まほろば
窓がほの白い青に染まり始めた。
木立や夏草の緑が鮮やかに浮かび上がってくる。
空気は澄み、夜露の匂いを漂わせている。
隣には愛しい彼女がいる。
生まれたての、少しの穢れもない無垢な世界だった。
この清らかな朝に、俺は感謝し、恐怖した。
もしこの至高の幸せを失ったとしたら…………到底耐えることは出来ないだろう。
「うぅぅん」という淡く艶めいた声がつぐみから漏れる。
絵筆で描いたような長く揃ったまつ毛が開いてゆく。
「おはようございます」
その言葉は歓喜に形を変え、俺の心を揺さぶった。
突き動かされるように指を這わせ、つぐみの頬を撫でる。
「……何してるんですか」
つぐみは戸惑いを帯びた声をあげる。
「あまりにも綺麗で、現実とは思えなくて、本当にここにいるのか不安になって、つい確かめたくなった」
俺は素直に心の内を打ち明ける。
ぼっと爆発するような音を出しながら、つぐみは顔を赤らめる。
「いい加減、心臓に悪い物言いは控えてください。……こっちの身が持ちません」
つぐみは上気した甘い声で抗議の言を述べる。
「お前が嫌なら、もう言わないようにするが……」
「誰も止めろとは言っていません。……控えてくださいと言っているんです。適量ならば問題ありません。むしろ丸っきり無くなったら、私キレます。私が生きるには、兄さんの甘い言葉が不可欠なんです!」
「難しいことを言うな、お前」
「諦めてください。こんな面倒くさい女に惚れた兄さんが悪いんですから」
つぐみは悪戯っぽく笑う。俺もつられて笑う。
俺たちは『まほろば』にいた。
長く苦難の末に辿り着いた、儚く頼りない理想郷だった。
俺たちは連れ添い、リビングへと向かう。
これから新しい日々を紡いでいくんだ。
ドアを明ける。ナギと西條の視線が飛んできた。
二人は菩薩のような顔をしている。
堪えかねるように立ち上がり、俺たちに駆け寄ってくる。
ナギはつぐみの両手を握り、ほろほろと涙を流す。
西條はそんな二人を両腕を広げしっかと抱きしめ、うんうんと涙声で頷く。
リビングは優しさに包まれていた。
ひとしきり抱き合ったあと、ナギはつぐみに問いかける。
「大丈夫か、身体の方は。三か月も寝たきりだったんじゃ。筋力も低下しておる。歩くだけでも大変なはずじゃ……」
つぐみの身体を案ずる、慈愛に溢れた言葉だった。
「大丈夫ですよ。筋力はありませんが、魔力を纏ってそれを使えば問題ありません。パワードスーツみたいな物ですね」
「……なんでもありじゃな」
ナギはあきれたような顔をする。
「で、聞きたいことなんじゃが、その、なんじゃ……つまり……」
ナギがもじもじと要領を得ない。何を言いたいんだ。
「ナギさま、しっかりして下さい。いい年して、なに照れているんですか」
「しょうがないじゃろ。儂はこういう事は苦手なんじゃ」
西條の叱責に、ナギは逆ギレしたような声をあげる。
「最初この二人に会った頃は、平気な顔で話をしていたじゃないですか」
「その時と今では状況が違うじゃろ。その、何と言うか、家族の情事を話題にするようで……」
「まあ、言わんとする事はわかりますが。……ナギさま、意外と初心ですね」
「何を偉そうに!お前じゃってそういう事を経験したのは遅かったじゃろうが。『娘と同い年の子はちょっと……と言っておじ様が手を出しくれないの、どうしたらいいですか』と相談してきたのは、どこのどいつじゃ。鏡の前で『せくしーぽーず』とかいって、無い乳を持ち上げる練習をしていたのはどこのどいつじゃ」
「わ――、わ――。それは言わない約束でしょう。10代の黒歴史をほじくり返さないでぇ――」
……こいつら、何言ってやがる。
そんな話、俺に聞かすんじゃねえっ。想像してしまうじゃねえか。
「ええぃ、つまりじゃな。……お主ら、シタのか?アレを。そしてアレは使ったのか?儂らが用意して枕元に置いておいたアレを!」
代名詞だらけだが、質問の意図は十分伝わった。
つぐみの顔は、ぼんっという音をあげ、真っ赤になる。俺も似たようものだろう。
「……これは下衆なスケベ心じゃないぞ。世界の存亡に関わる大切なことじゃ」
わかっている。こいつらには伝えなければいけない。俺たちの決断を。
俺は居ずまいを正し、二人に向き合う。
「俺とつぐみは決めた。子どもを作るって。最初はつぐみが大学を卒業してからにするつもりだったんだが、もう待てない。一日でも早く子どもを作る。俺たちには必要なんだ、……それが」
ナギと西條は、真剣な顔で得心したかのように頷いた。
「わかった。お主らの決断を尊重する……」
二人はもうなにも言わなかった。
八角形の背の高い柱時計がコチコチと時を刻む。
その音だけが部屋の中で響いていた。
「こんな姿をしていたんですね、あの村」
ヘリの窓から眼下にみえる景色を見ながら、つぐみは呟く。
俺たちが生きていた千年前から、建物も道も変わっている。
だがそこに在る山も川も、自然は変わる由もない。
つぐみは何を見ているのだろう。
「また今度、ちづに会いに来ましょう……」
人の営みは儚い。時の波に崩れてしまう。
けれどその想いは消えることなく、地層のように積み重ねられてゆく。
「ああ、また来よう。……約束する」
俺は誓いをたてるように言った。
ヘリは朝日に向かい、過去を振り切るかのように、俺たちを運んで行った。
長時間のフライトのあと、S病院のヘリポートに着陸した。
「疲れているところ悪いが、精密検査をするぞ。魔力でカバー出来ているかもしれんが、肉体が悲鳴をあげているやもしれん。魔力頼みで生きるのは危険じゃ。現状を正しく認識しなければならん」
ナギの言葉に俺たちは素直に頷いた。
「兄さん、ちょっとだけ待っていてください。終わったら、思いっきりイチャイチャしましょうね」
俺はこつんとつぐみの頭を叩いた。
「てへっ」とつぐみは舌を出して笑う。
魔力の使用を禁止されたつぐみはストレッチャーに乗り、病棟へと運ばれた。
「検査が終わるのに二時間はかかるわ。私たちはこっちで待つようにしましよう」
西條に促され、俺たちは隔離病棟に向かった。
これはつぐみが治療を受けていた病棟で、俺たち以外は立ち入り禁止だ。
襲撃に対応する為のもので、万全のセキュリティが施さられている。
「はい、コーヒー。バニラキャラメルのフレーバーコーヒーにしてみたわ。甘い香りで疲れも和らぐでしょう」
西條が静かな声で俺の前にカップを置く。
柔らかな湯気と一緒に優しさがしみて来る。
「ありがとう」
俺は感謝した。この世界の全てのものに。
終わりは突然訪れた。
雷鳴のような轟音と、地響きが鳴り響いた。
地面が上下に揺れる。
テーブルに乗ったカップは吹き飛び、部屋は巨人に弄ばれるように散乱する。
俺たちは四肢を床につけ、落下物から身を守る。
揺れは直ぐに治まった。
「いくぞ!」
ナギの言葉に従い、俺たちは部屋を飛び出す。
向かうはセキュリティを管理する指令室だ。
ドアを開け指令室に入ると、喧騒と混乱に包まれていた。
「一般病棟A-10区画で爆発発生。繰り返す、保安部隊チャーリーは現場へ急行せよ。ブラボーは本部の防御を固め、敵襲に備えよ。アルファは出撃態勢のまま待機せよ。繰り返す……」
アナウンスをする保安員の横に、司令官らしき者がいた。
「なにがあった、どうなっておる……」
簡潔に、冷静にナギが問う。
「10 17時に一般病棟A-10区画で爆発発生。それに合わせて一般患者に擬態していた敵が襲撃してきました。その数およそ50。敵の狙いは不明。一般病棟に目標物があるのか、真の目的は別に有りこれは陽動なのか、両面に対応出来るようにしています」
司令官は落ち着いて説明をする。
「敵別働隊が襲撃。東口より完全武装した兵が押し寄せて来ます。……数、およそ千」
「南口よりも敵襲。数、千……」
「西口、北口からも襲撃。これは……総攻撃です!」
新たな報告がもたらされる。
冷静であるはずの監視員が悲鳴をあげ、述べてはいけないはずの見解を言う。
俺は、後悔した。
何故つぐみから離れたのか。
自分の油断と、甘さを呪った。
「つぐみを、助けに行く」
俺はそう叫び、指令室を飛び出した。
もう絶対失わない。もう絶対離れない。
この『まほろば』を、守ってみせる。
俺は心で叫びながら、つぐみの許へと駆けてゆく。
先行していたストーリーにようやく追いつきました。
次回から最終章『決別』が始まります。最後までどうぞお付き合いください。
これまでの章も整理しました。ご確認ください。
最後まで走りきるように、ご声援よろしくお願いします。
『ブックマーク』と広告下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして頂けると、作者の執筆スピードが加速します。ぜひお願い致します。