゆく思いながら、透はカウンターの奧の冷蔵庫から水差しを取り出してグラスに水を注ぐと、いつものカウンター席に坐っている彼女の前に置いた。

「まだ怖い夢をご覧になっているんですか?」と、透は両目を閉じて水を飲んでいる由実に話しかけた。

「ええ、その上、目を覚ましてからも、内容を覚えているようになりました」

「あの、もし差しつかえがなければ、どんな夢なのか聞かせていただけませんか?」

「それが、どうやら友達が列車事故に遭った時の光景らしいんです……」

―耳元で響く土鈴の音。目も鼻も無い女…… 由実は透にうながされるままに、連日繰り返し見ている悪夢の内容を事細(ことこま)かに語り始めた。

「美瀧神社で拾った土鈴が夢の中に出てきたんですね?」

 由実の話が終わった時、透はまずそのことを確かめた。

「ええ、どうしてなのかよく分からないんですけど……。今こうしていても、まだかすかに鈴が鳴っているような気がするんです」

 一刻も早く土鈴を由実から引き離さないと、完全に手遅れになってしまう。そう考えた透は、美瀧神社の呪いのことを残らず彼女に話そうと決心した。

「大西さん、今度は僕の話を聞いていただけますか?」

「あ、はい」

 由実は透の思いがけない言葉に一瞬とまどいを見せたが、彼の真剣な表情を見て静かにうなずいた。

「今はもう(すた)れた風習なんですが、あの美瀧神社には……」

 こんな現実離れした話に、由実からどんな反応があるのか、透にはまったく見当がつかなかった。わずかな表情の変化も見逃すまいと、透は彼女の顔をじっと見つめたまま話し続けた。

「あの子が事故に遭ったのは(のろ)いのせいで、その呪いが私に降りかかっていると……?」

 透の話を聞き終えた由実は青ざめた顔をして、自分に言い聞かせるようにそう言った。

「ええ。とても信じられないでしょうが」

 しかも、亡くなった友人の死霊が彼女を死の世界に引きずりこもうとしているのだとつけ加えようとして、透はその言葉を飲み込んだ。呪いが解けさえすれば死霊も力を失うはずだから、死者に鞭打(むちう)つことになるような話は避けようと考えたのだった。

「とにかく、あの土鈴を僕に預けていただくわけにはいきませんか?」

「ええ、構いませんけど、そんな怖いものをどうするおつもりなんですか?」と、由実は不安そうに尋ねた。

「大丈夫、無茶な真似は絶対にしませんから」

 透は勢いこんで自分の計画を彼女に語って聞かせた。

「僕が近くの神社に土鈴を持って行って、皆方さんに来てもらいます。神聖な場所で土鈴を砕けば、疫神を封じることができるはずだと思うんです。本来の厄落としがそうだったわけですからね。もちろん、実際に神社で土鈴をどうするかについては、皆方さんに相談してから決めます。ところで、大西さんはどちらにお住まいですか?」

「中野駅のすぐ近くです」

「家族の(かた)もご一緒に?」

「いいえ、この春からマンションを借りて、一人暮らしを始めたところなんです」

「なるほど。それで、近くに神社はありますか?」

「ええ、歩いて十分足らずのところに『北野神社』という神社があります」

「それは近くて助かるな! じゃ、皆方さん宛てに伝言を書いたら出かけることにしましょう。今時(いまどき)信じられないでしょうけど、あの人ときたら、携帯やスマートホンが大嫌いで持っていないんですよ。まあ、この店のオーディオも、CDじゃなくてアナログのレコードですからね」

「ええ、なんとなく分かるような気がします」

 皆方のうわさ話になって少し気が楽になったらしく、由実はその日店にやって来てから初めての笑顔を見せた。


 透は由実とともに彼女のマンションの前でタクシーを降りた時、エントランスの脇の植え込みの前に、幼稚園児くらいの背丈(せたけ)の黒い影がたたずんでいることに気がついた。急いで目を凝らしてあたりを見まわすと、路地の入口やゴミ収集所の前の薄闇の中にも、同じような黒い影が潜んでいた。時刻はすでに午後七時をまわっている。

 見鬼とは言ってもまだ未熟な自分の目にこれだけ見えるとなると、実際に集まってきている物の怪達の数は一体どれ程なのか? 無数の物の怪達が百鬼夜行(ひゃっきやこう)さながらに列をなして、我も我もと由実の部屋に押し寄せてゆく…… そんな妖怪画(ようかいが)そのものの光景がまざまざと脳裏に浮かび、透はあわてて目を閉じながら頭を振った。

「大西さん、お部屋はどちらですか?」

「三階の三○六号室です」

 一人暮らしの女性の部屋だし、透としては土鈴を持ってくる役目は由実に任せて、自分は入口で待つつもりだったのだが、体調が優れない上に呪いの話ですっかり(おび)えてしまった由実は心細くてたまらない様子で、一人で部屋に入ってゆくことなどとてもできそうになかった。

「よろしければ僕が先に入って、何か危険がないか確かめて来ましょうか?」と憲司は由実に尋ねた。

「すみません、そうしていただけますか?」

「ええ、では失礼して」

 彼女のマンションの間取りは六畳の洋室に広めのキッチンがついた1Kだった。透は物の怪どもが中でひしめきあっていようが、これまで通り何も見えないふりを続けるだけだと自分に言い聞かせた。しかし、いざドアを開けてみると、室内は平穏そのもので、怪しいものの気配など(ちり)ほどもなかった。透はすっかり拍子抜(ひょうしぬ)けしてあたりを見回した。

「どうやらおかしなものはいないようです。ただ、さっきエントランスや階段のところであやしげな影を見かけましたから、さっさと片をつけてしまいましょう」

「ありがとうございます。すぐ済みますから」

 由実はキッチンと洋室の境にいる透の前を足早に通り過ぎると、窓際に置かれたパソコンデスクの引き出しを開けた。

―あとは受け取った土鈴を鳴らしながら北野神社に行くだけだ。由実の後ろ姿を見守りながら、透がもうほとんどすべて片づいたような気分でそう考えていた時、彼女の困惑したつぶやきが聞こえてきた。

「どうして? ここにしまったはずなのに……」

 由実は引き出しの中だけでなく、デスクの周囲も(くま)なく捜したが、土鈴を見つけることはできなかった。生真面目(きまじめ)な性格の上に透を待たせているせいで、彼女の狼狽(ろうばい)ぶりは見ているほうがつらくなるほどだった。

「大西さん、ちょっとした物をよく置く場所って、他にもありませんか?」と、透は見かねて由実に声をかけた。

「他の場所ですか?」

「ええ、いったん土鈴をそこにしまったのは確かでも、片づけの都合か何かで、無意識に置き場所を変えたのかもしれませんよ。僕なんか家の中で帽子が見つからなくなるのは毎度のことで、そのたびに三つくらいの候補地を巡り歩いてますからね」

「わかりました。そうですね、これだけ捜しても見つからないんだから、堂々巡(どうどうめぐ)りなんかしていないで、他の場所をどんどん調べたほうがいいってことですよね」

 由実はほっとした表情でそう答えると、玄関口の下駄箱の上に置かれた小物入れを手始めに、土鈴が見つかりそうに思える場所を片端から調べて回り始めた。

「バスルームにもありませんでした」

 小声でそう言いながら部屋に戻ってきた由実は、ベッドの脇に置かれた背の高い本棚に目をやるなり驚きの声を上げた。

「いやだ、あんな所に!」

 すばやく彼女の視線を追った透は、本棚の最上段の左隅にぽつんと載っている、素焼(すや)きの小さな鈴に気がついた。

「あれが問題の土鈴ですね?」

「ええ」

 納得がいかなそうな表情を浮かべたまま、由実は本棚の前に進み出た。

「わざわざこんな高いところに置いた覚えはないんですけど……」

 そう言いながら、彼女が土鈴を手に取ろうと伸びあがった時、突然ベッドの下から(ねずみ)ほどの大きさの黒い影が飛び出してきた。

「危ない!」

 透はあわてて叫んだが、すでに手遅れだった。由実が黒い影に足を取られてバランスを崩すと、土鈴は彼女の指先からすべり落ちて、フローリングの床にぶつかって粉々に砕け散った。と同時に、まるでこの瞬間を待ち構えていたかのように、床、天井、壁のあらゆる部分から黒々とした不気味な影が一斉(いっせい)に染み出してきて、瞬く間に洋室やキッチンを覆い尽くした。

「すみません! 私ったら、何てことを」

「いえ、謝るのは僕のほうです。物の怪たちの(わな)にまんまとはまりこんでしまった。僕らにここで土鈴を砕かせるのが、最初からやつらの狙いだったんです。呪いを解きに来たつもりで、逆に完成させてしまうなんて」

 透がそう言いながら由実のほうに歩み寄ろうとした時、突然頭上でずしんずしんという、天井全体を震わせるような騒音が始まった。最初は地震かと疑ったのだが、震動しているのは天井だけで、床や壁などは微動(びどう)だにしていなかった。まるで巨大な何者かが真上の部屋で、床を踏み破ってやろうと飛び跳ねているかのようだ。

「ここは危険です。とにかく外に出ましょう」

「ええ」

 透が由実の後に続いて玄関口に向かおうとした時、食器棚から皿やグラスが雪崩(なだれ)を打って飛び出してきて、粉々になった破片がキッチンの床一面に散乱した。

「透さん、大丈夫ですか?」

「ええ。大西さん、早く外に!」

 由実だけでも先に逃がそうと透が叫んだ時、彼は天井からどす黒い液体が(したた)り落ちてきて、玄関の上がり口に水たまりを作っていることに気がついた。水たまりからは腐臭(ふしゅう)が、それも、単に何かがそこで腐っているというのではなくて、その黒い水そのものに腐敗をもたらすおぞましい力があるのではないかと思わせる異様な臭気が立ち上って、周囲の空気を(おか)していた。

「気をつけて! 足元に何かあります」

 透はそう叫んだが、水は彼にしか見えないらしく、由実は何を言われているのかまったく分からないようだった。

「えっ、足元ですか?」

 不安気にそう聞き返しながらわずかに踏み出した足先が水たまりに触れ、彼女は何者かに見えない(ふち)の底に引きずり込まれるかのようにその場に倒れた。

「大西さん!」

 幸い由実は頭を打ったり怪我をしたようには見えなかったが、自分が何に足を取られたのかと後ろを振り返ったとたんに、その表情は恐怖に駆られて凍りついた。彼女の視線の先には黒い水たまりがあったが、彼女がそこにどんなものを見ているのかは、見鬼の透にも見透(みとお)すことができなかった。

 激しかった天井の騒音はいつの間にかふっつりと止んでいた。透は打って変わった静けさが支配する洋室から、何者かが得意気(とくいげ)にささやきあう声が()れてくるのを耳にした。

―道ガツイタナ

―オウ、ツイタツイタ

 胸騒ぎを覚えながら、透が声の出所の方に向き直ると、洋室の真ん中あたりの床の上で、得体(えたい)の知れないものが次第に形を取り始めていた。

 最初に形がはっきりしたのは頭で、それを押し上げるようにして胸、続いて腹部が現れた。その〈異形(いぎょう)のもの〉は、まるで舞台で使うせりだしに乗って、床下からゆっくりと上ってくるかのようだった。頭には一本の髪の毛もなく、頭も顔も茶褐色のできものにびっしりと覆い尽くされていて、どこに目や鼻があるのかまったく分からなかった。身につけているのは襤褸切(ぼろき)れ同然の短い灰色の寝間着(ねまき)で、()き出しになった手足はできもののせいで奇怪な模様が描かれているかのように見えた。

 〈異形のもの〉が横に長く裂けた口を開け、両腕を前に突き出して足を引きずりながら進んでくる姿を目にして、透は皆方の言葉を思い出した。

疫病(えやみ)の神は盲目……

 得体の知れない異形のものの正体は、これまで彼のまわりにいた物の怪など可愛く思えるほどの、強力な呪力を備えた疫神(やくじん)だったのだ。

―オマエハモウ、動ケナイ

 何者かが透の耳元で(うれ)()にそう(ささや)いたかと思うと、突然首の付け根が火照(ほて)り始め、瞬く間に手足の感覚が遠のいていった。もし透が自分の首のあたりを見ることができたら、黒い影がまとわりついていることに気がついただろう。もっとも、こうして金縛(かなしば)りのような状態に(おちい)ってしまってからでは、影が見えたところでどうすることもできはしなかっただろうが……。


―ちりり、ちりり……

 砕け散ったはずの土鈴が鳴っている。由実は駅のホームから転落して線路の上に倒れていた。電車がすぐそこに迫っている。早くホームに上がらなくては。しかし、いくら(あせ)っても足がまったく動かない。あの女の仕業(しわざ)だ……。恐ろしい力で足にしがみついている女に、由実は声を振り(しぼ)って懇願(こんがん)した。

「お願い、手を離して!」

 女が無言のまま顔を上げた途端(とたん)に、由実は両手で目を覆いながら悲鳴を上げた。残酷な笑みを浮かべて暗闇の底からこちらを(うかが)っていたのは、美加に対する秘められた憎悪を()き出しにした、彼女自身に(ほか)ならなかった。


 疫神はあと一歩踏み出せば透に手が届く所まで進んできていた。透は全身の感覚をほとんど失ってしまっていて、逃げ出そうにも身動き一つできなかった。背後では由実が何か叫んでいたが、今の透にとっては、彼女の言葉は遠い彼方(かなた)からかろうじて耳に届く、意味のぼやけた奇妙な音の連なりに過ぎなかった。

 ふいに疫神は透を抱きかかえようとするかのように両腕を左右に広げると、すでに開けていた口をさらに大きく開いた。このままでは疫神にひと飲みにされてしまうことは明らかだったが、体の感覚だけでなく恐怖心までが麻痺(まひ)してしまっているのか、疫神の喉の奥の赤黒い闇が眼前(がんぜん)に迫ってきても、透は自分が蜘蛛(くも)餌食(えじき)になる虫のようだなどと、まるで他人事のようにぼんやりと考えていた。

「しょうがないわねえ、力が戻るなりこんな無茶をするなんて」

 どこからともなく聞き覚えのある女性の声がして、あの夏の日に〈女主人〉の着物から漂ってきた甘い香りが透の体を包み込んだかと思うと、彼は突然全身の感覚と思考力が蘇るのを感じた。

 見鬼の透にとっては、体が自由に動きさえすれば、盲目の疫神から身をかわすのは造作(ぞうさ)もないことだった。彼は疫神の腕の間を難なくすり抜けると、床に散乱した破片を踏まないように用心しながら、玄関口で倒れている由実のもとへと急いだ。

「大西さん、大丈夫ですか?」

「私が美加を(のろ)ったんだ。親友だなんて嘘。私はずっとあの子が大嫌いだった。すぐ飽きるくせに、何でもやたらに欲しがって…… 村木先輩の事だってそう。趣味だって話だって、合うはずないのに…… でも、あれが私? あの鬼のような顔は何? ふふふ…… 知ってるわ。あの子だって私のことを友達だなんて思ってなかった。何でも言うことを聞くから、遊び相手にちょうどよかっただけ。いつも心の中では私のことを馬鹿にして笑っていた……」

 由実は透のことなどまったくお構いなしで、突然泣き出したり笑い出したりを繰り返しながら、()()めもなく延々と話し続けた。

「お仲間が来たようだし、もう安心ね。いいこと、あなたにはこれで一つ貸しよ。無鉄砲(むてっぽう)な真似は絶対に(つつし)むこと」

「仲間?」

 〈女主人〉の言葉を再び耳にした透はそう聞き返しながらあたりを見まわしたが、彼女の姿どころかあの疫神や物の怪達の姿も、今はもうどこにも見当たらなかった。

 透は流し台の脇に置かれていたモップを見つけてグラスや皿の破片を片づけると、由実を洋室に連れて行ってベッドの(ふち)に坐らせた。

「何が起こったのかよく分かりませんが、とにかくもう危険はないようです。ちょっと外の様子を見て来ますから、大西さんはここにいてください」

 仲間というのは皆方のことに違いない。透はそう考えて由実に声をかけたのだが、彼女のほうは視線を宙にさまよわせたまま、熱に浮かされたように先ほどと同じ話を繰り返すばかりだった。

「私が美加を呪ったんだ……」

 共用廊下の手すり越しにマンションの前の道路を見下ろした透は、自転車置き場の前に立っている皆方を見つけるなり階段に向かって走り出した。

「どうやら間に合ったようだね。大西さんも無事かい?」

 透がエントランスから姿を見せると、皆方はそう声をかけてきた。暗褐色(あんかっしょく)のオーバーコートを着て、左手に持った素焼(すや)きの土鈴を時々鳴らしている。その音に引き寄せられているのか、彼のまわりにはおびただしい数の物の怪達がひしめきあっていて、透はそれ以上近づくことができなかった。一つ目のもの、三つ目のもの、長い紐のような舌をひらひらと口からのぞかせているもの…… 今しがた疫神を間近で見た影響があるのか、いやにはっきりと物の怪達の姿が見えた。

「ええ、無事です。美加さんを呪ったのは自分だとしきりに繰り返していますが」

「ふむ、それはいい兆候(ちょうこう)だ」

 皆方は(こと)()げにそう言うと質問を続けた。

「それで、例の土鈴は?」

「物の怪達に邪魔されて、粉々に砕けてしまいました。あいつら、僕らが土鈴を運び出そうとする瞬間を初めから狙っていたようなんです」

「なるほど、すんなり持ち出せるはずがないとは思っていたが、そういう手で来たか」

「その土鈴はどうなさったんですか?」

「今日出かけていたのはこいつを手に入れるためだったんだよ。くだんの闇ブローカー氏が完全な状態の出土品を一個だけ持っていてね。かなり吹っかけられたが、正直なところ、これがなかったら手の(ほどこ)しようがなかった。まあ、盗掘品も時には役に立つことがあるってわけだね」

 皆方は軽く冗談めかした口調でそう言うと、もう一度土鈴を鳴らした。

「さてと、私はこの連中を北野神社までご案内申し上げてくるから、君は大西さんと一緒にいてくれるかい? こっちの片がついたら私も顔を出すよ」

「わかりました」

「部屋の番号は?」

「三階の三○六号室です」

「了解。では後ほど」

 皆方がそう言って神社に向かって歩き出すと、物の怪達の一団もその後に続いた。宙を飛んだり、蛇のように地面を()ったり、ごく普通に歩いたり、体のつくりによって進み方も様々だった。透があの疫神はどこかと捜してみると、行列から少し遅れて足をひきずりながら歩いている姿が見えた。ゆっくりとではあっても、土鈴の音を追っているのは確からしい。

「百鬼夜行の先頭を行く男か……。あの人もちょっと物の怪っぽいところがあるような気がするなあ」

 夜道を次第に遠ざかってゆく皆方の後ろ姿を見守りながら、透はそうつぶやいた。


 皆方が北野神社から戻ってくるまでの一時間ほどの間に、由実はかなり落ち着きを取り戻し、透は徐々に話の脈絡(みゃくらく)をたどることができるようになった。

 事故死した美加が最近付き合っていた村木という男性は、高校時代に彼女らが入っていた吹奏楽部の先輩だった。今は音楽雑誌の編集者になっていて、入手困難な公演のチケットを押さえることができるので、よく由実と美加を誘ってコンサートに行っていたらしい。

 由実は高校生の頃から村木に好意を持っていたのだが、内気な性格のせいで打ち明けることができなかった。もし告白して受け入れてもらえなければ、こうして会うことさえできなくなってしまう。そんなことになるくらいなら、このまま先輩と後輩として、気持ちのいい付き合いを続けたほうがいい。彼女はそう自分に言い聞かせて、ひたすら本心を隠し続けていた。

 ところが三ヵ月ほど前、どういう気まぐれを起こしたものか、美加が突然村木にアプローチして二人の交際が始まった。と言っても、元々彼らは水と油ほど性格が違っていて、ほんの数回デートを重ねただけで彼らの関係はあっさりと破綻(はたん)した。とんだ巻き添えを食うはめになったのは由実で、美加と由実が親友同士だということを知っている村木は、由実だけをコンサートに誘うのも気恥(きは)ずかしくて、美加だけでなく由実とも疎遠(そえん)になってしまったのだった。


 神社から戻ってきた皆方が、由実に両親の家に帰るか家族の誰かに来てもらってはどうかと尋ねると、彼女は意外なほど素直にスマートホンで母親に電話をかけた。娘から体調が悪いと聞かされると母親は大慌(おおあわ)てで、立川市から車で迎えにくるという話になった。由実は当面両親のもとで静養することになるだろう。

「それでは私達はこれで。大西さん、またいつでも店においでください」

 皆方がそう言って透をともなって立ち去ろうとした時、それまでは(うつ)ろな表情のまま短い言葉を返すだけだった由実が、ふいにベッドの縁から立ち上がると、じっと彼の目を見つめながら話しかけてきた。

「皆方さん、私が美加のことを憎らしいと思いながら鈴を渡したせいで、あの子にひどい呪いがかかってしまった。―そういうことなんでしょうか?」

「ええ、そのようですね」と、皆方も彼女の目を見つめながら答えた。

「さっき玄関口で転んで意識を失くした時、自分が線路の上で恐ろしい顔をして足にしがみついているところを見たんです……。事故に遭った時、美加も同じものを?」

「おそらくは」

「そうですか……」

 それ以上は何も言おうとせずに、由実は静かに両目を閉じてその場に立ち尽くした。


「かなりひどいショックを受けているようでしたけど、大西さんをこのままにしておいて大丈夫なんでしょうか?」

 皆方と肩を並べて中野駅に向かいながら、透はそう尋ねた。夜が更け、夕暮れ時からの冷えこみが一段と厳しさを増している。

「私たちがしてやれる事なんて何もないさ。苦しんで苦しんで、どんなに時間がかかろうと、自分で心の整理をつけるしかない。とは言え、彼女は自分の本心と向かい合うという、重要なスタート地点に立つことができた。まあ、君の〈暴走〉が怪我(けが)功名(こうみょう)になったというところかな」

 皆方がからかうような口調でそうつけ加えると、透は顔を真っ赤にして頭を下げた。

「勝手な事をしてすみませんでした。呪いをかけられた仕返しをしようと、美加さんの霊が(ねら)っているんだと思いこんでしまって」

「仕方ないさ。君なりに最善だと信じてやったことだ。私の段取りが狂ったせいでもあるしね」と、皆方は白いハンカチの包みを右手で(もてあそ)びながら言った。包みの中には、由実の部屋で拾い集めた土鈴の破片が入っている。

「美加さんだけじゃなく、大西さんも気の毒だなあ。あそこに土鈴さえなければ……。誰にだって人を憎む気持ちはあるのに」

「彼女を責める資格のある人間なんてどこにもいやしないさ。あの土鈴がどんなものなのかさえ知らなかったわけだしね。だが、彼女の救いになりそうな言葉など、私には到底見つけられない。あれは〈魔〉が引き起こした事故だが、〈魔〉を呼び寄せたのは、彼女が親友に対して密かに(いだ)き続けていたわだかまりだ。彼女もすでにそれを自覚している。冷たい事を言うようだが、結局、彼女を救えるのは彼女自身だけだよ」

 皆方の言葉は冷静そのもので厳しかったが、大西由美にはこれから続く苦しみに耐えるだけの強さがあると確信しているようにも感じられた。

「それにしても、由実さんが美加さんを憎んでいたなんてことが、なぜお分かりになったんですか?」と、透は先日の皆方とのやり取りを思い出しながら尋ねた。わざと由実に聞こえるように()(りょう)の話を持ち出して、彼女の反応を探っていたに違いないのだ。

(ゆう)に君の三倍を越える年月を生きてきたんでね、おのずとそれなりの観察眼も備わったというだけの話さ。とにかく、二人とも無事で何よりだった」

「あの〈女主人〉に助けてもらわなかったら、どうなっていたか分かりません。疫神の前で完全に身動きできなくなっていた時、あの人の声がして甘い香りが漂ってきたと思ったら、体が自由に動くようになったんです」

「ほう、疫神をあっさり出し抜くとはね。やはりただ者じゃないな。私も一度は会ってみたいものだ」

「僕は彼女に一つ借りができたんだそうです」

「そりゃ驚きだな。透君、君はずいぶん彼女に目をかけられているようだ」

「そうなんですか?」

「もちろんさ。貸し借りを口にするというのは、これからも君を見守ってゆくつもりだということだよ。ただし、だからといって、彼女を当てにして今日のような無茶を続けたりすると、きついお(きゅう)をすえられることになるからね。ご用心、ご用心……」

「は、はい、わかりました」

 透が先程からかわれた時よりもさらに赤い顔をしてそう答えると、皆方の言葉にその通りだという合図を送ろうとしているかのように、甘い香りを含んだ夜風が、二人の間を軽やかに吹き抜けていった。

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