エスケープ・ゾーン
静まる部屋のなか、水槽からコポコポと泡立つ音だけが響いていた。
「乙女の裸を覗くのは、犯罪だよっ。エッチ!」
巨大な脳が語りかけてくる。
「それがお前の、本当の姿か」
「本当の姿と云う事なら、さっきまでの私が本当の姿。これは確かに今の私だけど、本当の私じゃない。……あって堪るかッ!」
常に飄々としていた金塔が、激情に震える。
「私の父親はね、とんだクソッタレだったの。先代の金塔家当主で、遺伝子工学の研究家。……最悪の組み合わせだったわ。錬金術の流れを汲む金塔家の秘術、最新鋭のゲノム編集技術、それらを掛け合わせて、数十万年かけて行われる進化を一足飛びに至れる実験を行った。色んな亜人が誕生したわ。貴方達が戦った『無貌の蝙蝠』もその一つ。そして新たな生命体を産み出した後、ある誘惑に駆られたの。……人類の最終進化。当然といえば当然よね」
吐き捨てるように金塔は語る。
「最初は単なる核移植による、人間のクローン作製だけだったのよ。まあ『クローン技術規制法』をガン無視ではあったんだけど、それでもまだギリギリ人道には留まっていたわ。タガが外れたのは人間の器の限界を知った時。どんなに改良しても情報処理能力には限界がある、それが立証された時彼は絶望したわ。そして闇の中に希望を見出した。『ヒトの肉体に留まるから限界があるんだ。ならば肉体と、情報処理装置である脳を分離すればいいのではないのか。パソコンの外付けハードディスクみたいに』……おぞましい考えでしょう……」
不愉快さを凝縮したような声だった。
「その悪魔の考えに、父は囚われたわ。でも最後の良心は残っていたみたい。『他人を犠牲にしてはいけない』っていう自己満足みたいな良心。そこで父は考えたわ。『自分自身を犠牲にするのは美談だろう。自分の子供を犠牲にするのは許されるのでは』ってね。かくして神の供物たる子羊が選ばれたわ。当時7歳だった娘、すなわち……私よ」
まるで他人事のように言う。そう思わなければ、やっていけなかったのだろう。
「『父の為に力を貸してくれ。みんなの為に新たな道を切り開いてくれ』――そう言われて、断れる訳がないでしょ。まったくあのクソ親父は!」
幼き自分を唾棄しているのか、そう追い詰めた父を呪っているのか。
「手術が終わって、最初は何のことか解らなかったわ。だって、これまでと変わらなかったんですもの。クローン体が見た物が脳に映り、脳が思ったようにクローン体が動く。何ら変わらなかった……。『あれっ?』て感じ始めたのは半年が過ぎた頃。頭蓋骨から解き放たれた脳は膨張し、新たな感覚を手に入れた。目が、耳が、……増えていったの」
恐怖を思い返すみたいに、震える声が響いた。
「感覚器官が増大したって云うんじゃないよ。他の人が視ている物、聴いている物が感じられる様になったの。肉体の電気信号を感じられるようになったせいだと思う。どんな感覚かって云うと、色んなカメラワークで色んな角度から視ている感覚、あれに近いかな。ま―最初は戸惑ったわ。だって『視る』っていう事は、『自分が何処に居るか』を認識する事でもあるんだもの。私は何処に立っているか、分からなくなった。自分が『私』なのか、それとも『他の人』なのか、境目が判らなくなった」
自己の喪失。生物としてこれほど怖ろしいものはない。
自分の存在を世界に刻むために、生きとし生けるものは生きているんだから。
「怖くなったわ、他人と接する事が。私はこの実験室に引き籠った。だってここに一人で居る時は、ヘンな感覚に襲われなくて済むんですもの。ここは私の安寧の場所だったの」
ここは彼女にとっての避難場所だったのだろう。
雪が吹きすさぶ山中で、洞穴に逃げ込むように。
狼の群れが襲来する中、扉を打ち据え、恐怖に震え過ごすように。
「けどね、住みやすい場所には似た者が集まるみたいで、同じように引き籠る奴がいたの。それがキンちゃん――『坂口 金児』よ」
愛しい者を語るような、哀れな者を語るような、入り混じった声だった。
「『男の娘』って云ったよね。けどキンちゃん、元々は『女の子』だったんだよ。実は『金塔家』と『坂口家』は代々裏で繋がっていてね、協力関係にあったの。『坂口家』は剛力を追い求めた家、けどキンちゃんの代で問題が発生した……男の子が、生まれなくなったの」
どういう事だ。五行家とナギの組織は昔から対立していた筈だ。
裏で……繋がっていた?
「キンちゃんの上に、三人の子どもがいたわ。けれど皆女の子だった。キンちゃんの父親は途方に暮れた。女性蔑視をするつもりは無い。だが、坂口家はこのままでは立ち行かない。他の家なら女性に継がせても問題は無い。しかし坂口家はそうはいかない。男性と女性では、明らかに筋肉が違う、剛力が違う。代々受け継いできた剛力の家系を、途絶えさす訳にはいかない。悩んだ末に、ウチのクソ親父に懇願したわ。『今度産まれる子どもがもし女の子なら、男の子に変えてくれ』と。胎児の性別を判定したところ、女の子だった。……遺伝子の改変が、行われたわ」
反吐がでそうな話だ。
家とは家族を守る為のものじゃないのか。
子を犠牲にして、何の存在価値がある。
「生まれたのは怪力無双の男の子。でもその姿は華奢で、儚げで、到底剛力を振るうように見えなかった。外見にそぐわぬ力を持つ子ども。周りの大人は云ったわ、『バケモノ』と。勝手なものよね」
怒りが、こみ上げる。
家のために犠牲となり、存在を歪められた者に対する仕打ちか!
「この人里離れた山奥に、キンちゃんは引き籠った。大人たちの忌み嫌う視線から逃れるように。私たちには、ここしか居場所がなかった」
哀れだ。その身に起こった事もそうだが、その置かれた立場が……哀れだ。
「『敵の敵は味方』とはよく云ったものね。人類からはじき出された私たちは、ここで寄り添うように生きていった。ままごとみたいに暮らしてた」
遠い目で金塔は言う。
「さあ、昔語りはこの位にしよっか。いいのかな、行かなくて。こんなお喋りに付き合ってる場合じゃないでしょう。私としては足止め出来て願ったり叶ったりなんだけど、彼女さん待ちくたびれているんじゃないのかな。知らないよ、愛想つかされても」
しゃべりすぎた。そんな気持ちを隠すように、金塔は明るく言った。
「行く必要が、ない」
俺は端的に答える。
「へぇ――」
意図を探るように金塔は言う。
「呼び出しボタンがあるからな」
俺は猟犬のように獲物を見詰め、槍を肩の上にあげ、腕の筋肉を振り絞り、力を槍に乗せ、放った。
槍は轟音をあげ、目標に突き刺さる。
この部屋を管理しているコントロール装置が、火花を放ち異音をあげる。
「なんでそんな回りくどい事をするかな。直接私にぶつければいいじゃない。もっともこんな命、惜しくも何ともないけどねっ」
自分を甚振るように、金塔は叫ぶ。
「お前にとってはそうだろう。けど、あいつにとってはどうかな?」
俺は宙を見つめる。
空がひび割れた。
そこから、何かが飛び出してきた。
「み―ちゃんを、苛めるな!」
斧を振り上げ、涙を流し、怒りに燃える坂口 金児が現れた。