守り人
鈍い刃の輝きが、茨の棘のようにわたしの心を掻きむしる。
刃がわたしに迫って来る。
わたしはじっと動かず待ち構える。
わたしの心は総毛立つ。
命の危険を知らせる警鐘が鳴り響く。
その瞬間、わたしは解放される。
苦しみから、悔恨から、贖罪から。
いとしいあの人を守れなかった自分から。
唾棄すべきわたしを脱ぎ去ることができるのだ。
「それまで。勝者、水瀬 芽衣!」
審判が腕を上げ、勝敗の結果を告げる。
わたしの足もとには、五人の男が倒れている。
「すごい。これが五行家の実力か」
「最後の切り返し、あそこから間に合うのか。信じられん」
「速さもそうだが、状況判断が異常だ。五人同時攻撃だぞ。どうやって認識してるんだ」
外野がうるさい。
何千年もやっていれば、大気の流れや人の熱ぐらい簡単にわかる。
そういう物に神経を集中し、命を刃の切っ先に当てた瞬間だけ、煉獄から解放される。
褒められたもんじゃありませんね。
称賛の渦の中、一人顔をこわばらせる者がいた。
「水瀬、ちょっと来い。話がある」
わたしは苦し気な表情のナギさんに連れられ、彼女の執務室へと向かった。
「水瀬、このままでは駄目じゃ。お主、壊れてしまうぞ」
言葉を振り絞るようにナギさんは言う。
「さっきの模擬戦、何故あそこまで身を危険に晒した。……逃れたかったのじゃろう、苦しみから。死の外縁に身を置き、生の苦しみから逃れる。そういう奴らを、儂は大勢見てきた」
ナギさんは遠い目で、哀しそうに言う。
「そういった奴らの末路は哀れじゃ。より強い刺激、より強い死を求め、その身をいたぶる。麻薬中毒が、より強い麻薬を求めるように。そして死んでゆく。自分の人生を足蹴にしながらな。……お主はつぐみとの人生を、そんな形で終わらせたいのか」
刺すような鋭い目つきでわたしを見つめる。
安易な逃げは許さないと。
「どうしろと……言うんです」
わたしは憤るように、縋るように言葉を振り絞る。
「島へ行け。剣斗に会ってこい。……彼奴もいろいろあった。お主の進むべき道を指し示してくれるかもしれん」
師匠……会いたい。でも……。
「つぐみお姉さまの許を離れる訳にはいけません」
わたしの優先順位第一番はお姉さまだ。わたしのことは二の次だ。
「つぐみの為にも、お主は立ち直らなければならぬ。今のお主に正常な判断はできない。柚月と一緒じゃ。このままでは、お主も五行家に帰さねばならん」
柚月ちゃんと一緒。その言葉に愕然とした。
柚月ちゃんはこちらの世界に戻っても、意識を取り戻していない。
何を話しても、何をされても反応しない。
肉体は生きていても、心は死んでいる。
今は火野家に帰され、治療を受けている。
そうか、わたしと柚月ちゃんは一緒なのか。
外縁にいるか内縁にいるかだけの違いで、わたしたちの心は死の世界にいるのだ。
「わかりました。師匠と会ってきます。出発は何時ですか」
「明日、朝一番の船に乗れ。今晩はつぐみと一緒におるとよい」
わたしはその夜つぐみお姉さまの手を握り、一晩中そのお顔を眺めながら朝を迎えた。
わたしはきっと帰ってきます。ですからお姉さまも必ず帰ってきてくださいね。
八時間の船旅を終え、懐かしい島に到着した。
三か月前というが、わたしにとって何千年も昔だ。
痛いように照りついていた日差しも、今は少しやわらいでいる。
時は流れていた。
「お待ちしていました、水瀬さん。比丘尼さまからお世話をするように申し使っています」
桟橋には以前わたしの監視役をしていたメイドさんが出迎えに来ていた。
最初会った時はわたしが五行家の人間だということで敵意剝き出しだったが、今は家族のように接してくれている。
「詳しくは知りませんが、皆さま大変な目にお会いになったと聞いています。……この島で、傷ついた身体と心をお休めください。何なりとお申し付けくださいませ」
何の思惑も打算も無く、善意の言葉が投げかけられた。
泣きたくなった。
「師匠に……会いたいんですが」
メイドさんはその答えを予想していたかのように『うん』と頷くかのように顔を縦に振り、静かに答えた。
「剣斗さんはあの砂浜でお待ちです。貴方と初めてお会いしたあの砂浜。……行かれますか?」
「ええ、すぐに」
わたしが初めてこの島に上陸した砂浜が見えてきた。
師匠にけちょんけちょんに負け、頭から砂浜に突き刺さったあの場所だ。
わたしが両脚を大きく天に広げていた所に、師匠の巨大な姿があった。
八本の丸太のような腕、30メートルの身体は山のように高くそびえていた。
その巨躯に似つかわしくない、大きなくりっとした小型犬のような目。
霊山のように変わらぬ師匠の姿がそこにあった。
「お久しぶりです、師匠」
わたしは敬意を込め、深く頭を下げる。
「キュルルル(久しいの、芽衣)」
師匠の力強く優しい声がした。
師匠が海に入ってゆく。
ついてこい。言葉は不要。あとは拳で語るのみ。
師匠の背中がそう言っていた。
わたしは拳を握り、海へと向かう。
久しぶりにへろへろになった。
力を出し尽くした。空っぽになった。
胸につかえていた物が吐き出されたようだった。
わたしは砂浜に大の字になって寝ころがる。
『お前も、いろいろあったのだな』
寝ころがるわたしの横に師匠は座り、話しかける。
「まだ何も言ってないんですけど」
『拳が、語っておったよ。どれだけ多くの戦場を渡り歩いてきたか。どれだけ多くの死にかかわってきたか。どれだけ多くの涙を流してきたか。……つらかったな』
師匠は水平線の彼方を見ながら語りかける。そこにわたしの数千年を見るように。
絹のような羽のような柔らかい声が、わたしの傷を撫でてゆく。
痛みと傷が、わたしから離れていった。
ああ、この人はわたしの師匠だ。
水夫を導く北斗の星だ。
その輝きは暗闇のなか燦然と輝いていた。
「師匠は、どうしてこの島を守っているんですか?……師匠は、この島のモノではないでしょう」
残酷な、無礼な、だがどうしても聞かなければならない質問をした。
守るべきもの。今のわたしにはそれがどういうものか、見失っているからだ。
師匠はその問いに少しの憤りも見せず、困ったような顔をした。
『言葉にするのは難しいな。これを見て、お前なりの答えを見つけてくれ』
そう言うと、師匠はわたしのおでこに触腕をちょこんと当てた。
世界が真っ暗になった。
真っ暗な世界に何かが見え始めた。
暗く冷たい水の底だった。
上には青白い光が僅かに差している。
でこぼこの白い塊が頭の上にあった。
巨大氷盤だ。何キロメートルもの広大な氷塊が蓋となって続いている。
その下を鋭く尖った二本の牙を持つ生物が泳いで行く。
あれはセイウチ。となるとここは北極海。
自分の身体が目に写る。
師匠の腕だ。だが丸太のような腕は、二回りも小さい。
これは師匠の幼い時の記憶か。
そこは動物たちの楽園だった。
天敵たる人間はいない。
冷たく閉ざされた極寒の地で、原始の王国が営まれていた。
新雪のような肌をした純白のベルーガが口笛のような囀りをする。
ユニコーンの角のような長い牙を持つイッカクが、その牙をメスに誇らしげに見せている。
流氷の上をホッキョクグマの親子が仲良く歩いている。
そこである事に気が付いた。
師匠は、一人だ。
他の生き物はこの過酷な世界を生き延びるのに、群れで生活している。
なのに師匠には仲間はいない。
巨大な力を持つが故に一人なのか、一人が故に巨大な力を持つようになったのか。
それは分からない。だが師匠は孤独だった。
食べ物を分かち合うことも、傷を癒してもらうことも無かった。
さみしかった。
師匠は旅に出た。仲間を求めて。
だが誰もが師匠を見ると逃げてゆく。
自分には仲間は存在しないのか。
失望を重ね、旅を続ける。
ある日、大きなモノに出くわした。
優美で細長く、滑るように海面を進んでいた。
師匠は海上に浮上し、その姿を見やる。
後方に高いマストがあり、方形帆が張られていた。
ロングシップだ。ヴァイキングの船だ。
師匠は期待を込めて近づいてゆく。
「化け物だ。みんな、追い払え」
怒号と一緒に、矢や槍が飛んできた。
攻撃を受けるのは、初めてのことだった。
傷ついた。身も心も。
絶望を胸に、暗い海の底に潜ってゆく。
暗闇の中、身体を抱え蹲っていた。
寂寥感に苛まれながら。
そこに一条の光が差した。
それは温かく、美しく、真っすぐ海の彼方まで伸びていた。
救いの糸に見えた。
縋るように、誘われるように、光の糸を辿って長い旅を始めた。
氷の海を抜け、狭い海峡を通り、暖かい南洋に出た。
光は南の島まで続いていた。
長い旅で、身体はボロボロだった。
シャチの群れに襲われ、海流に流され、傷だらけだった。
ようやっとの思いで砂浜に辿り着いた。
「なんじゃお主、ひどい有り様じゃの」
砂浜に倒れ込む自分に呼びかける者がいた。
自分に、言っているのか。恐ろしくないのか、私が。
師匠は驚愕した。
「比丘尼さま、危険です。離れて!」
群れの仲間が注意を促す。
……そうだろうな。なにを期待していたんだ。
「たわけた事を抜かすな。『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』と申すではないか。……それに、此奴からは邪気を感じられん。まるで生まれたての赤子のようじゃ。このような者を見殺しにしてみろ、きっと後悔するぞ」
「でもこれは、異形の者ですよ」
「……何度も申しておるじゃろう。異形とは姿形では無い。その心持ちじゃと。お主の理屈ならば、儂も立派な異形じゃぞ」
こいつは何を言っているんだ。私を……認めると言うのか。
「さてと、手当てをするぞ。えーと、名前が無いとやり辛いの。うん、『剣斗』じゃ。お主の名は『剣斗』じゃ。剣のように尖った頭のお主にはぴったりじゃろう」
「……安直すぎません?その名前」
「いやいや、いい名じゃぞ。此奴もしかして恩を感じて、この島の守り神になってくれるかもしれん。そうなれば、これ程相応しい名はないぞ」
剣斗、剣斗、私の名前。
胸に温かいものが流れてきた。
「さあ、さっさと済ますぞ。ちょっと沁みるが大人しくしておれよ、剣斗」
従います、あなたの言葉に。
そして誓います。必ずあなた方を守ると。この名にかけて。
私はこの島の守り人となる。
師匠の触腕がわたしの身体から離れた。元の風景が見えてきた。
独り言を零すように静かに語りだした。
『この島は、やっと巡り会えた場所なんだ。私の宝物なんだ。剣斗さん、剣斗さんと慕ってくれる。絶対に手放したくないんだ、この場所を。……その為なら、命も惜しくない』
師匠の大切なものが、わかった気がした。
『お前にも大切なものがあるのだろう。命に代えても守りたいものが』
わたしは愛しい人の顔を思い浮かべる。
『あるようだな。そしてそれは幸せな結末ではなかったようだな。……守れた、守れなかったは結果論だ、仕方が無い。限界までやって力及ばなければ、それはもうどうしょうもない事なんだ』
「運命には逆らえないと……」
『お前なら運命にも喧嘩を売りそうだな』
「ええ、今まさにその真っ最中です」
『……運命に屈しろとか言っているのではない。ただ、あんまり自分を責めるなと言っているんだ。完璧に守ることを求め、僅かな瑕疵も認めない。その姿勢は素晴らしいが、それを求めるあまり自らの心身を痛めつける。それはある意味での敗北だ。……もう少し自分に優しくても、いいんじゃないか』
師匠の腕が、優しくわたしの頭を叩く。
『真の勝利のために、最終的に愛しい者を守るために、自分の心に折り合いをつけろ。それも一つの戦いだ』
わたしも、まだまだだな。何千年も生きてきて、わかった気になっていた。……やっぱりこの人はわたしの師匠だ。
その夜、わたしは久しぶりにあの夢を見た。
初めて訪れたあの六角形の世界だ。
そこでわたしはちづちゃんに踊りを教えていた。
後ろでつぐみお姉さまと柚月ちゃんと樹さんが笑いながら見ていた。
いつものみんなが泣き叫ぶ夢ではなかった。
わたしの心は救われた。
翌日、わたしは波止場に立っていた。
「もう帰られるんですか。昨日来たばかりなのに」
メイドさんが名残惜しそうに言う。
「ええ、ここでやるべき事は終えましたので。……むこうでやることが残っているんですよ」
わたしは静かに眠るつぐみお姉さまの姿を思い浮かべる。
「……それが片付いたら、また来てくださいね。その時は自慢のエステ術で、ツルツルのピカピカにして差し上げますから」
この人もただのメイドではない。わたしと同じ匂いがする。おそらく事情を知ったうえで言ってくれているのだろう。
「ええ、必ず。つぐみお姉さまと柚月ちゃんも連れてきますね」
「樹さんは、いいんですか」
「いいんです。これは女子会です。あの野郎はお呼びじゃありません」
「あらあら、かわいそうに」
わたしたちは笑い合った。
こんな事、何百年ぶりだろう。
『達者でな』
岸壁の向こうから師匠の声がする。
わたしはこくりと頷き、右手を突き出し、拳を握る。
師匠も触腕を丸め、わたしに伸ばす。
二人の拳がこつんと当たった。わたしたちに言葉は不要だ。
船を待っているわたしたちに、港湾施設から一人の男が慌てて走り寄ってきた。
男の顔は青ざめ、私たちの許に着くと大声で叫ぶ。
「水瀬さん、大変です。エマージェンシーコールが届きました。あなた達が治療を行っているS病院が攻撃を受けています。敵規模は約三千人、……総攻撃です。早急に帰還せよとの指示です!」
やられた。まさかこんな僅かな隙を突かれるとは。
「了解しました。すぐに帰還します。一番速く帰れる方法は?所用時間は?」
わたしの問いに男は口ごもる。
「船で、八時間です……」
遅すぎる。それでは戦いが終わったあとだ。
「飛行機は?ヘリは?手配できないんですか」
「この島には滑走路がありません。ヘリも、本土との往復距離が航続距離を上回っています。給油施設がないので、途中給油が出来ないんです」
わたしは絶望した。この男を責めてもどうしょうない。この島に来る時に、こういう事態を想定していなかったわたしの落ち度だ。
『私が連れていってやる』
俯くわたしに、師匠の声が届く。
『私ならば、船の三倍の速さで進める。そして芽衣、お前の協力があれば十倍の速さで進むことも可能だ』
十倍の速さ、そんなことが物理的に可能なのか。驚くわたしに師匠は触腕を伸ばし、額に当てる。
映像が飛び込んできた。
冷たい北の海だった。墨のような黒い空が広がっている。
遠くに近代的な艦隊が展開している。上空に戦闘機が飛んでいた。
見覚えがある。あれはMiG-25、旧ソ連の戦闘機だ。
『私が50年程前、道に迷ってオホーツク海まで行った時のことだ』
師匠の声がする。えらい壮大な迷子がいたもんだ。
映像が海の中に変わる。海の中を途轍もない速さで進む物があった。
見たことがある。『シュクヴァール』だ。
冷戦時代に旧ソ連で開発された『超空洞技術』を用いた超高速システムの魚雷だ。
速度を殺すのは抗力だ。水中では抗力が大きいので速度が出ない。
抗力は液体よりも気体の方が小さい。
そこで、魚雷を空気の泡で覆い、水から受ける抗力を減らして速度を上げた。
最高速度は時速370kmにもなったそうだ。
『お前の力で空気の泡を纏い、私の力で水中を進む。酸素濃度が薄くなったら、浮上して空気を入れ替えて呼吸をする。……出来るか?』
正直難易度は高い。だが……。
「やれます。やります。やらせてください。お姉さまを守らせてください」
わたしは目を皿のようにして、全神経を集中して『シュクヴァール』の構成を解析した。
三分経った。
「いけます。大丈夫です」
わたしは勝利の声をあげた。
『いくぞ』
師匠の声と共に視界が戻った。
みんな不安そうな顔でわたしを見つめていた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
母親に手を引かれた小さな女の子が、恐る恐るわたしに呼びかける。
前に来た時に、わたしが遊んであげた女の子だ。
「大丈夫よ。お姉ちゃん、これから大切な人を助けに行くの。応援してね」
何故だか、女の子がちづちゃんに見えた。
あの子の助けが欲しかった。
「うん、応援してるね。頑張って」
わたしは一人で戦うのではない。
湧き起こる力を感じ、師匠に飛び乗る。
「これから戦地に向かいます。到着予定は一時間後。それまで持ち堪えてとお伝えください。……師匠、行きますよ」
わたしは空気の泡を展開する。
師匠はこくりと頷き海へと向かう。
水平線に消えゆく二人を見つめ、母親が女の子に語りかける。
「よく見ておきなさい。あれが私たちの守り神さまよ……」