私の声が、きこえますか
昔は、素敵な思い出を作ろう、喜ばせてあげようと、黄金の輝きを求めていた。
だが、今ならわかる。その輝きを求め、寄りそっていた。それこそが真の黄金だったんだと。
「樹、少しは休め。身が……持たんぞ」
後ろでナギの声がする。
ただそれは遠く、こもって、俺の耳には届かない。
俺の目には、つぐみだけしか見えない。
つぐみはあの日から目を覚まさない。
食べる事は能わず、点滴だけで命を保っている状態だ。
身体には無数のチューブが繋がれ、生体情報モニタの音が喧しい。
肉は削げ、瞳は濁り、かっての姿は望むべくもない。
だがどの様な姿になろうと、俺にとっては変わらぬ美の化身だ。
俺は変わらず彼女の手を握り続ける。
春が過ぎ、夏が来て、その夏も去ろうとしていた。
つぐみはまだ帰ってこない。
俺は枕元にそっと林檎をおく。
切る前からフルーティーな良い香りがする。
紅色に輝き、不揃いな縞模様や色むらが、侘び寂びのある茶器を思わせる。
「すごいだろ。最高級の『高徳りんご』だ。『まぼろしのりんご』って言われているんだ。蜜がたっぷり入っていて、酸味が無くて、濃い甘みいっぱいで、美味しいぞ。……お前に食べさせようと思って手に入れたんだ。起きないと、俺が全部食べてしまうぞ。後から文句を言っても知らないからな。…………さっさと起きろってば」
俺は何度も呼びかける。
…………どうやら今日も、つぐみはお腹がいっぱいのようだ。
俺はつぐみの頬を撫でる。
「見ていられない……」
何故だか西條がすすり泣きしている。
この林檎が欲しかったのかな。
やらないぞ。これはつぐみのだ。
「儂らになにか、出来ることはないか……」
赤い目でナギが訊ねてくる。
「……行きたいところがある。つぐみと一緒に」
俺は遠い思い出を手繰り寄せた。
数日後、俺たちは空の上にいた。
ドクターヘリに乗り、目的地へと向かう。
絨毯みたいな雲海が、足もとに広がっている。
「悪かったな。こんな使い方、本来は駄目なんだろう」
緊急性の無い目的でのドクターヘリ使用は、厳禁のはずだ。
「構わん!将来の大災害の芽を摘むのも、大切なことじゃ。それにこれは正式な出動では無い。あくまで儂らの系列会社のヘリがメンテナンスを行い、その試運転をしているだけじゃ」
ナギはきっぱりと言い切る。
「それに手配したのは那奈子じゃ。なにかあったら責任を取るのはこいつじゃからの」
「はぁーあ?」とドスの効いた声を西條が出す。
「かっかっかっ」とナギが高笑いする。
ありがとう二人とも、気を使ってくれて。
赤く腫れた目、隈どられた目元。無理してくれているのを、ひしひしと感じる。
「水瀬は?」
唯一意識を保ち、日々の鍛錬を欠かさぬ少女のことを訊ねる。
「……あやつは今、島に行っておる。剣斗のところじゃ。儂が行かせた。あのままじゃ駄目じゃ。自分を痛めつけるのを目的とした鍛錬、あれは駄目じゃ。……剣斗の奴に活を入れてもらう様、儂が行かせた」
外面上はまともに見えたが、やはり壊れていたか。
「わからんもんだな、人の心って。普通に見えて、その心の傷は推し量れない」
俺は頬杖をつきながら呟く。
ナギと西條が、びっくりした顔をする。
「ん?どうした」
「いや、お前が言うなって典型例を目の当たりにして……」
西條が呆れたように言う。何のことだ?
「心を写す鏡があればいいのにのう」
ナギが何やら哲学的なことを言う。
笑い声を乗せ、ヘリは西へと向かった。
見覚えのある稜線が見えてきた。
人の営みは儚くても、変わらぬものがある。
「ここで……いいんじゃな」
「ああ、間違いない」
俺は強く頷く。
ヘリは地上へと降りてゆく。
俺たちに連れそうように、太陽も地上へと沈んでいった。
地上では医療設備が整った搬送車両が待機していた。
ヘリからつぐみをストレッチャーごと移し、出発の準備をする。
「準備整いました。これより目的地に向かいます。警備車両は前後二台ずつ。所要時間は約30分です」
警備責任者がきびきびと報告をする。
「人混みが予想されます。絶対に私たちから離れないように」
念を押すように言葉を添える。
俺たちは車列を組んで出発した。
幹線道路を滑るように走る。
だがそれはあっという間に終わり、二車線の細い道に入った。
大蛇みたいにうねる道を、ふらつくように車は進んでゆく。
「先行部隊を合流地点に配置し、不審な動きが無いか警戒に当たらせています。現時点で異常なし」
田舎道に不似合いな緊迫した声が飛ぶ。
沿道に人が多くなってきた。街灯は無く、篝火がたかれている。その合間を人が持つ提灯が埋めている。光の帯が続いていた。
「幻想的ね」
窓の外を眺めながら西條が呟く。
「ああ、昔から変わらん」
俺は素っ気なく答える。
「来たことあるの?」
探るような、か細い声が投げかけられる。
「千年ほど前に……」
「……そう」
西條はすべてを察したようだった。
人波が激しくなってきた。
車は歩くのと同じ位のスピードで、ゆっくりと進む。
「目的地に到着しました」
緊張と安堵が混じった声がする。
車が止まり、先行部隊の警備員たちが周りを取り囲む。
ドアが開き、ナギと西條が下車する。
「行こうか……」
俺はつぐみを横抱きに持ち上げ、足を踏み出す。
「おやめください。私たちがお運びします」
警備責任者の男が、俺を止めようと飛び出してくる。
その前にナギがすっと出て来て、右手を上げ、男を制止する。
哀しそうな顔で頭を振る。
「はあ」と小さな声をあげ、警備責任者の男は引き下がる。
俺はつぐみを抱きかかえ、夜の闇に溶けてゆく。
おびただしい篝火が焚かれ、炎が風でゆらゆらと揺れている。
人のざわめき、あまたの灯篭、下駄の鳴る音、太鼓の響き。
連綿と続く、夏の夜があった。
「もうじき始まります。席をご用意していますので、こちらに」
誘導に従い、案内された場所に向かう。
高い場所にある舞台がよく見える、一等席だ。
ざわめきが段々と小さくなってゆく。
羯鼓の奏者が桴を手にし、開始の合図を告げた。
龍笛の音が、低音から高音へと駆け抜ける。
琵琶がリズムを整える。
美しい音色と共に、二人の舞手が現れる。
右手に鈴、左手に榊を携え厳かに舞う。
しゃらんと鈴の音が響いてくる。
在りし日の思い出が甦る。
俺とつぐみ、タツキとミクで舞った、あの初めての日を。
俺はつぐみを抱きしめ、語りかける。
「見えているか、聴こえているか、…………覚えているか、あの日のことを」
俺は滔々と呼びかける。想いと希望を込めて。