ロード
「食べるものも食べたし、帰るか」
風も冷たくなってきた。夜はまだまだ肌寒い。
「もうちょっといいですか。私好きなんです、ここにいるの」
つぐみは切ないような声をだす。
ここは何の変哲もない場所だ。銅像や客船などのモニュメントもない、ただの広場だ。道行く人たちが通り過ぎる、ただそれだけの場所だ。
「あれ、みてください」
つぐみは顔を動かし、広場で遊ぶ子供たちを見つめる。
5歳くらいの男の子と3歳ぐらいの女の子が走り回っている。兄妹だろうか。妹は一生懸命に兄を追いかける。しかし追いつけず、勢い余ってバランスを崩し、転倒してしまった。それに気づいた兄は急いで引き返す。両親と思われる男女も急いで駆けつける。その様子を老夫婦が、離れた場所で微笑ましそうに見つめていた。
「色んな人たちがいるでしょう。好きなんですよ、あの人たちを見るの」
つぐみは静かに呟いた。
「あの小さな子供を連れた夫婦、兄さんと私に見えるんです。あの老夫婦も子育てを終えた私たち。そしてあの子たちは未来の私たちの子供」
つぐみの視線はどこか遠くを見つめている。
「そうやって思いを巡らすのが、私の至福なんです」
寂しげにつぐみは言う。
「理解はしているんですよ、妄想だとも幻想だとも。でも私の中では、もう何回も兄さんとの人生を歩んできたんです。色んな人生を歩んできました。色んな失敗もしてきました。そして色んな幸せも与えてもらいました。甘酸っぱい青春も、燃えるような壮齢も、達観した黄昏も、みんな味わってきました。もう何周もしているんです。無かったことにできないんですよ」
どうにもならない業を告解するようにつぐみは語る。
「厄介ですよね、こんな女。ごめんなさい。けど、これが私なんです」
こいつは今でも怨霊に憑りつかれているのだろうか。
罪の意識に苛まれ、自分を投げ出さねばとの強迫観念に囚われているのだろうか。
こいつがどれだけの罪を犯したというのか、どれだけの罰を与えられなければいけないのか。
まだ見ぬ子供が救いだなんて。神さまは、理不尽だ。
「ごめんなさい。こんなこと言って。兄さんを困らせるだけですよね」
つぐみは無理に明るい声をだす。
「もう一つだけ、付き合ってもらえませんか」
つぐみはふらりと立ち上がり、歩き出す。
潮の香りが濃くなってきた。
俺たちは「竜の背」と呼ばれる大桟橋に向かう。
「ここ、兄さんと来てみたかったんです」
床がきしっという音を鳴らす。
剝き出しの木の匂いが登ってくる。
筏のような道を、沖へ沖へと進む。
岸に光の帯を巻き付けた大きな客船がいた。
海からボゥッという汽笛が鳴る。
外洋の客船が出港を始めた。
桟橋のスピーカーからバイオリンの音色が流れ始める。
力強く、優美で、冒険への期待に満ちた曲だ。
ゆっくりと船は進み始める。
桟橋では携帯のライトを灯し、高く掲げ、客船に向かい大きく振り続ける人たちがいた。
そこにあるのは、見知らぬ人の旅路を祝福する優しい世界。
暗闇のなか、その光は蛍が乱舞するようだった。
「しあわせな光景でしょう」
つぐみは切なく愛おしそうな声で言う。
「私の夢なんです。いつか年をとって、子供たちが大きくなって、二人きりになった時、兄さんとあの船に乗るのが」
ふふっと、悪戯っぽくつぐみは笑う。
その後ろでは観覧車のイルミネーションが目まぐるしく色を変えていた。
つぐみの無垢な笑みが、数多の色に染められていく。俺は目を離すことが出来なかった。
不意にひゅるるーという音がした。
一瞬遅れて、夜空に花火が咲く。
シャンパンのように光がはじける。
おおーという歓声が周りからあがる。季節外れの花火……。
虚空の大空に、幾千もの輝きが舞う。
「……今日は五分だけの短い花火。この時間だけ……私に……ください……」
つぐみは俺の胸に顔を埋めた。
つぐみの腕は震えている。
俺はそっとつぐみの背中に腕をまわす。
抱きしめずに、いられなかった。
どーん、どーん。花火の音だけが夜空を駆けた。
中華街の帰りに立ち寄った体験をもとに書きました。季節的には滅茶苦茶です。この時期に花火はねーよとかのツッコミはご容赦ください。
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