千年の記憶
高い櫓の上で、二人の少女が神楽を舞う。
六歳と十二歳くらいの少女。
少女たちは舞う。
息を揃え、動作を揃え。
時に並び、時に向かい合い、時に背中合わせとなり、お互いの存在を確かめ合いながら舞う。
厳かで、清麗で、神に近しい空間がそこにあった。
「あの日のままだ……」
懐かしい匂いがした。
力強い、土のどっしりとした匂い。
燃える木の、夕餉の支度を知らせる柔らかな匂い。
通り過ぎる風の、草を含んだ匂い。
その匂いたちが、愛しいものたちを連れてきた。
二人の少女の顔が見知ったものに変わる。
不安そうに舞う六歳のミク。それを親鳥みたいな目で見つめる十二歳のタツキ。
奥から二人の少女が現れた。
澄ました顔で踊るユキと、緊張した顔のナミ。
そして最後に一人の少女が現れた。
白い小袖に緋色の袴。
長い黒髪をひとまとめにし、水引で縛って髪を留める。
唇にはうっすらと紅を差している。
その顔は気高く、真っすぐ前を向いていた。
『ちづ』だ。いとしい、いとしい、あの子だ。
目から涙があふれた。
懐かしい、切ない、やるせない、いろいろなものが混じった涙だった。
俺は千年の夢を見ていた。
音楽が止み、踊りが止まる。
櫓の下から、ぞろぞろと人が出てくる。
巫女装束に身を包んだ若い女性たちだ。
彼女たちは櫓を同心円状に取り囲む。
七重八重に取り囲む。
その頭には、和紙で作られた小さな金色の灯篭が乗っていた。
灯篭が放つ光の輪が、何重にも櫓を取り巻く。
音楽が再開された。
灯篭を乗せた女性たちは踊り始め、櫓の周りを練り歩く。
こんなもの、見たことないぞ。これは一体何だ。
「幻想的で綺麗でしょう。昔からこの地方に伝わる踊りで、封じられた物の怪を鎮めているんですよ」
案内役の男が、どこか誇らしげに語りだす。
「千年ほど昔に、大蜘蛛の妖怪が現れたそうなんです。そこで都から討伐隊が派遣され、この地に封じたと伝わっています。源 頼光や蘆屋 道満が来たとも。まあそれは後世の脚色としても、都から何者かが派遣されたのは事実のようです。それ以来、災厄を封じるという意味合いで、この踊りが生まれたんですよ。聖なる灯りで、魔を封じるようにと。……多分、なにかの疫病が発生したんじゃないでしょうか。その犠牲者を弔うために作られたんだと思います。当時は祟りとか、本気で信じられていましたからね」
俺は男の話を、怒りに震え、唇を噛みしめながら聞いていた。
おそらく、伝承は事実だろう。
あいつらがやって来て、ちづが殺された。
だが、順番が違うんじゃねえか。
ちづが怪異となり、あいつらが討伐にやって来た。
そうじゃねえ。あいつらがやって来たから、ちづが怪異になったんだ。
あいつらが虐殺を始めたから、ちづが憎しみに包まれたのだ。
ふざけんじゃねえ!ちづは優しい子だ。いい子だ。例え魔に堕す因子があろうと、この長閑な地で平和に暮らせていたはずだ。自分たちの僅かな不安のために、弱き者を根絶やしにする。大局に立ち、最小限の犠牲で未然に防ぐ。そういった金科玉条を掲げるだろうが、その正義の御旗は傲慢に塗れている。
消えてゆく。
タツキが、ミクが、ユキが、ナミが、……そしてちづが消えてゆく。
彼らは思い知らされたのだろう。
「去れ、冥府に帰れ。ここはお前たちがいるべき場所ではない」
神子として守ってきた人達からの拒絶の言葉を、その身に浴びせかけられたのだろう。
灯篭の光にかき消されるように、みんな消えてしまった。
彼らはどんな最期を迎えたのか。
あの世界では柚月と水瀬の力があった。
だがここでは、それは無かっただろう。
抗う術も無く、荒ぶる刃に切り刻まれたのだろう。
事切れた躯は土深く埋められ、その上を何度も何度も踏みつけられたのだろう。
この灯篭の踊りで踏みつけられる大地のように。
ちづの哀しい嗚咽が聴こえた。
残酷な踊りが終わった。
「これで祭りは終わりです。お疲れ様でした。向こうに酒席を設けていますので、ご案内させて頂きます」
案内の男はにこやかに語りかける。
この男に罪は無い。だが溢れる激情は理屈では抑えきれなかった。
怒りに震える俺の顔を、西條は不安気に見つめる。
「お言葉はありがたいが、少し余韻に浸りたい。暫く席を外してくれんか」
俺の状況を察したナギが男を遠ざける。男は不承不承去っていった。
「大丈夫か。なにがあったかは聞かん。……だが、儂らに出来ることがあれば言ってくれ」
熱病にうなされる子供に語りかけるようにナギは言う。
悪意のあとの思いやりは、甘露のように身に染みた。
「……ありがとう。ちょっとだけ、つぐみと二人にしてくれないか」
俺はそれだけを言い、つぐみを抱え歩きだす。
止めようとする警備責任者の男を、ナギが押しとどめる。
俺は祭りの場所から離れてゆく。
篝火の光は届かず、星空だけが俺とつぐみを照らしていた。
境内の裏庭を抜け、目的の地へと向かう。
行く手を遮っていた木々は今は無く、荒涼とした大地が広がっていた。
ぼこぼこした盛り上がりに気を付けながら、壊れ物のようにつぐみを抱え、進む。
ぱあっと視界が開けた。
俺たちは切り立った崖の前に立つ。
眼下には松明で赤く縁取られた道が見えた。
「覚えているか。タツキとミクが、初めて出会った場所だ」
地に伏す炎の龍と、天を舞う星の龍がいた。
「ずいぶん昔の話だな……」
俺はつぐみの顔にかかった髪を撫で上げながら、語りかける。
風が二人を優しく撫でていった。
「あれから、いろんな世界を彷徨ったな。ヒッタイトのバビロニア王国破壊、タタールのくびき、第3回十字軍、アステカのトシュカトル大祭の虐殺、……いろいろあったな」
つぐみは目を瞑り、口を開かない。
「世界に、運命に絶望するのは解る。俺だって同じ気持ちだ。自分の世界に閉じこもってしまいたい。けど、だめなんだ。それじゃ、だめなんだ。俺たちの子どもの為にも、俺たちが何とかしないといけないんだ」
俺はつぐみを強く抱きしめる。
「俺は……負けたくない。このくそったれな運命に負けたくない。ぶちのめして、幸せになって、ざまあみろと言ってやりたい。お前と一緒に……幸せになりたい」
声が水気を帯びてきた。
「頼む。起きてくれ。……俺を一人にしないでくれ」
俺の涙が、つぐみの頬に落ちる。
涙は顔を流れ、つぐみが泣いているようだった。
ぽとりぽとりと落ちる涙の音だけが、夜の闇に響いていく。
涙の音に誘われるように、背後でさぁーという水の流れる音がした。
その音は逆回しのような、何かおかしな音だった。
俺は思わず振り返る。
音は後ろを流れる小川からしていた。
そこには信じられない光景があった。
小川から天に向かって、無数の光の粒が舞い上がっていた。
いや、舞い上がるというよりも、天地を逆さまにし、光が天に落ちていくようだった。
俺は呆然として光を見つめる。
光の粒は、蛍だった。何百何千という蛍だった。
蛍は天に昇ってゆく。その輝きは清らかで、犯しがたいものだった。
光の粒は上空で旋回を始め、一か所に向かって集まりだした。
夜空に、ひとつの姿が浮かび上がってきた。
それは懐かしく、いとしい姿だった。
「ち……づ……」
俺の声は、歓喜なのか慟哭なのか、よく分からなかった。
「おっかあ、起きて。おっとうが困っているよ」
あどけない優しい声で、ちづがつぐみに呼びかける。
「おっとう、あれからお酒を一滴も飲まずに、おっかあの帰りを待っているんだよ。あの大酒飲みのおっとうがだよ。早く起きて、おっとうを喜ばせてあげて。おっかあに『お銚子、もう一本つけますね』って言われて喜ぶ、子どもみたいなおっとうの顔、ちづ大好きなの」
思いだすような目をしながら、ちづは言葉を紡ぐ。
にこっという力を振り絞った笑顔をちづは浮かべた。
「おっとう、おっかあ、だいすき……」
ちづは最期の言葉を発すると、その姿は崩れ、光の粒となり、粒は一か所に集まりだし、眩いばかりの光の玉となった。
玉はぐんぐんと近づいて来る。
迷いなく一直線に。その先にはつぐみの身体があった。
玉が優しくつぐみの身体に触れる。
吸い込まれるように光がつぐみの身体に入っていった。
俺はつぐみを抱きしめる。
つぐみと……ちづの匂いがした。
光は消え、周囲は闇に覆われた。
星明りの中、かすかな声がする。
「ううん……」
何度も夢に見た声だ。
つぐみの長いまつげに覆われた瞳が、ゆっくりと開かれてゆく。
「兄さん……………………」
か細い声で、それでも俺をしっかり見ながら呼びかける。
「つ……ぐ……み」
俺は強く抱きしめる。もう離さないと。
「いたいです。……兄さん」
つぐみは笑いながら言う。
「心配かけた罰だ」
泣きながら、頬を重ね、俺は言う。
満天の星の下、優しい声が溶けていった。
その夜――――俺たちは――――結ばれた。