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スタンド・バイ・ミー

すべてを飲み込んだ漆黒の闇。

僅かに光を放つ無限のモザイク群。

上下左右、過去未来の無い世界にわたしたちはいた。


わたしを膝枕にし、愛しい人が眠っている。わたしは彼女に触れる。

ほつれかかった黒髪をさらさらと()かし、その頬を優しく撫でる。

胸が引き裂かれるような悲しみが押し寄せる。

なんでこの人が、こんなに傷つかなければならないのだろう。

運命を――呪う。

『水瀬……』そう呼びかけてくれていた、在りし日の澄んだ声を思い起こす。

今は……ゆっくりお休みください。




「何回目かな、これで……」


少し離れた場所から消え入りそうな男の声がする。

わたしに訊ねるというよりも、ふと洩れた溜息のようだった。


「三千回目までは覚えていますが、それ以上は……」


わたしは感情なく答える。そんな物、磨り潰されてもうどこにも無い。

この牢獄では皆等しくそうなる。



「……強いな、お前は。俺は千回目までが限界だった」


それでも十分頑張った方だろう。そこまでもったのは驚嘆に値する。

わたしと樹さんでは状況が違う。

なにしろ彼はそれだけの回数、我が子を手に掛けているのだから。

世界の正義と家族への愛。その二つの板挟みになり、血の涙を流してきた。

今でも正気を保っていられるのが、不思議なくらいだ。

正直、一番最初に脱落するのは樹さんだと思っていた。




最初に限界を迎えたのは、柚月ちゃんだった。

八百回目くらいで、おかしくなった。

段々と言葉を発しなくなった。

当初は色々な考察をしていたが、その全てに挫折し、心が死んでいった。

理論家であることが災いしたのだろう。

無限の、出口の無いシミュレーションは彼女の心を(むしば)んだ。

今や次の世界に行くまでのこの空間での待機時間、一切の反応示さなくなった。




次に限界が訪れたのは、つぐみお姉さまだ。

千回目ぐらいの時だ。

樹さんが我が子を殺す時、つぐみお姉さまも一緒に我が子を手に掛けた。

その時のお姉さまの、樹さんを見る目が忘れられない。

哀しい者を見るような、初めて我が子を殺める痛みを理解したような、この苦しみを押しつけた事に許しを請うような、そんなやり切れない目だった。

樹さんが千回から先を覚えていないのは、それが原因だろう。




みんな、限界だ。

だが、わたしは――折れない。

何があろうと、折れない、挫けない。そう誓ったのだから。




「お前を支えているのは……なんだ」


樹さんが眩しいものを見るように訊ねる。


「つぐみお姉さまとの――約束ですよ」


迷いなく言葉がでた。

今でも鮮明に思い出される。

つぐみお姉さまと歩いた、あの真冬の雪道を。




◇◇◇◇◇




クリスマスまであと数日に迫った今日、世界は一面の雪景色となっていた。

灰色のアスファルトや朽葉色(くちばいろ)の大地を月白(げっぱく)の雪が覆い隠す。

通い慣れた通学路が異世界に見える。

穢れが一切消えた、生まれたての世界だ。

キュッキュッと雪を踏みしめる音も心地よい。


その清らかな世界で、愛しいあの人を見つけた。

わたしの心は浮き立つ。それだけでわたしの心に一足早い春が訪れる。



「ごきげんよう、つぐみお姉さま」


「ごきげんよう。水瀬、タイが曲がっていてよ。まったくしょうがない()ね。何度言ってもこうなんだから」


つぐみお姉さまが呆れたような顔で、わたしの胸元に手を伸ばす。


「えへへ~~」


わたしは相好を崩す。

実は、さっきまでタイはきちんとしていた。

つぐみお姉さまに直して欲しくて、今わざとタイを曲げたのだ。

お姉さまの長い睫毛が近づく。

甘い匂いが漂ってくる。

細く長い指が首筋に触れる。

わたしは至福に酔いしれる。時よ……止まれ。


「これでよし!あなたも来年から最上級生なんだし、しゃんとしなさい。私もいなくなるんだからね」


直視したくない現実を突きつけられる。

あと2か月でつぐみお姉さまも卒業。ううん、年が明けたら自主登校で学園でお会いすることも叶わない。つらい――。でも受験勉強の邪魔をすることは、出来ない。


「お姉さま、志望校K大でしたよね。……わたし、必ず来年合格します。待っていてください。また一緒に学校に行って、お話をして、お茶をして……いっぱいいっぱい思い出を作りましょう」


わたしはぐっと手を握り、瞳を潤ませ、声を震わせ、語りかける。


「……待ってるからね。浪人なんかして、遅刻するんじゃないわよ」


「あ、そうか。お姉さまが浪人すれば同学年で通うことも出来るのか」


不意に浮かんだ名案に、わたしはポンと手を叩く。


「縁起でもないことぬかすな!」


つぐみお姉さまのチョップがわたしの頭に炸裂する。

うん、これはわたしが悪い。ナイーブな受験生に対して失言だった。

願いは胸の内に秘めるものだ。


「けどお姉さま。実際のところ、合格の可能性はどうなんです?」


頭をさすりながら恐る恐る聞く。


「ふっふー。直前の模試、A判定。(あが)めるがよい」


「すごいじゃないですか。余裕じゃないですか。じゃあお茶して帰りましょう」


「……アンタ、本気で私を浪人させようとしてないわよね」


アカン、目がマジだ。


「違いますよ。この段階までくれば大切なのは健康管理。こんな雪の日に体を冷して風邪でもひいたら元も子もないでしょう。少し温まって帰りましょう。……実は今、西洋館で『世界のクリスマス』ってイベントをしているんですよ。イギリスやフランスは勿論、オーストリアやスウェーデン、ベトナムやペルーといった世界中のクリスマスの飾り付けして綺麗なんです。西洋館のカフェでお茶を飲みながらそれを眺めるのは、とても素敵な時間じゃないかなと」


これから暫く会えないかもしれないのに、誤解されたままでは堪ったもんじゃない。わたしは必死に弁解する。


「受験のお邪魔してはいけないと思って遠慮していたんです。けれどもし御迷惑じゃなければ、御一緒して頂けませんか。思い出が……欲しいんです。それがあれば、どんな辛いことにも耐えていけると思うんです」


つぐみお姉さまは目を細め、空を見上げ、がしがしと頭を掻く。


「……一時間。それ以上は付き合わないからね。で、どこ行くの?プラハ81番館?タリスマン邸?ゲーリック・ホール?」


世界中の雪が、眩い光を放ち始めた。




西洋館は、異世界にいるように夢にあふれていた。

アメリカン・ヴィクトリアン様式の華やかで重厚な部屋。

それが赤と緑で彩られ、北欧のクリスマスの世界を形づくっていた。

静謐で幻想的で、つらい現実が塗りつぶされてゆく。


「偶にはこういうのも気分転換になっていいわね」


つぐみお姉さまも、心が浮き立つように嬉しそうだった。

よかった。今年最後の、最大の喜びだ。

わたしはぎゅっとお姉さまの背に抱きつく。


「しょうがないわね、この娘は」


呆れたようにお姉さまは言う。


「……あったかい」


小客間の外側にあるサンルームで、わたしたちは重なり合う。

冬の陽だまりに、幸せという意味を噛みしめた。

何時までもこのままで……。わたしは聖なるものに祈った。




静寂は、突然打ち破られた。


「うそ……」


つぐみお姉さまが、いきなり悲鳴のような声をあげた。

身体が震えている。顔も真っ青だ。

何があった。

わたしはお姉さまの視線の先を見る。

お姉さまは外を見ている。

イタリア庭園様式の、幾何学的デザインの庭だ。

左右対称の植込みの間を流れる小川、そこに一組の男女がいた。


鮮やかで穏やかな色彩を放つ、翡翠のような女性。

寄り添うのは優しく全てを包み込むような、大樹のような男性。

どちらも新社会人といった雰囲気だ。

男性が女性の手を引き、小川を渡る。

クリスマス前の逢瀬を重ねる恋人たちだ。


その微笑ましい光景を見て、つぐみお姉さまはガタガタと震えている。

この世の終わりみたいな顔をしている。


わたしは理解した。理解はしたが認めたくは無かった。





「ごめん、水瀬……」


つぐみお姉さまはそれだけ言うと、その場から逃げるように走り去った。

わたしは打ちのめされた。冷たい現実に、受け入れがたい現実に、心がついていかなかった。


わたしは呆然とした。しかし心の内から、そんな自分を叱咤する声が吹き出した。


「報われるとか、報われないとか、どーでもいいでしょ。大切なのは、お姉さまにどうあって欲しいかでしょ。あんたへの最大のご褒美は、あのお姉さまの天使みたいな笑顔でしょ。それを守らないでどうするの。それがあんたに向けられるかどうかなんて、二の次でしょ」


ああ、そうだ。わたしは何か思い違いをしていた。

わたしは駆け出し、お姉さまを追った。




つぐみお姉さまは坂道に佇んでいた。

両手を強く握りしめ、体を震わせ、涙を堪えるように俯いていた。


「風邪ひきますよ……」


わたしはそう言い、後ろから彼女にマフラーを掛ける。

お姉さまはゆっくりと振り向き、わたしを見つめる。

その目からぽろぽろ涙が零れる。

「うわー」という声と共にわたしの胸に顔を埋め、幼子(おさなご)のように泣きじゃくる。

わたしは何も言わず、ただ彼女の頭を撫でた。

痛みを癒す母のように。



悲鳴のような泣き声も段々小さくなり、彼女は落ち着きを取り戻した。


「ごめんね、水瀬。みっともないとこ見せて。先輩失格だね」


掠れる声でお姉さまは言う。


「言いたくなければいいんですが、……辛いことがあるんなら、聞きますよ」


「水瀬のくせに生意気な。……でも、頼らせてくれるかな。ちょっと、辛い」


わたしはこくりと頷く。


「予想はついていると思うけど、あの庭にいた男の人ね、私の好きな人なの。ううん、好きとかじゃない。私の全存在を賭けて尽くしたい、私の全てなの。報われなくてもいい、あの人を幸せにしてあげたい」


やはりそうか。あの男の人を見るお姉さまの目には、見覚えがあった。つぐみお姉さまを見る、わたしの目だ。まるで鏡に写った自分を見てるようだった。


「報われなくてもいいと、本当に思っていたのよ。でもね、人って欲張りね。就職して、遠距離恋愛になって、疎遠になったと聞いていたの。そうすると湧き上がってきたの。『もしかして別れるんじゃないか』『私にもチャンスがあるんじゃないか』って浅ましい考えが。醜いでしょう。幸せにしてあげたいなんて、ちゃんちゃらおかしい。」


自らを嘲笑うような乾いた笑いをする。

その笑いがちりちりとわたしを苛む。


「あの二人を見て思ったの。とても幸せそうで、お似合いで、私の出る幕は無いなって。そして思い知らされたの、私は身勝手で、恩知らずで、恥知らずな人間だって。それで辛くて、いたたまれなくて、あそこから逃げ出したの」


彼女は大粒の涙を流す。

深い傷から流れる血のように、心の深い所からこんこんと湧き出てきた。


わたしはお姉さまの背に両手を廻し、そっと引き寄せる。

耳に口を近づけ、心に届けとばかりに囁く。


「それの何が悪いんですか。人を愛し、その人の幸せを願う。それは限りなく正しい行いでしょう。そしてその至高の果実を自分も味わいたい、その人の幸せの一部になりたいと願うのは、当然の成り行きです。間違いがあるとすれば、その幸せを無理やり自分の色に染めたり、その人の幸せを蔑ろにした時です。お姉さまはそうじゃないでしょう。ただその幸せに加われないか、ささやかな夢を見ただけじゃないですか。お姉さまが責められる謂れはありません。……あなたは、美しい。その姿かたちではなく、その在り方が、気高く清らかで、美しい……」


お姉さまはわたしの顔を縋るように見る。

そしてわたしの胸に顔を押し付け、迷子のように泣き叫んだ。


「いつまでも私のそばにいて。この情けない私を、不甲斐ない私を、いつまでも支えて。……貴方だけいれば、世界にはもう何もいらない」


「約束します。いつまでもそばにいます。たとえ世界が終わっても、この命ある限り、決してあなたのそばを離れません」


雪が空から降ってきた。すべてのものを覆い隠す。

お姉さまとわたし、余計なものは何もない、二人だけの世界だった。

白銀の世界のなか、わたしたちはずっと抱きしめあった。




◇◇◇◇◇




漆黒の闇の中、お姉さまはわたしの膝の上で眠っている。

おやすみなさい、お姉さま。

この閉ざされた世界の中で、わたしはいつまでも貴方のそばにいます。


11話『オフィスの中心で、愛をさけぶ』で述べられていた水瀬とつぐみの三つのエピソード、これにて回収終了です。

他の二つのエピソードは13話『天体観測の夜』と42話『辿り着いた場所』に書かれています。よろしければそちらもご覧下さい。

作者執筆の励みの為に、ブックマーク、いいね、星評価、ぜひお願いいたします。

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