煉獄
煉獄と云うのは、存外寒いところらしい。
字面から、伝承から、かまどの中で轟々と燃える薪のように、この身を業火に焼き尽くされる様を想像していた。
だが実際は、違った。何事も経験してみないと、分からないものだ。
星も凍る世界だった。
千本の針が突き刺すような、痛みを伴った寒さだった。
痛みは骨を伝い全身に巡り、重い寒さが降りてきた。
耐えれると思っていた。
あの子がいれば、どんな責め苦でも受け入れられる。この痛みが、あの子の苦しみを少しでも和らげるならば、いくらでも私に持って来い。
そう思っていた。……だが、ここにあの子は居なかった。
どこではぐれたのだろう。手はしっかりと握っていたのに。
私は孤独な無意味な苦しみに、囚われることとなった。
苦しみは、身体だけに与えられる物では無かった。
この目に、兄さん達の姿が映し出されたのだ。
私がここに来てからも、兄さん達の旅は続いた。何千回も続いた。
そこには、私であり私で無い者が何時もいた。
柚月ちゃんの居ない世界におけるイェスゲンみたいな者だ。
兄さんはその人を見て、哀しそうな顔をした。
見つめる度に顔を手で覆い、涙を堪え、嗚咽を漏らした。
兄さんの心にむくむくと悲しみの雲が湧き、激しい嵐が吹き荒れた。
やるせなかった。そんな兄さんを見るのが、何より辛かった。
私の不在が、私の境遇が、兄さんを苛む。
私は兄さんを幸せにする為に生きると決めたはずなのに、この状況はどうだ。まるで真逆ではないか。
私の心は、切り裂かれた。
兄さんの苦行は、それだけでは無かった。
幾千もの世界で、兄さんは我が子を殺めた。
望んでのことでは無い。世界を救う為に、我が子に罪を重ねさせない為に、血の涙を流して殺めた。
それを見る度に、私はあの感触に襲われた。
ジョチの心臓にこの手を突き刺し、握り潰す感触。
ずぶりと肉に食い込む感触、ぐしゃりとひしゃげる物を掴む柔らかな感触、何度感じても悍ましい物だった。
兄さんはずっとこれを味わっているんだ。何百回も何千回も。……地獄だった。兄さんにとっても、私にとっても。
何時からだろう。兄さんが殺めた子ども達は、私の許へとやって来だした。
私の孤独な魂が呼び寄せたのか、救いを求めてこの子達がやって来たのかは分からない。
ただ引かれ合い、慰め合った。この煉獄で。私たちにはそれが、必要だった。
降り積もる塵が固まり地層になる様に、私たちは一つとなった。
ながい、時が流れた。
何千年かは分からない。ながい……時間だった。
ながい時を経た酒が透明な水になるように、私と云う存在も消えていった。
後悔はない。だが兄さんへの申し訳なさだけが、私の心に募っていった。
ごめんなさい、兄さん。私はここを動けません。約束を守れなくて、ごめんなさい。
私は今日も、懺悔する。
そんなある日、一匹の光が舞い降りた。
蛍だった。凍てつく暗闇のなか、一匹の蛍がやって来た。
兄さんの、涙の匂いを纏っていた。
兄さんに殺められた子が、またやって来たのだろうか。
おいで、暖めてあげる。私は両手を上げて、迎い入れた。
蛍が近づくにつれ、私の心はざわついた。
この子からは、兄さん以外の私の記憶にある匂いがした。
甘く、とろけるような匂い。遠い記憶が呼び覚まされる。
私の初めての子ども。この惨劇の最初の生贄となった、あの子だ。
「ちづ……なの?」
私は震える声で呼びかける。
蛍は私の声を聞くと、ぱあっとはじけるように飛び散った。
何百何千もの光の粒となり、それは一つの姿を形づくり始めた。
忘れ得ぬ、愛し子の姿がそこにあった。
「おっかあ、起きて。おっとうが困っているよ」
懐かしい愛しい声が、冷たい世界に鳴り響く。
夜明けを告げる小夜啼鳥のように。
「あなた達、いい加減おっかあに甘えるのは止めなさい!」
ちづは小さな子どもに言い聞かすようにちょっと怒った声を出し、私に貼り付いていた子ども達をべりべりと引き剥がし始めた。
剥がされた子ども達はバツが悪そうな顔をして、ちづを見つめていた。
「はいはい、もうお終い。『おっかあ』は『おっとう』の所に帰らないといけないの。あなた達の相手をするのは、ここまで。……あなた達も自分のいる場所に還りなさい」
まるでお姉さんみたいな口調でちづは言う。
ある意味この子達は、ちづ自身であり、弟でも妹でもあるのだ。
「おっかあを返してあげよう。……さみしいのは分るけど、我儘いっちゃ駄目よ」
誰に向かって言っているのだろうか。この子達だろうか、それとも……。
「おっとうね、おっかあが帰るのを待っているんだよ。おっかあの枕元でずっと付き添って。来る日も来る日も、ほっぺが落ちそうな美味しい食べ物を枕元に置いて、自分は口もつけずに待っているんだよ」
ちづの言葉に、病室に眠る私とその横に寄り添う兄さんの映像が飛び込んで来る。
見るからに高級そうな林檎を剥き、私の枕元にそっと置く兄さん。
物言わぬ私に切なそうに呼びかけ、涙を堪える兄さん。
兄さんの悲哀が、ひしひしと伝わって来た。
「おっとう、お酒を一滴も飲まずに、おっかあの帰りを待っているんだよ。あの大酒飲みのおっとうがだよ。……早く起きて、おっとうを喜ばせてあげて」
ちづが、重く沈んだ声で呼びかけて来る。
暗い声にもかかわらず、その声には温かい優しさに包まれていた。
「おっかあに『お銚子、もう一本つけますね』って言われて喜ぶ、子どもみたいなおっとうの顔、ちづ大好きなの!」
胸を締め付けられるような感動が、私の心に押し寄せて来た。
最後の一人が引き剥がされた。
「おっかあ、行って。もう迷っちゃ駄目だよ」
ちづは小さな体でよいしょっと私を引き起こし、遠くに輝く光を指差した。
「あそこでおっとうが待っている。……あそこがおっかあが帰る場所」
ちづは少し寂しそうに語りかける。
私は居たたまれない気持ちになり、思わず言葉が出た。
「ちづ、一緒に行こう。あなたも一緒におっとうの所に行こう。あなたの場所は、私が作るから!」
何の根拠も、考えもなしに、そんな言葉が口から出た。
そんな私を見ながら、ちづは哀しそうに言った。
「ありがとう、おっかあ。嬉しい、ほんとうに嬉しい。……けど、駄目なの。一緒に行けないの、私は……」
涙を堪えながらちづは言葉を紡ぐ。
「……ちづ」
「行って、おっかあ。そして幸せになって、私の分も……」
ちづはとんと私を押し出した。
私は光に向かって昇り始めた。
ちづの姿がどんどん小さくなってゆく。
小さな身体で両手いっぱいに広げ、私に手を振っている。
「おっとう、おっかあ、だいすき……」
ちづの声が、遠くから聴こえる。
世界で一番優しい声だった。
闇は段々と晴れ、光の世界が迫って来る。
その世界は、眩しすぎた。
これまで何千年と嘆きの世界にいた私には、温かすぎた。
「つ……ぐ……み」
戸惑うように呼びかける声がする。
夢にまで見て、切なくて、辛くて、思い出さないようにした声だ。
「兄さん……………………」
私は呼びかける。これは、悪夢?
ぎゅっと強く、私は抱きしめられる。
「いたいです。……兄さん」
なんて答えるのだろう、この幻は。
「心配かけた罰だ」
兄さんらしい、私が思いつかない言葉が帰って来た。これは……現実?
兄さんの頬が、私の頬に重ねられる。……暖かかった。
兄さんの顔の向こうに、満天の星空が広がっている。
兄さんの背中の向こうに、松明で赤く縁取られた道が見える。
私はこの場所を知っている。
ちづの世界の、思い出の場所だ。
私はすべてを理解した。
ちづがここに、導いてくれたんだ。
ありがとう、ちづ。
私は必ず幸せになってみせる。
あなたの分も。
私は力いっぱい、兄さんを抱きしめた。