神の因子
終わりの始まりという物は、後になってからわかる物で、近づいて来る時はそれとは気づかないものである。後ろ姿ばかりが、よく見える。
「ご報告!ジャダラン氏族のジャムカが、二万の軍勢でケレイトを襲撃。ケレイト族長トオリル・カンは討死に。現在略奪と虐殺が行われています!」
早馬の伝令が、息も絶え絶えに報告する。
兄さんの顔が青ざめる。
トオリル・カンは、兄さんの父君『イェスゲイ』の義兄弟。
若き日の部族追放された不遇時代、兄さんを何かと助けてくれ、兄さんが義父とも慕う存在。そのことはジャムカも十分知っているはずだ。これは、同盟の破棄に等しい。
兄さんは、義父と義兄を失ったのだ。
怒りか悲しみか。兄さんの胸の内を思えば身を切られるようだ。
だが、これで終わりではなかった。
「……なお、ナイマンに駐留していたジョチ様の軍勢五千、ジョチ様の指揮のもとジャムカと行動を共にし、虐殺を行っています!」
皆の動きが凍った。これは……反乱だ。
「馬鹿な!何故そのような事になる。ジョチ様が捕らえられ、部隊は脅されでもしたのか」
家臣の一人が声をあげる。
そうであれば、どれだけ救われることだろうか。
だが、伝令の答えは無慈悲だった。
「いいえ、ジョチ様は自ら先頭に立ち、積極的に虐殺を行っています」
ここに至り、状況は明白だった。
兄さんは全ての同盟者を失い、後継者に裏切られたのだ。
兄さんはゆっくりと立ち上がり、力強い声で宣言する。
「ケレイトに進軍する。敵を討ち、草原を我が物とする!」
おおっ――。鬨の声があがる。……もう、戻れないのか。
「一人にしてくれ。少し考えたい」
兄さんはそう言って自分のゲルに引き上げて行く。
私はちょっとだけ時間を空け、兄さんのゲルに入っていった。
兄さんは咎めることなく、私に語りかけた。
「今度こそは大丈夫かと思っていたが、……やはりこうなるか」
兄さんは諦めとも憤慨とも思える顔をしていた。
「ジョチを出来るなら助けてやりたい。だが……覚悟しておいてくれ」
許しを請うような、折れそうな目だった。
「兄さんが助けたいものは何ですか。我が子ですか、世界ですか、それとも私たちですか?」
私は根本的なことを問うた。
「すべてだ。それらはみんな繋がっている。どれかを失ったら、みんな引きずられて壊れてしまう」
ああ、この人は欲張りで、優しい人なんだ。
この人を失う訳にはいかない。
私は決断した。
「止める気はありません。ただ一つだけお願いがあります。……この戦いに私も連れていってください」
「おい、それは…………」
兄さんは翻意を促すよう言葉を発そうとするが、それを飲み込む。
私の目の揺るぎないものが、そうさせた。
「わかった。だが自分の身の安全を第一にしろ。お前に何かあったら、俺は救われない」
「私の第一は、昔も今も兄さんですよ。けど兄さんの第一が私というなら、それは大切にしないといけませんね」
私はちょっとの笑顔を浮かべた。
「俺の宝物を、粗末に扱うんじゃねえぞ」
私たちは笑い合った。
終わりの前の、ささやかな木漏れ日だった。
戦場の跡は、血が冷えるような恐ろしい場所だった。
建物は焼かれ、崩れ落ちている。
そこに数多の躯が転がっていた。
躯はそれぞれ異なっていた。
腹を切り裂かれ内蔵をぶちまけた者、四肢をもぎ取られのたうち回っていた者、口の中に無数の矢を突き立てられた者、様々だった。
だがその目だけは一様だった。
恐怖に怯え、理不尽な暴力を怨み、非力な自分を呪う、負の色に満ち満ちていた。
「……これを、あの子がやったというのですか」
私はどうしても、目の前の現実と優しい幼い頃のあの子を結び付ける事が出来なかった。
兄さんはこくりと小さく頷く。
「何故ここまでしなければいけないんです。これは、戦いでも征服でもありません。ここまでする意味がわかりません!」
私は目の前の悪魔の所業を振り払うように大声をあげる。
「それは、あいつに問わなければわからんな。……まだこの地獄は終わっていない。多くの者が捕虜となって連れ去られた。追うぞ」
私たちはジョチとジャムカを追い、タクラマカン砂漠へと向かった。
タクラマカン砂漠。死が無限に広がる場所。帰れない場所。何故こんな所に彼らは来たのか。
「敵はロプノールに陣取っているようです」
斥候が報告を入れる。
ロプノール、『さまよえる湖』。
漂泊する私たちには皮肉な場所だ。
長い行軍の末、私たちはついに彼らに追いついた。
昼の灼熱地獄、夜の凍結地獄、黒い嵐を乗り越え、ついに到着した。
兵たちの疲労の色は隠しようもない。
長くはもたない。
私たちは慎重に行動した。
そんな私たちに、単騎で近づく影があった。
「やあ、兄弟。奇遇だな、こんな所で会うなんて。美味い酒があるんだ。一杯やらないか」
飄々と語りかけるのは、あの男だった。
「酒はいい。……話がある」
兄さんは憮然たる面持ちで言い放つ。
「まあ、そう言うな。こいつは凄いぞ。蒼き狼と白き牝鹿の螺旋の因子を抽出し、加え、要らない因子を取り除く。それを特殊な時間の流れの中で、じっくりと何千年も煮込んだ逸品だ。ここでしかお目にかかれない名品だぞ。知っているか、流れの早い滝もあれば留まり続ける湖があるように、時の流れは一律じゃない。ここはそういう歪みが存在する場所なんだ」
聞き捨てならない言葉が飛び出した。
遺伝子工学における塩基配列のノックイン、ノックアウトではないか。
そして時のたわみを理解している。
「『蒼き狼』と『白き牝鹿』の因子だと。……貴様、何を使った」
兄さんは怒りに震え、それでも踏みとどまって詰問する。
「わかっているんだろう。あいつだ、ジョチだ。『蒼き狼』の因子を色濃く持つお前と、『白き牝鹿』の因子を色濃く持つボルテの子ども、ジョチだ」
私たちは慄然とする。あの子は、人を辞めたのか。
「言っておくが、無理やりじゃないぞ。あいつが望んだんだ。健気じゃないか。自分の親のようになりたい。その一心ですべてを捧げたんだ、身も心も。自分の身体に捕虜の因子を取り込み、始原の存在に遡ってゆく。いや、すごかったぞ。怨嗟に煮えたぎる数千の捕虜の因子が、あいつの身体を力強く駆け巡る。それが止まったような時の流れでじっくりと馴染んで行く。天地創造を見ている気分だったよ」
そのための虐殺か。これは……悪魔の所業だ。
「あなたは神にでもなったつもりなの。人の理を捻じ曲げ、一体なにを望むの!」
私は悪魔に向かって問いかけた。お前の望む世界はどんな形をしているのかと。
「……きさま達にはわかるまい。神の因子を持つお前たちには。俺たち草原の民は、正統を重んじる。それは絶対だ。その絶対者がテングリ、お前たちの系譜だ。俺たちはその属性、太陽や月や星でしかない。お前たちはずるい。俺たちが欲しいものを最初から持っている」
ジャムカの言う事は、『ボルテ』である私は理解できた。
しかし『つぐみ』である私は、違った。
「なに甘ったれたことを言っているの。世界はつくり上げるものでしょう。過去の焼き直しばかりしていても、未来はないわ」
過去を疎かにするつもりはない。だがそれに囚われていたら、先人への冒涜ともいえる。彼らは喜んで我が子の踏み台となり、我が子が輝く未来を手にすることを望んでいるのだから。
「傲慢だな。人は神に及ばない。ならば神の創りたもうた始原こそが至高。不純を排し、神へと近づく。これこそが絶対正義!」
駄目だ、相容れない。私たちは未来を夢見ているが、こいつは過去の夢に囚われている。同じ理想を求めるのでも、向かう方向が逆だ。
「さて、頃合いかな。お前たちの憎悪も程よく温まった。それは俺を神の世界へと導いてくれる。さあ来い、『蒼き狼』。俺と共にテングリへと至らん!」
ジャムカの声が空に響く。
すると雲を裂き、巨大な獣が天より降りてきた。
蒼というより、少しくすんだ灰色の狼だった。
私には、その獣の魂の形が見えた。
「ジョチ、ジョチなのね。……帰りましょう。今ならまだ間に合う」
私は祈るように叫んだ。
獣は寂し気に目を逸らした。
「はは、世迷い言を。こいつは望んでこの姿となったんだ。誰にも後ろ指を指されない、正統を手に入れたんだ。手放すはずがない」
勝ち誇ったようにジャムカは哄笑する。
「最後の仕上げだ、俺を喰え」
そうい言うとジャムカは両手を広げ、獣を恍惚とした目で迎い入れる。
獣は大きな顎を開き、ジャムカを飲み込み、鋭い牙でその体をかみ砕く。
ハハハハハッ――――。薄暗い、勝利の咆哮が轟いた。
愛しい我が子と、忌むべき悪魔が融合した獣が、そこにいた。
久しぶりの、[日間] 現実世界〔恋愛〕ランキング入りです。
喜びのあまり、頑張って本日も投稿させて頂きました。
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