怨念
新たな世界が映し出された。
竈の前で、一人の女性が何かを作っている。
煙が上がり、心が落ち着くような匂いが漂ってきた。
20代前半の、綿菓子みたいなフワフワした髪の女性だった。
その顔に見覚えがある。
ナミだ。成長を遂げた、彼女だった。
「ナミさ~ん」
声をあげ、10歳くらいの女の子が駆け寄ってくる。
まおだ。
だがその顔はさっき会った彼女とは別物だ。
無邪気で、温かな笑顔の、子供らしい表情だった。
「ととさま、今日帰ってくるの?」
まおはナミの袖をつかみ訊ねる。
「ええ、さっき使いの人が来たわ。夕方には帰るって。今晩はごちそうよ」
「やった――」
まおは嬉しそうに飛び跳ねる。
「まおちゃんは、どっちが嬉しいの? ごちそう? ヤクモさんが帰って来ること?」
「どっちも――」
まおの答えに、ナミは頬をゆるめる。
「さあ、頑張ってごちそう作らなけりゃね」
トントントン、ナミは包丁を持ち、小気味いい音を奏でた。
「いや―、美味しかった。ナミさんの料理は最高ですね」
「お上手ですね、ヤクモさん。作った甲斐があります」
ヤクモという男に見覚えがある。間違いない、まおの父親だ。
そのまおはナミの膝ですやすやと眠っている。
「まおも貴方に懐いているようです……。母親を亡くしたこの子に良くして頂き、ありがとうございます」
神妙な面持ちでヤクモは頭を下げる。
「私の方こそ、お礼を申し上げます。……父を亡くし、ユキ姉さまを亡くした私にとって、まおちゃんは慰めでした。この子がいたから、私はこの世に留まれたんです」
ナミはまおの髪を梳く。
さあっと風が流れる。悲しみの心を撫でるように。
「御神体の在りかは、分かったのですか」
さっきまでの温かい声ではなく、冷たい、感情を押し殺した声でナミは問う。
「源 頼光の本領『摂津国伽陀』、そこの『伽陀院法華三昧寺』に在ると判明しました」
ナミは手をぎゅっと握る。何かに耐えているようだった。
「そこで、文殊菩薩像として祀られています」
ナミの目はつり上がる。感情の流れにそって。
「なんの……冗談ですか。神子に対しあんな無体な振舞いをし、それを奉じる無辜の民を根切りにし、その挙句己が弑したものを仏として祀る、……神仏をも畏れぬ所業です!」
ナミの目は血走っていた。怒りに、嘆きに飲み込まれていた。
「決行は、いつ?」
「10日後、朔の日。悪鬼を冥府に送り返すのは、闇の中こそ相応しいかと。決行をお認め頂けますか、村長」
「……村長などと。いまは治める地もなく漂泊の身。村長である父と後継であるユキ姉さまがあいつらに殺され、仕方なくその代わりをしているだけです」
「それでも貴方は私たちの導き手なのです。かって神子であられ、あの地獄を生き延びられた貴方は、私たちの灯火なのです。村長の名がお気に召さぬならば、こうお呼び致しましょう。『土蜘蛛党』首領、ナミさまと!」
ヤクモはひれ伏し、呼びかけた。
無言の時間が流れる。
リーンリーンと虫の鳴く音だけが響いていた。
「虫の音は、葛城山もここも変わらないのですね」
静かに消え入るような声をナミは零した。
その声に、先程までの激情は無かった。ただ淋しさだけが在った。
そんなナミを哀しそうに見つめ、ヤクモは声をかける。
「ナミさま、いやナミさんとお呼びさせて頂きます。……この戦いが終わったら、一緒になりませんか」
温かい、愛情に満ちた声だった。
「私たちはこれまで、同じものを見て生きてきました。憎き仇、取り戻すべき拠り所、それだけを見て生きてきました。……けれどそれが叶った後、私たちはどうなるのでしょうか。抜け殻のようになって生きてゆくのでしょうか。……それでもいいと思っていました。成し遂げたことを思い出に余生を過ごしてもと」
噛みしめるようにヤクモは言う。
「けれどね、最近思うんです。斥候を終え帰ってきて、まおの顔を見る度思うんです。未来を捨てちゃいけないと。この子の大きくなっていくさまを見る度、未来は育っているんだと。日和っているとも軟弱だとも、同朋の恨みを忘れたのかとも仰るかもしれませんが」
眠っているまおを眺めながら語る。優しい父の目をして。
「……過去は忘れてはいません、一日たりとも。宝物みたいなあの日々も、それを踏みにじられたあの日のことも」
目を瞑り、遠い日々を思い起こすように切ない顔をする。
「夢を見るんです、ミズホの夢を。遠い場所から俺とまおを、哀しそうに見ているんです。残した夫と子どもを心配するように。私はそちらに行けない、お願いだから幸せになって私の分も、と言うように……」
再び見開かれた目は、遠いどこかを見つめていた。
「幸せになりましょう。過去は大切ですが、未来も同じくらい大切です。……過去にけりを付けたら、夫婦になって下さい。私と貴方は解り合えると思います。失った悲しみも、逝った人や故郷への慕情も、全部解り合える筈です。私の妻になって下さい。まおの母親になって下さい」
ヤクモは躙り寄り、ナミの手を握る。強く、温かく。
「わかりました……お受けいたします。けれど一つだけ条件があります」
ヤクモは安堵した。これでこの人を失わずにすむ。
その為なら、どんな無理難題でも叶えてみせる。
蓬萊の玉の枝だって採ってきてみせる。
「晩酌は一合までです」
「え?」
思ってもみなかった要求に、ヤクモは思わず声を洩らす。
「ヤクモさんは私より10歳年上なんですよ。長生きしてくれなければ、困ります」
ああそうか、この人にとって大切なのはそれなんだ。
この人はもう、一人では生きていけない。誰かを失うのに、堪えられないのだろう。
ヤクモはナミをぎゅっと抱きしめる。
「約束します。あなたを絶対、一人にしません」
極寒の中で身を寄せ生き延びようとする者の様に、二人はしっかりと抱き合った。
ナミとヤクモの姿が消える。
そしてまた、新たな光景が浮かびあがった。
そこは寝殿造の立派な屋敷だった。
主人が住まう部屋である塗籠に、二人の人間がいた。
主人が座す御帳台に、陰陽師の衣装を纏った壮年の男が座っている。
そして下座に、10歳くらいの巫女装束を着た少女が平伏していた。
少女は男に厳かに語りかける。
「此度の雨乞いの御成功、おめでとうございます」
少女はゆっくりと顔を上げる。
まおだ。その顔は間違いなく、まおだった。
「うむ、そなたの助けがあってこそだ。……そなたの妖力、怖ろしい程であった」
祝いの席とは思えぬ、只ならぬ緊張感が張り詰めていた。
「手に余る暴れ馬は、縊り殺すに限るのではないか?」
「これは異なことを。かって役行者は前鬼・後鬼を使役したと云うではありませんか。偉大なる晴明さまが、私ごときを使役できぬとも思えません」
違う! さっき見ていたナミと一緒にいた彼女と、いま映っている彼女は、また別物に変わっていた。
その幼き容姿は一緒でも、その纏っている空気、そしてその魂において、天使と悪魔の違いがあった。
「ぬかすな。まあいい、その思惑に乗ってやろう。餌を与え、その恩を返してもらうとするか」
猛獣を見る目で、晴明はおもしろそうに言う。
「貴様の望みは、なんだ?」
目を細め、心の底まで見るような目付きで問いかける。
「本当に、つまらぬものです。……大和葛城山の里ひとつ、そして相模の葦那賀山、これだけでございます」
「ほう」
晴明の鋭い目が光る。
「葛城山は、まだ解る。流浪の民にとっては何物にも代えがたい聖地だろうからな。まあ私達にとっては何の価値も無いが」
まおの頬がぴくりと動く。
「だが解らんのは、もう一つの方だ。遠く離れた未開の山、何故そのような物を望む」
探るような目で晴明は睨めつける。
「……最近、かの地ではなゐが多いそうだな。そのせいで山が隆起し、それがまるで足が生えたように見え、『足長山』と呼ばれていると聞く」
怪異の専門家の許には、その類の情報は集まるのだろう。
「足は八本にも及び、山頂から等間隔に生え、それを見た者はこう言ったそうだ。『まるで巨大な蜘蛛が地から湧き出てくるようだ』と」
もはや、何かを確信したような口調だった。
「不思議なこともあるもので……」
まおは動じず、平然とした面持ちで答える。
「……まあいい。所詮は東国、いかようになろうと知ったことではない。肝要なのは都。ここを守護することが我らが務め。……誓うか、この京の都を守り、天子様に対し奉ることを」
「我らが神、我が一族の名誉にかけて!」
毅然とした態度でまおは応じる。
「よろしい! ならばこれより我が一門に加われ。一門の両翼、火野家、水瀬家を佑け、魑魅魍魎から都を守れ。今日から貴様は『根の國の主』――『土御門』を名乗れ!」
「御意!」
まおは仰々しく平伏する。
「では御一門に加わらさせて頂きましたご祝儀に、もう少し褒美が欲しゅうございます」
「なんだ、申してみよ」
晴明は嬉しそうに言う。喰いついた、本質を顕わにしてくれると言わんばかりに。
「怨敵、蘆屋 道満、藤原 保昌、源 頼光、頼光四天王の命でございます……」
「奴らを――殺せと?」
晴明は動揺を見せる。まさかここまで要求してくるとは、彼の表情はそう語っていた。
「滅相も無い。簡単に殺すような慈悲はかけません。苦悶と恐怖の海に沈め、偶に希望の光を与えてやる。そうする事で一層苦しみが深くなる。それを今世だけでなく、輪廻を繋げ永劫に続ける。……勿体ないではないですか、冥府に逃がしてしまっては」
残虐な、慈悲の心の欠片もない貌でまおは嗤う。
「それに奴らは晴明さまの政敵。貴方様にとっても悪いお話ではないでしょう。貴方様は何も手を下す必要はございません。私がすべて行います。いえ、私の手でしたいのです。貴方様は何もされなくてけっこうです、私の邪魔さえしなければ……」
静寂が周りを覆う。ちりちりと、火が燃える音だけがする。
「貴様という人間を、どうやら見誤っていたようだな。……とんだ女狐だ」
晴明は重い口を開く。
「私は約定を違えません。どこかの恥知らずとは違います。貴方様が裏切らなければ、牙を剥くことはありません」
晴明はふうっと息をつく。
「他の奴らは、かまわん。だが、道満の秘術を失伝さすのは惜しい。……あの再生術、錬金術は唯一無二のものだ」
晴明は政治家ではなく、探究者の貌をする。
「ならばその術を道満から切り分け、蘆屋家の分家である『木羽家』『金塔家』に引き継がせては如何でしょう。その両家を私に隷属させた上で』
「……出来るのか」
「順番を間違えなければ。先に渡辺 綱の『次元断絶』を手に入れれば容易いかと……」
「……私の敵に、回るなよ」
「この京が都であり、天子様がそこに御座す限り、それはございません」
二人は無言のまま、じっと見つめ合う。
「よかろう。盟約は、結ばれた!」
長い沈黙のあと、吐き出すように晴明は叫ぶ。
まおは両手を床に着け、地に顔を着ける。その躰は、ブルブルと震えていた。
広い庭の池のほとりを、まおは一人で歩いている。
目には穏やかな水面にゆらゆらと揺れる、白い湖月が映っていた。
きゅっと口を結び、宙を見上げる。
「ととさま、ナミさま、取り戻しましたよ。そして取り返します、すべてを!」
高く遠くに輝く月に向かい、まおは語りかける。
月は黙って浮かんでいた。
幻想の景色が消える。
周囲は通常の空間に戻っていた。
「これが、ちづ様が、ナミ様が、私が、見てきた事でございます……」
これが水瀬と柚月が居なかった世界線か。
あの二人の力があったから敵を駆逐できたんだ。
ナミとユキと、水瀬と柚月は似て非なる存在だ。
地獄は、ここにも存在した。
「ナミとヤクモは、どうなった。御神体とは、なんだ」
二つの物語で明らかにならなかった事を、俺は問う。
「別に隠すつもりはございません。ですがあの二人の最期をお見せするのは、如何にあなた様と云えど憚られます。……死者を嬲るような事はしたくないんです」
悲しそうに、小さな声で答える。
そこには思惑も何も感じなかった。
ただ畏敬の念だけが在った。
「もう一つの問いは、御神体とは何かでしたね。……お答えします。御神体とは――これです!」
まおは自分の当帯をしゅるりと外し、襟の受緒を外し上着である狩衣をはだける。
現れた単の合わせ目を両手で持ち、勢いよく開く。
雪のように白い肌が顕わとなった。
膨らみ始めた僅かな双丘が目にうつる。
だがそれらをかき消すかのような、禍々しいモノが出現した。
それは胸の谷間、双丘の間に在った。
浅黒い茶色で、干乾びて15センチほどに縮小した楕円形の物体だった。
中央に二つの小さな窪み、下に大きな洞があった。
変わり果てた姿だが、それが何か理解った。
ちづの、木乃伊だった。首から上だけの、木乃伊だった。
つぐみは口に手を添え、嗚咽を押える。
水瀬は呆然として立ち竦んでいる。
「私の父とナミ様が残党を率い、命と引き換えに取り返した、ちづ様の御首級です」
まおは、叫ぶ。
荒ぶる心を隠そうともせずに。
木乃伊はまおの躰深くにめり込んでいた。
その首からは八本の管が生え、まおの躰としっかりと繋がっていた。
それはドクドクと心臓の鼓動のように脈打ち、生きているようだった。
「ちづ様は、ここに御座します、私と一緒に。……私は当代神子、土御門家当主、『土御門 万桜』です!」
木乃伊に手を当て、まおは叫ぶ。
その身に宿る悍ましきものを誇るように。
なにかが――――狂っている。