黄泉比良坂
大地が、空が、横倒しになっていた。
平らな地面に乗っていた土砂が轟々と音を立て、横へと落ちてゆく。
足元に星空が広がっている。
重力が、狂っていた。
「気をつけろ。足場が脆くなっている。滑らすなよ」
「兄さんこそ大丈夫ですか? その槍だと大変でしょう」
俺たちは氷壁を登攀する時にピッケルを打ち込むみたいに、神剣と神槍を突き立て崖と化した地面を降りて行く。
「……急ごう。時の流れが遅くなってきてる。まごまごしてると外の世界であっという間に時が過ぎ、帰ったら何百年も過ぎてましたって笑い話になりかねない」
俺たちが向かっているのは、まさしくブラックホールだった。光も時も脱出できない常世の世界。時が止まり、生あるものは存在しない、死の國だった。
「絶対に、その剣を離すな。それは……命綱だ」
この神剣と神槍は、俺たちを大地に留めているだけではない。
狂った物理法則の中でこいつらが壁となり、歪んだ法則から守ってくれている。
俺たちが命を失わず、行動できる理由。それがこの神剣と神槍だ。
こいつらは異世界とのパイプでもある。異世界と繋がり、狂った因子を中和してくれる。
もしこいつらを手放したら、たちどころに押し潰されてしまうだろう。
俺たちは慎重に、大地を降って行った。
慎重に慎重を重ねていた筈だった。
だが悪意の落とし穴は、あちこちに掘られていた。
それは、突然起こった。
つぐみが剣を突き刺していた所が、10メートル四方ぐらいまとめて大地から外れ、落下を始めた。
つぐみには、為す術がなかった。
俺の槍ならば、再び大地に突き刺し、留まる事が出来る。
だがつぐみの剣は、そこまでの長さが無い。
巨人の手に摑まれ引き寄せられるように、つぐみは暗闇に落ちて行く。
「つぐみ――――」
俺は声を張り上げ、突き刺した槍を抜き、大地を強く蹴り上げ、駆け下りていった。
「もう二度と、失ってたまるか」――切り裂かれるみたいな心の痛みと、言いようのない喪失感を思い出しながら。
堕ちているのか、駆けているのか、最早わからない。
ただ、つぐみの姿が段々と近づいてきた。
俺は残された力を膝に込め、ダンと蹴りだす。
「兄さん!」
つぐみの呼ぶ声が、俺を後押しする。
もう少しだ。俺は腕を限界まで伸ばす。つぐみも思いっきり手を伸ばしてくる。
――届かない! あと数センチなのに。
「頼む! 届いてくれぇぇ――」
悲鳴をあげる俺の手に、ぱしっと何かが当たった。
剣の――柄だった。
ちづの魂が宿る、神剣の柄だった。
剣の反対側を、つぐみが握っていた。
鋭い刃先を握りしめ、その手の平から血を流しながら。
「…………馬鹿野郎!」
俺は柄をしっかりと握り、つぐみを引き寄せる。
胸元におさめ、両腕で抱きしめた。
「無茶をするな……。自分の身体をもっと大切にしろ……」
「だって兄さん、私がいなくなったら生きていけないでしょう。それを思えば腕の一本や二本……」
「…………馬鹿…………」
血塗れの手と、涙塗れの顔で、俺たちは深く深く抱き合った。
「兄さん、そろそろ落下を止めないと」
女性の方が男性よりも、現実主義者なのかもしれない。
感動の余韻に浸る俺に、なすべき事をいってきた。
「わかった。しっかり摑まってろよ」
俺は振りかぶり、槍を大地に深く突き立てる。
刺さった槍は大きくしなり、二人の体を受け止めた。
槍を持つ右腕に、靭帯を引き千切るみたいな衝撃が走る。
つぐみを左腕で抱えているので、一本の腕にすべての負荷がかかる。
だが、構うもんか。腕の一本や二本、なんてことはない!
「頼む、モードレッド! 俺の腕が千切れようと、つぐみを繋ぎ止めてくれ!」
俺は神槍に祈りを捧げた。願いが叶うなら、俺の身体なぞ持っていけ。そんな気持ちだった。
神頼みをしてあとは良しなにと云うみたいに、無責任ではない。
これだけ犠牲を払うから願いを叶えろと迫る程、甘えてはいない。
ただ、守りたい。こいつの命の前では、俺の存在など些末な事だ。命の天秤は、大きく傾いている。そう、素直に思えた。
願いは、叶うものだ。心の底から願うなら。願いを叶えるために、何かをせずにいられないのだから。
槍は力強く突き刺さっている。俺のつぐみへの執着を表すみたいに。
押し寄せる激痛の波の中、腕の中に在るつぐみの温かさが、幸せな心持ちにさせた。
「なーにやってんですか。守れないなら、お姉さまを返してもらいますよ」
頭上から、呆れたみたいな声が降ってくる。
宙に浮き、俺たちに近づいて来る人物がいた。
「どうやってここへ来た? 装備もなしで来れる程、生易しい場所じゃないぞ、ここは」
平然と降りてくる水瀬に、疑問の声をあげる。
「これをガメてきました」
水瀬は懐から何かを取り出す。黒光りする、八本の小刀が現れた。
雷豪が使っていた童子切だ。
「重力子を操作する補助道具になるんですよ、これ。いやーいいもんゲットしました。クネクネと蛇みたいに飛んできて、捕まえるのに苦労しましたけど、その甲斐がありました」
カラカラと水瀬は笑う。
俺たちは苦労して階段で降りてきたが、お前はエレベーターか。
理不尽と云う言葉が頭をよぎる。
「雷豪は……どうした?」
俺の問いに、水瀬の笑顔はすうっと消える。
「逝きました……ヴァルハラに……」
その言葉で、すべてが察せられた。
「あいつね、最期の最期まで、まおの事気遣ってました。……執事の鑑です」
虚空を見つめ、細い声で、思い返すみたいに言葉を紡ぐ。
しばらくの沈黙のあと、唇を噛みしめ、水瀬は言った。
「さあ行きましょう。聞き分けの無い駄々っ子を、お仕置きに!」
俺たちは狂った重力の中心へと、歩を進めた。
中心への歩みは、順調だった。
水瀬の重力操作のお陰で宙に浮き、高重力に圧し潰されること無く、まおへと近づいていった。
周りの色が、ねっとりとした漆黒に変わってくる。
昏く、生気が失われた闇の色だった。
すべてが吸い込まれるその先に、一匹の蜘蛛がいた。
蜘蛛の姿は少しずつ小さくなってゆく。
今や人と同じくらいの大きさまで縮んでいた。
八本あった脚も、腕、足の四本となっている。
そして残り四本はその形を変え、四枚の黒い翼を広げていた。
全身は黒い西洋風の鎧に覆われている。
オープンフェイスの兜から、まおのあどけない顔が覗いていた。
胸当には、ちづの木乃伊の貌が浮き上がっていた。
異界の魔王を彷彿させる姿だった。
「ようこそいらっしゃいました。何のおもてなしも出来ませんが、ゆっくりしていって下さい」
邪気のない、天使みたいな声で、俺たちに呼びかけて来た。
「ミナトは、どうしました?」
「逝ったわ……。輪廻の輪から外れ、冥府に」
まおの問いに、水瀬は沈痛な面持ちで答える。
「そうですか。悲願達成ですね、お祝いしなければ」
まおはパンと手を叩き、顔を綻ばせた。
「惜しむとか、悲しむとか――ないのっ」
水瀬は苛立ちを隠せず、叫ぶ。
「私が? なぜ? だってまた直ぐ会えるじゃないですか。時が戻り、元通りになったミナトに!」
まおは心底『わからない』。そんな顔をしていた。
「それは……違う。それは今まで一緒に居た雷豪じゃない。違う、何かよ」
水瀬の言葉に、まおはキョトンとして見つめる。
「なにが違うんです? ミナトはミナトでしょう」
ああ、そうか。こいつは本当に理解できないんだ。
だからこんな真似が出来るんだ。
水瀬は哀しそうな、切ない顔をしていた。
「私の躾が出来てませんでした。……私の責任です。しっかり、カタをつけます!」
拳をぎゅっと握り、迸る気持ちを抑えている。
「嬉しいな! ナミさんに怒られるなんて、何百年ぶりだろっ」
弾むような声で、まおは全身から喜びを発する。
そんなまおを、水瀬は顔をしかめ睨みつける。
「雷豪から、貴方を憎まないでくれと頼まれました。……憎みはしません。けれど…………嫌悪します!」
水瀬の嫌悪は、どこに向かっているのだろう。……まおか? それとも……。
愛は積みかたを間違えると、なんて歪になるのだろう。