歪曲空間
「嫌悪でもなんでもいいですよ。ナミさんから向けられる感情なら、なんでも。それだけ私を想ってくれてるって事ですよね。……嬉しい!」
強がりでもなんでもなく、満面の笑みでまおは感情を吐露する。歪んだ、狂気とも云える感情を。
「貴方は、自分のやっている事の意味が解っているの。世界を憎み、壊し、それでどうなるっていうの!」
水瀬は抑えきれない感情の波をまおにぶつける。
「これは、ナミさんが望んでいた事でしょう。非業の死を遂げた同胞への弔いを、あいつらへの復讐を」
さっきまでの感情に溢れた声ではない。静かに、冷たく、まおは言う。
「今でも覚えています。ちづ様の躯を穢されると聞き、憤怒に燃えるナミさんを。復讐を誓い、唇を噛みしめるナミさんを。幼心に、恐怖を感じました。けれど理解しました。これは赦されざるべき事だ、罰を受けて然るべき事だと」
淡々と、感情を入れず、それだけに揺るぎのない意思を込めた声でまおは語る。
「それは、私じゃない!」
「ナミさんは、いつもそう言うんですよね、『それは、私じゃない』って。おはぎをつまみ食いした時も、目を離して魚を焦がした時も、間違って私の髪を切り過ぎた時も、いつもそう言ってましたよね」
愛おしそうにまおは笑顔を溢す。
「それは……私じゃない……」
水瀬は誰もいない場所に視線を向ける。目は泳いでいた。
…………おい。
「うふっ。昔通りですね、ナミさん! 誤魔化す時にぷいっと顔を背ける仕草も、語尾が小さくなる所も、昔通りですっ」
まおは懐かしそうに目を細める。
「楽しいお喋り、まだまだ続けたいんですけど、そろそろ潮時です。……お仕事の時間です」
まおはきっと眉をあげ、口を引き締め、鋭い目線を向ける。
たゆたうように躰を動かし、脚を前に進めた。
来るっ。俺は前に飛び出し、つぐみと水瀬を庇うように槍を構える。
彼女たちから離れた瞬間である。身体の右半分は左に、左半分は右に、そして足はつま先に、見えない巨人に引っ張られるみたいな途轍もない力が加わった。
「ぐぉぉぉぉぉ――」
意識が、飛びそうになる。
「な――にやってんですか。まったく」
水瀬の声がした。俺の腕をしっかりと持ち、自分の身体に引き寄せる。
途端に、引きちぎられるみたいな力が消えた。
「ここの重力は一定じゃないんです。聖槍『ロンゴミニアド』で重力を撥ね退けていたみたいですけど、細かい調整までは無理です。私みたいに八本の媒体で微調整しないと。……私から離れないでください。半径3メートル以内は安全圏です。そこから外れると、スパゲッティみたいに引き延ばされますよ」
ぞっとしない話だな。一昔前のアニメじゃあるまいし。
そんな俺たちを嘲笑うみたいに、まおが近づいて来る。
悠然とした微笑みを浮かべ、漆黒の鎧を揺らせながら。
不意に、まおの姿が消える。
馬鹿な。前兆は、無かった。
超高速移動するにも瞬間移動するにも、切り替えの瞬間と云う物が存在する。
非力な俺がこれまでどうにかやってこれたのは、そういった物を見極めてきたからだ。
それが、一切感じられなかった。
「こっちですよ。なに面食らった貌してるんです?」
俺の左斜め後ろに、まおはいた。さっきまでと同じ姿勢で同じ歩幅で、一連の変わらぬ動きで。
そしてまた、まおが消えた。
今度は俺の右斜め前に現われた。歩いている方向は俺たちと平行に、横切るように歩いている。
だが感じる。まおは俺たちに近づいている。真っ直ぐに、変わりなく近づいている。
俺は、訳が分からなくなった。
「落ち着いて、樹さん。よく見てください。まおではなく、この空間を」
水瀬の冷静な声が俺を落ち着かせた。
一度目を瞑り、心を静め、ゆっくりと目を開く。
すると、ある物が見えてきた。
複数の超楕円曲面がよじれ絡み合い、立体的な穴が空いた、幾何学的な空間が見えた。
俺は、この図形を知っている。
「……カラビ・ヤウ多様体」
コンパクトに折りたたまれた次元を模した複素多様体。俺たちは――その中にいた。
「ここは折りたたまれた九次元が解放された空間。縦・横・高さ以外の次元が存在する場所。私たちが知っている運動法則が通用しない所です」
水瀬の言葉に、現実を理解した。
ここでは、まともに戦うことが出来ない。
「大体おかしいでしょう。光も捕らえられる空間で、姿が見えたり会話をしたり出来るだなんて」
言われてみればそうだ。
水瀬が調整しているこの周囲はともかく、離れたまおの姿や声が認識出来るのは、道理に合わない。
「私たちの場所に、干渉しているんですよ。……射影空間を想像してください。通常の平面に無限遠点を加えた射影平面を。射影平面上の異なる二直線は、必ず一点で交わります。その交点を割り出すこと、それがこの戦いには必要となります」
俺はまじまじと水瀬を見つめる。
「……なんです? その顔は」
怪訝な表情で俺を見返す。
「いや、お前『アホの娘』じゃなかったのか。キャラが違うぞ。この異常空間は、特性も反転するという作用もあるのか」
素直に思ったままを述べる。
「失礼な! この位の知識はあります。……まあ知識はありますが、かみ砕いて説明しろと言われたら、それはそれで困りますけど。……便利な検索エンジンとでも思ってください」
やはり水瀬は水瀬だった。
「二人とも、じゃれつくのはその位にしてください。……お出ましですよ」
つぐみの声で我に返る。
感じる、まおが近づいて来るのを。
飛び飛びに姿を現すが、それが一つの直線に沿っているのを。
「残紅切響!」
まおの思念が飛んで来る。
同時に、細く伸びた右腕が横薙ぎに迫ってきた。
その五本の指先には、五つの黒い球体が浮かんでいた。
球体は、全ての存在を削り取るように進んで来る。
やばい! 俺の頭の中で警鐘が打ち鳴らされる。
これは、触れることさえ危険なモノだ。
本能に従い、必死の思いで回避する。
黒い球体は俺の鼻先をかすめ、空を切る。
まおは虚空を削った腕を素早く戻し、俺にニッコリと微笑む。
「カンがいいんですね。てっきりその槍で打ち払うと思ってましたよ」
「友好の握手なら受け止めたんだがな。毒手の握手なんぞに応じられるか」
「あら、目がいいんですのね。ナノメートル単位まで圧縮していたのに」
「いくら小さくても、その馬鹿みたいに重い質量は隠し様がないだろうが」
「女の子に重いなんて、デリカシーに欠ける人ですねぇ――」
コロコロと、本当に楽しそうにまおは笑った。
「ああ、おかしい。こんなに笑ったのは何百年ぶりでしょう。こんな切り返しをしてくれる人、私の攻撃に耐えた人は本当に久しぶりです。……もっと……楽しませてくださいね……」
まおの瞳には、青白い、昏い光が灯っていた。
まおは両腕を交差して構え、迫って来る。
今度は二本の腕で攻撃してくる気か。
「兄さん、穂先に力を集約してください。穂全体で受け止めようとしては駄目です。線ではなく、点を使ってください。この拡散した世界では、集約こそが力です!」
つぐみの必死の叫びが木霊する。
そうか、危うく騙されるところだった。五本の指による複数攻撃。更に倍する十本の指による攻撃。その全てに対抗しようなんて、とんだ思い違いだ。俺がする事は、ひとつでいい。
ロンゴミニアドの穂先と、まおの右手中指が重なった。
鋭い衝撃波が走る。俺たちの腕は、互いに弾き飛ばされた。
考えてみれば当然のことだ。
まおの巨大な力と、それに伍する力が衝突すれば、こうなるのは自明の理だ。
なにも馬鹿正直に全部に対応する必要はない。
「思いっきりがいいですね。もし攻撃が少しでもズレたらどうするつもりだったんです? その段階で、ジ・エンドですよ」
呆れたような、信じられないものを見る目を俺に向ける。
「それは、ない! お前は敵の攻撃を、どう読んでいる。軌道か? 目線の動きか? 筋肉やシナプスか? 確かにそれも大切だ。だが、もっと根源的で大切な物がある。意思だ! 理念・信念と云ってもいい。全てはそれから発せられる。お前はその読み合いに長けていない」
まおは呆然と立ちすくむ。
「お前は、不運だった。巨大な力を持つ配下を手に入れたことが。おそらくすべて雷豪たちが整えてくれていたんだろう、舗装された道を歩むように。こんな鍔迫り合いを、したことが無かったんだろう」
俺は一気に畳みかける。
「千年の凪いだ時を過ごしてきたお前と、何千世界の激動の波に揉まれてきた俺の、その違いを見せてやる!」
絶対の力を持ち怯える強者と、蟷螂の斧を振りかざし自信に満ちた弱者が、いま対峙した。