生々流転
私は同じ夢を見る。何千年も……。
そこはモンゴルの高原だった。
そこで兄さんは『蒼き狼』と呼ばれていた。
兄さんの人生は順風満帆ではなかった。
お父様は『勇者』の名を持つ有力者だった。
しかし毒殺され、兄さんの一族は部族を追放された。
私と兄さんの婚約が成った直後の事だった。
私は兄さんと一緒に流浪の旅に出た。
旅は、幸せだった。
貧しい暮らし、厳しい自然、それでも兄さんと暮らせる日々は楽園だった。
兄さんの子供も身籠った。……幸せだった。
だがその幸せが、突然終わりを迎える。
メルキト部族の長、トクトア・ベキが襲撃してきて、私を連れ去った。
私は無力だった。抗う術も無く連れ去られた。
下卑た笑顔を浮かべる略奪者を前に、私は一つの決断をした。
「この身は我が夫のものです。もし穢すというならばこの命を失おうとも、夫の尊厳、私の純潔を守りぬきます」
隠し持っていた短刀を首に当て叫ぶ。首筋に一筋の血が流れてゆく。
「この命と引き換えに我が夫は人質の縛りから解放され、あなた方には卑劣漢の名を着せる事が出来るでしょう」
私の言葉は脅しではなかった。本気でそうするつもりだった。
兄さんの足枷になる事、この身を兄さん以外にゆだねる事、耐えられなかった。
男たちは青ざめた。
もしそうなれば自分たちに戦略的優位は無くなり、残るのは部族における汚名だけだ。
膠着状態となった。
どうしたものか。皆が考えあぐねていると、一人の男が出てきた。
「ボルテよ、刃を収めよ。そなたに危害を加えぬと約束しよう。
儂らは略奪者ではない、復讐者だ。……そなたの夫であるテムジンの父『イェスゲイ』が、儂の弟の婚約者『ホエルン』を嫁入り行列の途中で襲撃し、強奪した。そしてイェスゲイはホエルンを娶り、テムジンが生まれた。……わかるか、これは正統な復讐だ。それを貶めるような真似はせん!」
トクトア・ベキが力強く言い放つ。
ああ、これは負の連鎖だ。私は未来を予感した。
兄さんは義兄弟であるジャムカと協力し、私の奪還にやって来た。
暗い闇夜のことだった。夜襲だった。
私は願った。
私のことはどうでもいい。ただ兄さんの心が闇に染まりませんように。それだけを願った。
斬撃の音、断末魔の悲鳴が鳴り響くなか、私だけがわかる言葉が聴こえてきた。
「つぐみ、どこだ!助けに来たぞ。どこにいる。返事をしてくれ」
懐かしい、東の島国の言葉だ。
「兄さん、ここです。私はここにいます!」
私も同じ言葉を叫ぶ。
闇夜の中、煌々と燃える松明が近づいてくる。
松明はゆらゆらと、愛しい人の姿を照らしていた。
「つぐみ、遅くなってごめん。怪我はないか。……恐い思いをさせたな。本当にごめん」
謝罪と私の身を案じる言葉しか出てこない。自分の名誉とか、部族での立ち位置とか一切眼中になさそうだ。この人らしい。
「もっと聞くことがあるんじゃないですか。……私の貞操とか」
一番言いたくなかったことを私は言う。
「それを許すお前じゃないだろう。……正直、一番恐かったのはそれだ。貞操を守ろうと自害するんじゃないかと。それが一番恐かった。よかった、生きててくれて」
……この人は、ホントに私のことをわかっている。
よかった、死ななくて。もし死んでいたら、この人は魔に堕ちていただろう。
「ええ、私は穢されていませんよ。まっさらな綺麗なままです。私についている匂いは、兄さんのだけです」
私は満面の笑みを浮かべた。
今のこの人には、涙よりも感謝よりも私の幸せを伝えることが大切だ。
「よかった……」
その顔は宝物が壊されなかったという物では無く、大切な人が不幸にならなかった事を喜んでいる顔だった。
「おいおい。再会を喜ぶのもいいが、トクトア・ベキを討つのはどーすんだ。あいつを討ち取れば部族内の地位も上がる。お前にはそれを行う大義名分があるんだぜ」
暗闇から男の声がした。男はガシャガシャと剣を鳴らしながら近づき、松明の灯りの下その姿を現す。
ジャムカだ。幼少の頃から兄さんと一緒に遊び育った同盟者、ジャムカだ。
「そんなもん、お前にくれてやる。俺はこいつだけがいれば、あとは何もいらない」
ジャムカは呆れたような顔をする。
「欲の無いこって。じゃあ欲深な俺は、美味しそうな獲物を貰いにいきますか」
笑いながらジャムカは去ってゆく。
「兄さん、行かなくていいんですか。トクトア・ベキを打ち取れば、カンの地位も夢ではないんですよ」
私は質問というよりも、兄さんに決断を促した。
幼い頃より権力にいい様にされてきた兄さんに、幸せになってもらいたかった。
「『起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半』。幸せは量じゃない、質だ。お前が隣にいる人生が、俺の最上級なんだ」
「ここ、畳もお米もありませんよ……」
「確かにコメは食いたいな。あのモチモチとした甘い味わい。……いっそ南国に移り住むか」
「そんなことで移住決めるのは、アホです。水瀬みたいなこと言わないでください」
私たちは笑い合った。
「それに、この子がもうじき産まれます。私たちの魂はあの世界に片足がありますが、この子は草原の子です。ゲルに住み、馬に跨り、馬頭琴を奏で、美しい歌を口ずさむ。……この世界で幸せになりましょう」
「そうだな、デールを着て、羊肉を食べて、アイラグを飲んで、タラグを食べる。この生活も悪くはない。幸せになろう……三人で」
兄さんはそっと私のお腹に手を当てる。
ぴくんとお腹が動いた。
幸せだった。
私たちは帰路についた。
その道中に、私は子どもを産んだ。
男の子だった。
兄さんに似た涼やかな目。私に似た椿の花のような紅い唇。
全てが愛おしかった。
『ジョチ』と名付けられた。名付け親はジャムカだった。
私の奪還に協力した礼にと、その権利を主張してきたのだ。
私は眉をひそめた。
『ジョチ』とは『客人』『旅人』という意味だ。
ジャムカ曰く、『凱旋の旅の中で産まれた子だから』という事だった。
理屈は合っている。だが一抹の不安が私をよぎった。
綻びは、ちょっとずつ育っていった。
兄さんとジャムカの間に不和が生まれたのだ。
トクトア・ベキを打ち取ったジャムカが勢力を伸ばすはずだった。
だがそうはならなかった。
ジャムカのメルキト部族敗残兵に対する処分が苛烈過ぎたのだ。
煮えたぎる油や湯で釜茹でにし、疾走する軍馬に踏み殺させた。
残忍な行いに部族の長たちは戦慄し、ジャムカの許を離れ兄さんの許へと身を寄せた。
兄さんの勢力はどんどんと大きくなっていった。
兄さんが望んだことではない。
だがジャムカはそれを快く思わなかった。
二人の溝は、段々と深くなってゆく。
表立って対立することはない。
しかし私はまだ知らなかった。裏に隠れた悪意ほど、始末に負えない物だという事を。
ある時、ゲルの周りで子供たちが騒いでいた。
何事だろうと近づいてみる。
そこには七歳に成長したジョチと、ジョチを取り囲むように10名ほどの同年代の子供たちがいた。
「もういっぺん言ってみろ!」
大人しいジョチが、珍しく声を荒げている。
「何度だって言ってやる。おまえはテムジンさんの子供じゃない。メルキト族の子供だ。ボルテさんがメルキト族に攫われた時に出来た子だ。おまえにはあの薄汚い部族の血が流れているんだ!」
ジョチの正面に立つ男の子が声を張り上げる。そうだそうだと周りの子供たちが囃し立てる。
「うそだ。父さまも母さまも、操を守りぬいたと言っていた。テングリのご加護でメルキトも手が出せなかったって言っていた」
「はん。おかしいだろう。テングリのご加護があるなら、何で攫われるんだよ。テムジンさんが恐いから大人は口に出さないけど、みんな裏では言っているぞ。『ジョチはメルキトの子供だ』って。だからお前の名前は『ジョチ』なんだって。お前は俺たちの長にはふさわしくない!」
ジョチは凍りつく。
泣くことも、大声で叫ぶこともない。すべてが麻痺したかのように、凍りつく。
なんてことだ。
このような噂が出ないようにあらゆる手は打ってきたのに、何故こうなった。
「だれがそんな事を言っているのかしら。クリルタイでジョチは私たちの子どもと認められたのよ。クリルタイの決定に異を唱えるのは誰か、教えてくれる?」
私は努めて平然と、みんなの前に出ていく。
私の登場に、子供たちは吃驚した。
これは一つの戦いだ。冷静に、慎重に事を進めなければ。
「……ジャダラン氏族の男が言っていた。救出に行った時、ボルテさんがメルキトの奴らの慰み者になっているのを見たって」
ジャダラン氏族、ジャムカの出身部族だ。
「そのジャダラン氏族の男というのは誰?本当にその場面を見たと言ったの?」
「……いや。一緒に戦いに行った奴から聞いたと言っていた」
やはりそうか。尻尾を掴ますような真似はしないか。
「そうでしょうね。だってそんな事、なかったんですもの」
私は自分の首筋に手を当てる。
そこには一筋の傷跡があった。
「この傷は、その時についた傷。もし私を穢すというなら、この首を切って自害すると言って剣を突き立てた時についた傷。メルキトの男たちは、私に手も触れなかった。彼らは言ったわ。私を攫ったのは復讐だと。族長の弟の婚約者、テムジンのお母様『ホエルン』様を奪った仕返しだと。メルキト族の名誉を守る為のことで、その名を貶めるような下劣な真似はせんと言ったわ。私は自分の名誉を守った。メルキト族も自分たちの名誉を守った……命懸けで。それはあなた達が簡単に穢していい物じゃないのよ」
子供たちは俯き、申し訳なさそうな顔をした。
「帰りなさい、自分たちのゲルに。そして語りなさい、今あったことを。自分に誇りがあるのなら」
重い足取りで、一人また一人と去っていった。残されたのは私とジョチの二人きりだった。
ジョチは縋るような目で私に語りかけた。
「母さま、いまの話は本当ですか。僕は本当に……父さまの子どもなんですよね?」
質問というより、救いを求める声だった。
「当たり前でしょう。あなたは『蒼き狼』、テムジンの息子よ。それ以外にあり得ません。テングリの名に懸けて!」
私は力強く抱きしめた。我が子の不安を取り除くように。
だが私は知らなかった。疑念の苗は根深い事を。