帰ろう……
暗闇の中、誰も言葉を発しなかった。
つぐみと柚月は意識があるかも怪しい。
目は見開き虚空を見つめ、人形のように横たわっている。
水瀬はそんな二人の間に座り、甲斐甲斐しく身体をさすったり髪を梳いたりしている。
ただその表情は虚ろで、心はここでない何処かにあるようだった。
俺も膝を抱え座り込み、もう何も考えたくなかった。
限界だった。
コツンコツンと、音はしないのに、何か足音のような響きを感じた。
なにかが近づいて来る。
黒い影が大きくなってきた。
「お久しぶりです。お元気ですか」
俺たちをこの無間地獄に引き込んだ張本人が、脳天気な言葉と共にやってきた。
「うがぁ――」
その姿を見た瞬間、水瀬が雄たけびをあげながら突進して行った。
眼は轟々と憎しみの炎をあげ、口は怒りに歪んでいる。
拳は血が滲むのではと思うくらい、強く強く握りしめられいる。
水瀬の鋭い拳が、激流となって男に襲い掛かる。
「情熱的なご挨拶だね。壮健そうで何より」
男は飄々と水瀬の攻撃をかわす。
「返せ、返せ――。お姉さまを、柚月ちゃんを返せ――――」
水瀬の絶叫に、男の動きが止まる。
静止した標的に、水瀬の拳が突き刺さる。
一発、二発、三発……。津波のように襲い掛かった。
男は一切の抵抗をしない。回避の動きさえ見せようとしない。
不意に水瀬の攻撃が止む。
「気が済んだかい。……君には本当に申し訳ないことをした。巻き込んでしまって、すまない」
男は神妙に謝罪の言葉を述べる。
「……わたしじゃなく、お姉さまに、柚月ちゃんに、謝って」
「すまなかった……」
男は深く頭を下げる。
「それで、何をしに来たんだ。この惨劇の黒幕が」
俺はうな垂れる二人に歩み寄る。
「言っておくけど、樹さん。僕は貴方には謝罪する気はないよ。彼女たちは巻き込まれた人間だが、君は違う。れっきとした当事者だ。言い換えれば元凶だ」
挑むような目つきで俺を見る。
「これは、必要な事だったんだ」
言い切る目に、迷いは無かった。
「僕が前に言ったお願い、覚えているかい。『あなたの子どもを殺さないでください。あなたの手で殺めるのだけはやめてください』……君はなんて答えた?『俺の身体が切り裂かれても、そんな真似は絶対にしない』って言ったよね」
遠い昔の記憶が甦る。何も知らない、運命の闇を想像さえしなかった頃の。
「その問いに、今ならどう答える?」
冷たく突き刺すような言葉が投げかけられる。
俺は心がきしむ音を聞いた。
「知って……言っているんだよな。俺たちがどんな想いで、どんな事をしてきたか、知って言っているんだよな」
激情が泉のように湧いてくる。
「ふざけんじゃねえ!こんなどうにもならない、八方塞がりの状況に放り込んでおいて――。どんな想いで我が子を殺めてきたと思っているんだ。誰が好き好んで殺すか!そうしなきゃ世界が破滅する状況を作っておいて、よくもそんな口が利けたもんだ。……神さまって奴は、揃いも揃ってろくでなしだ!」
溜まりに溜まっていたものを吐き出す。
「……言っておくけど、この状況を作ったのは僕たちじゃない。むしろ僕たちはこの不幸な運命を変えようとしているんだ。君たちがやってきた何千倍、何万倍もの永劫の時間、努力してきた」
こっちの気も知らないで、その顔にはでかでかとそう書かれていた。
男はその黒い髪に手をやり、その一本を掴み、勢いよく引き抜く。
そして抜いた髪を俺に向け、語り始める
「この髪の先端、その点に当たるのが君たちが生まれた世界」
滔々と、吟遊詩人が唄うように話す。
「そしてその点が連なって一本の線となったのが、君たちが見てきた世界」
親指と人差し指で髪を掴み、ツーと下に滑らしながら言う。
「世界は連結し、干渉し、別個でありながら同一になろうとする。解るかい、君は『樹』であり『タツキ』であり『アーサー』でありながら、一つの大きな存在なんだ。君の子供も同じこと……」
そこまで言うと言葉に詰まり、目を瞑り、そして意を決したように語る。
「僕の父母は、抗いきれない業を背負っている。世界に絶望し、世界崩壊のトリガーとなるという業を。あらゆる世界でそれは発動する。そしてそのトリガーに指をかけるのが君だ、樹さん」
哀しい目で俺を見つめる。
「君の拒絶が、世界を滅ぼすんだ」
その目には怒りは無く、只々『やりきれない』という気持ちが浮かんでいた。
俺は、あまりの言葉に反論する。
「俺に……どうしろと言うんだ。愛する我が子が世界を滅ぼすのを黙って見ていろと言うのか。愛する我が子が、血の涙を流しながら、やりたくも無い殺戮を繰り広げるのを黙って見ていろと言うのか。その先には地獄しかないというのを知っていながら。……どうしろってんだ……」
重い沈黙が降りた。
「そんな事、僕が聞きたい。誤解しないで欲しい。君を責めるつもりなんて毛頭ない。君はね、僕たちの希望なんだ。この行き詰まった現状を打破してくれる、可能性なんだ」
縋るような目つきで語りかける。
「これまでの君には期待していない。これからの君に期待している。幾千もの世界の終わりを見てきた君だからこそ出来る事があるんだ。改めてお願いする。僕の父母を救ってくれ。世界の終わりを救ってくれ。……頼む、君は僕たちに残された希望なんだ」
男が初めて見せる、感情のうねりだった。
男の声に誘われるように、足元から光の束が吹き出す。
光は天に昇るように高く高く伸びてゆく。
束は一本、二本と増えてゆき、その太さも段々と増してゆく。
俺たちは光のシャワーに包まれた。
「頼むよ、おじいちゃん」
遠くでそんな声が聞こえた。
光が消えた。
周りに色が戻ってきた。
あの暗闇ではない。
蒼い空、緑の山、翡翠のような鳥。世界は多彩な色に包まれていた。
つぐみは、水瀬は、柚月は、俺は周りを見渡す。
居た。みんな地に横たわっているが、無事だ。
俺は胸を撫でおろす。
今度の世界はどんな所だ。
俺は周りを見渡す。
地面は灰色のアスファルトに覆われている。
遠くにコンクリートの建物がある。
既視感があった。
俺は記憶を呼び覚ます。
ここは、あそこだ。
遥か昔、記憶もおぼろげだが、あの男と戦ったあの駐車場だ。
そして自分の中の違和感に気付く。
何か違う。いつもの平行世界と何かが違う。
自分も内に、もう一人の自分を感じないのだ。
この世界はもしや……。
「いつき――――」
遠くから誰かが俺の名を呼びながら走って来る。あれは――――。
「大丈夫か、怪我はないか。護衛の者の話で、正体不明の黒づくめの男と一緒に消えてしまったと聞き、心配しておった。無事で……よかった」
懐かしい、遠い記憶の片隅にあった顔がそこにあった。
ナギなのか。俺の世界のナギなのか。異世界のナギではないのか。
俺は震える声で問いかける。
「ナギなのか?お前は本物のナギなのか?俺の世界のナギなのか?」
質問を受けたナギはキョトンとして首をかしげる。
ああ、こいつはいつもこうだった。
俺は質問を続ける。
「今はいつだ?俺たちはどのくらい、この世界から消えていた?」
期待と怖れを込めて、震える声で訊ねる。
「何を言っておるのかよく解らんが、今日は〇年✕月△日。お主たちが家を出たのは今朝の9時。襲撃が始まったのが30分前。黒づくめの男との戦闘のあと姿を消したのは、10分前じゃ」
ここは俺の世界なのか。還ってきたのか。だが…………。
「ははっ。10分。10分か。…………あの気の遠くなる悠久の時が、10分か…………。ふざけんな!」
安堵と共に、怒りがこみ上げてきた。
あの狂うほどに永遠に続いた年月は、一体何だったんだ。
怒りに震える俺を、まるで化物みたいに見つめる目があった。
「樹くん、樹くん……よね?」
西條だ。いつも気が強く、俺たちを叱りつけていた西條だ。
その西條が怯えるような表情をしている。
そして恐る恐る語りかけてきた。
「間違いない、樹くんだわ。けど、おかしい。おかしいわ。どういうことなの。……いまの樹くんからは、途轍もない年月の深みを感じる。それこそ50代の男が子供に見えるような……あり得ないわ、こんなこと!」
西條は隣にいたナギに縋るようにしがみつく。
ナギの顔も蒼白だ。手は震え、それでも西條を庇うように抱きしめる。
そして恐怖に慄くかのような声で訊ねてきた。
「何があったというのじゃ。……魂には年輪のような物がある。その者が重ねた時間が、地層のように積み重なってゆく。お主の年輪は、一体何じゃ!儂を軽く凌駕しておる。それこそ千年や万年の単位じゃ。……こんな生き物、存在するはずが無い」
そうか。やはり俺の過ごしてきた時間は、幻ではなかったのか。
「どういうことじゃ、説明してくれ!」
恐怖や怯えがあるが、その言葉には俺たちを心配する心に溢れていた。
死ぬほど嬉しかった。
だけど、ごめん。
「悪い、あとで説明する。今はただ、休ませてくれ。…………つかれた…………」
それが今の俺の、精いっぱいだった。
ふらふらと、つぐみたちの許に向かう。
彼女たちは救護部隊に手当てを受けていた。
ストレッチャーに横たわるつぐみの手を強く握り、静かに語りかける。
「帰ろう……俺たちの家に。……幸せだった、あの頃に」
つぐみは、何も答えない。
俺はつぐみに寄り添い、駐車場を離れてゆく。
帰ってみせる。あの場所に。
長い異世界の旅も終わり、現実世界に還ってきました。お付き合い頂きありがとうございました。
これからは現実世界パートです。引き続きお楽しみ下さい。
あと筆者からのお願いです。この厳しい現実世界を乗り切るのに、ブックマーク、星評価、いいねの応援をぜひお願いいたします。