ディア・ドーター
「戦いの趨勢を決めるのは、彼我の戦力差じゃない。その使い方だ。創造主を気取るなら、それを学んでからにしろっ」
俺はハッタリをかます。心理戦も、立派な戦いだ。
挑発に怒りを覚えても、怯んでくれてもいい。
冷静さを少しでも欠いてくれれば、そこからつけ込める。
ふうっ。まおは大きく息を吐く。
「なるほど、貴方は大した戦略家です。圧倒的不利な状況を覆す、その術に長けています。けれど、それまでです。相手の戦力を半減させ、自分の戦力を倍加さす事は出来るでしょう。……でもね、無から有は創り出せません。ここは有が無となる世界。所詮、無駄な足掻きです」
感情の抑揚がない声で、まおは平坦に話す。
「私は、何を焦っていたんでしょうね。ちづ様の力を解放すれば、誰にも阻むことは出来なかったのに……。ナミさんの姿を見て、昔の、ヒトで在った時の感覚に囚われてしまいました。いま、この場で決着をつけたい。そんな気持ちに襲われました。よく考えれば、どうでもいい事だったんです。どうせ時間は巻き戻る。ならば悠久の時が過ぎようと、貴方たちが生きていようと死んでいようと、どうでもよかった……」
まおの意識が変わりつつあった。限りある生に縛られる生物から、悠久の時を生きる神の視点に。
神話に語られる、全世界を見渡す『神々の高座』に、いま着こうとしていた。
「世界の改変を行います。天地開闢の再来を…………」
まおへと引き寄せられる力が一層強くなる。
俺たちは神器を使い、押し寄せる重力を中和しているが、ここに留まるのが精一杯だ。
引き寄せられる大岩が見る見る圧し潰され、砂となり、塵となり、まおに吸い込まれてゆく。一体あの塵の重さは如何ほどあるのだろう。
俺たちは必死に踏みとどまる。
横からつぐみの声が聞こえてくる。
「空間を……見てください」
世界が、折り畳まれていった。
よじれていた超楕円曲面が、真っ直ぐな平面に変わってゆく。
立体的な穴は閉じてゆき、面は線に、線は点に集約してゆく。
すべての次元が、特異点に飲み込まれていった。
「いま、原始宇宙へと還ろうとしています……」
つぐみは怯えた声をだす。
「あいつは、宇宙を消滅させようとしているのか……?」
「いいえ。まおがしようとしているのはその先、――新たな宇宙の誕生です――」
「とんだ創造主サマだ!」
俺たちは世界創造を特別席で見せられているのか。
「兄さん、あのモザイク群を覚えていますか? あの数多の世界を内包した――」
つぐみは視線をまおに向けたまま、独り言を言うみたいに呟く。
「私はこれまで、ずっと考えていました。あの中の亡んだ世界はどうなったのだろう、無に帰したのか、亡霊の渦まく世界となったのか……。答えは出ませんでした。でもタクラマカンの砂漠で煉獄に堕ちたとき、初めて理解しました、『死の世界』というものを!」
静かに語っていたつぐみの声が、段々と恐怖の色に染まってゆく。
「孤独で、冷たく、後悔だけが繰り返す、未来の無い世界――。それが『死の世界』です」
つぐみが何百年、何千年と囚われていた牢獄――『死の世界』。
「私たちの神器は、その世界と繋げる装置です。その世界のエネルギーを取り込む事も、この世界のエネルギーを送り出す事も出来ます。そして異世界との繋がりを断ち切る事も……」
つぐみの言いたい事が見えて来た。
「こんな馬鹿げた質量、山の一つや二つで賄える訳がありません。異世界からのエネルギーを、まおは利用している筈です」
戦いは相手を打ちのめすだけじゃない。その存在を支える物を崩すことは、とても大切な事だ。
「ちづの亡骸、あれが異世界との連結器です」
つぐみは言いきった。俺たちの攻撃目標を。
「ちづを、解放してあげましょう。輪廻から、憎しみから…………」
悲しそうに、苦しそうに言葉を紡ぐ。目に、うっすらと涙が滲んでいる。
つぐみの持つ剣が、鈍く光った。
「私たちの神器で、『まお』と『ちづ』を切り離しましょう。それで、終わりです。……すべてが」
自分に言い聞かせるみたいにつぐみは言う。
「兄さんの槍で、前方の異常空間を破壊してください。それで距離を詰めます。そして私の剣で、ちづを切り離します。ちづの魂が宿った剣……。これならば、それが出来ます」
自分の手で、ちづを葬ろうというのか。ジョチを殺めた、あの時と同じように。
「水瀬、あなたは重力波の中和と座標特定をお願い。まおの重力は、近づけば近づく程巨大になる。それを撥ね返し、歪んだ空間で位置を割り出すのは至難の業。頼むわ。この作戦の成否は、あなたにかかっているの」
つぐみは水瀬の手をしっかりと握る。
「……はい」
水瀬は静かに、落ち着いた雰囲気で答える。
なにか……違和感を感じた。いつものあいつなら、狂喜乱舞して飛び跳ねるはずなのに。
「行きましょう」
つぐみの声に従い、俺たちはまおへと歩を進める。
無音の世界で、轟々とする音が聴こえるようだった。
すべての物が引き寄せられ、まおへと吸い込まれていった。
最早まおは、俺たちを一顧だにしない。
淡々と、世界の改変を進めていた。
「あいつ、お前の中の受精卵を諦めたのか?」
俺はまおの思惑を推し量る。
「諦めたのとは違うでしょう。割り切ったんだと思います。こうしていれば、いずれ私も吸い込まれる。吸収した後、取り出せばいいと思っているんでしょう。口に入った魚の骨を取り出すみたいに」
「……イヤな例えだな」
「急ぎましょう。時間はもう、残されていません」
これまで何度も経験した、世界が終わる瞬間の匂いが漂ってきた。
俺は槍を振りかぶる。
無数の重力の矢が飛んで来る。
「うおっ――」 雄叫びをあげ、紫電と共にすべてを薙ぎ払う。
「いけ、つぐみ! 道は俺が切り開く」
つぐみの望みを叶えるべく、俺はありったけの力を出した。
ゆらゆらと揺れる、まおの姿が見えてきた。
つぐみはその姿を無視し、見当違いの場所に突進してゆく。
「効きませんよ、そんな技。重力レンズで像を歪めたって、意味はありません。貴方のちづの亡骸、私の剣に宿るちづの魂、共鳴しているんですから。貴方がちづの力に頼る以上、私の感知から逃れられません」
これが、不本意ながらつぐみに頼らなければいけない理由だ。
まおを追い詰め屠るのは、つぐみ以外に出来ない。
俺たちの接近に、まおは一層重力を強める。
「なめんなよ。俺の息子『モードレッド』の力を!」
穂先を強まる重力に当て、破壊する。ここにはモードレッドの魂が宿っている。こいつは、つぐみの剣と同じ『神器』なんだ。
つぐみは、目睫の間まで迫った。
「ちづ、もう苦しまなくていいんだよ」
つぐみの剣が一閃する。
まおとちづを繋ぐ八本の管の右半分、四本の管が切り裂かれた。
まおの躰から、膨大な力が漏れてゆく。
「ゆっくりと、おやすみ……」
つぐみは剣を引き寄せ、残りの管に狙いをつけ、振りかぶる。
終わった、すべてが。
そう思った瞬間である。つぐみの動きが、止まった。
つぐみの腕を、水瀬が押えている。
顔を俯け、その表情を隠した水瀬が、何も言わず、ただつぐみの腕を押えていた。
「……水瀬?」
つぐみは戸惑いの声を漏らす。
「ごめんなさい…………。この子を、まおを殺すこと、私にはやっぱり出来ません」
水瀬は震えている。
その表情は窺い知れない。
だが俺たちは見える。水瀬が涙を流しているのが。
「やりたくないじゃないんです。出来ないんです。…………私のなかのナミが、承知しないんです」
水瀬の声は、涙に塗れている。哀しみに塗れている。
「あの子は、まおは、私の娘なんです。芽衣としての私とは、何のつながりも無いかもしれません。けど、つながっているんです。ナミとしての私が、深く、断ちがたく、魂が――」
水瀬はつぐみの腕を離す。
顔を俯いたまま、まおに近づいてゆく。
俺とつぐみは何かに縛られた様に、動く事が出来なかった。
水瀬はまおの許に辿り着く。
俺たちからはその背中しか見えない。哀しみを叫ぶ背中しか。
水瀬はゆっくりとしゃがみ、まおの頬を指で撫でる。
「……ごめんなさい」
そう言いながら、水瀬はまおを抱きしめる。
誰に対して言ったのだろう。つぐみか? 俺か? それとも……。
「……ナミさん」
掠れるようなまおの声がする。
「一緒だよ、これからずっと……」
切ない水瀬の声が優しく響く。
「嬉しい…………」
小さな、振り絞るような、感情そのものの声が零れる。
まおは、小さくなってゆく。
内に、内にと縮んでゆき、そして黒い点となった。
点は、水瀬の躰に入っていった。
迂闊だった。よく考えれば気づいた筈だ。ヒントは散りばめられていた。
八つ頭の大蛇を倒し、その体内から『所有者に叢雲を呼び寄せる剣』を取り出した貴神。
黄泉比良坂で常世への怒りに燃え、一日千人の人間を殺すことを誓い、天津神から反転して冥府の神となった、イザナミ。
時空が交錯するのならば、この日のことが伝承として残っていても不思議はなかった。
水瀬は静かに、こちらを振りかえる。
その瞳は、揺るぎのない決意に彩られていた。
「ごめんなさい、つぐみお姉さま、樹さん…………。私はこれから、あなた達の敵となります!」
最悪の敵が、誕生した。