エンド・オブ・ザ・ワールド
ちょっと長めです。話の流れ上、途中で切ることが出来ませんでした。
比翼の鳥がついばむような口づけだった。
情欲でも官能でもない、ただお互いの存在を確かめ合うような口づけだった。
「兄さん……ですよね」
優しい口づけのあと、そう尋ねる彼女は間違いなく『つぐみ』だった。
思いやりにあふれ、馬鹿みたいに優しく、不器用なまでに真っすぐな『つぐみ』だった。
「兄さん、行きましょう。ちづが、あの子が、苦しんでいます!」
つぐみはそう言うと俺の手を掴み、走り出す。
つぐみの足からは血が流れている。
草履は脱げ、裸足となった足裏から血が滲んでいる。
何度も転び、ずる剥けた脚から血が滴っている。
だがつぐみはそんな事にはお構いなしだ。
恐らく足が千切れたとしても走り続けるだろう。
俺たちは愛する娘の許へと走った。
「ちづちゃん、落ち着いて。もう大丈夫。悪い奴らはやっつけたから」
「安心しなはれ、うちらは味方や。もうなんも恐い事あらしまへん」
ちづの許に辿り着くと、水瀬と柚月が蜘蛛と化したちづに呼びかけていた。
しかしちづは理性を失ったように暴れ狂い、二人はそれを何とか抑えようと光る帯を両手から放ち、ちづをかろうじて押しとどめていた。
「ちづ、おっかあよ。つらかったね。ごめんね、怖い思いをさせて。本当にごめんなさい」
つぐみがちづに近づこうとする。
「あぶない!」
俺は大声をあげ、つぐみを引き寄せる。
ひゅんという音をあげ、ちづの鋭い脚がつぐみを掠めてゆく。脚は勢いよく大地を抉り、石礫が舞い散る。
「つぐみ、気をつけろ。ちづは今、自分を見失っている。お前が分からないんだ。あの子に罪を犯させるな。正気に戻った時、その事実はあの子を傷つける。あの子にお前を危めさせるな」
ちづに駆け寄りたい気持ちは俺も一緒だ。だが今は冷静になり、あの子を救う最善の手立てを探さなくてはいけない。
「樹はん、つぐみはん、あんたはんらも記憶を取り戻したんやな」
柚月が術をかけながら、こちらを振り向かず言う。その声には余裕はない。
「おかげさんで。で、どういう状況だ」
「……芳しくあらしまへんな。今はかろうじて抑えてますけど、この子成長が半端ないわ。うちらの術を見ただけで解析して自分の物にしよる。で、その術が効かんようになるさかいうちらは更に強力な術を使う。そしてその術も自分の物にしよる」
「いたちごっこか」
俺の言葉に柚月の顔は曇る。
「そんなええ状況ではあらしまへんな。うちらの術にも限りがおます。それが尽きた時、天秤がどう傾くか……。手加減する余裕はあらしまへん。申し訳ありまへんが手足の一本か二本、覚悟してもらうかもしれまへん」
「構わん。みんなの命が大切だ。もちろんお前たちの命も含めてだぞ」
「……おおきに。気張らさせて頂きます」
両腕から放たれる幻想的な光を浴びながら、柚月はふっ切れたように言った。
俺はちづの正面に立つ。八つの黒い瞳が自分を見つめる。だがその瞳には何の感慨も感じられなかった。
「ちづ、おっとうだ。おっかあも、ナミも、ユキも、みんなお前を心配している。うちに帰ろう。……頼む、自分を取り戻してくれ」
俺は声を張り上げ叫ぶ。……届いてくれ。
永遠にも思える時間、俺とちづは向かい合っていた。
突然、均衡は破られた。
ちづの前脚が黒い光を放ち始めた。
脚は拘束していた帯をぶちぶちと切り裂きく。
くびきから放たれた凶器が俺に襲いかかる。
「樹さん!」
悲鳴をあげながら水瀬が飛び込んでくる。
俺を抱きしめ、その場から離脱する。
「大丈夫ですか。死んではダメです。あなたが死んだらつぐみお姉さまが悲しみます」
俺は苦笑する。こいつの価値基準は相変わらずだ。
「……もうダメかもしれません。さっきの攻撃は空間切断。『髭切』の術式を使っています。それも何段階もレベルをあげた、昇華したものを。……ここまでの事をされたら、私たちに対抗する術はありません。決断しなければいけないかもしれません。……ちづちゃんを殺すか、私たち全員が死ぬか」
無情な選択を水瀬は迫る。
「そんな。いや……いや――――――――」
つぐみは悲鳴をあげる。
「なんとかならないのか。みんなが助かる方法はないのか!」
俺は一縷の望みを水瀬に求める。
「あるとしたら、ちづちゃんが自分を取り戻すこと。それ以外はありません。呼びかけてください。ちづちゃんを引き戻してください。もう、それしかありません」
「……わかった」
俺は決意を固める。
「ですが何時までも待てませんよ。その時が来たら冷酷な判断をします。わたしにとって最上位にあるのは、つぐみお姉さまの命です。たとえお姉さまに怨まれようと、これだけは守ります」
水瀬は迷いのない目で言い切った。
「伽藍鳴響!」
そう叫ぶと水瀬の体から白い光が立ち昇り、人の形を作ってゆく。
人型は目の前から消え、ちづの頭上に現れた。
そしてその拳が雨あられと降り注いでいった。
その拳には殺意はない。
あいつは命懸けで時間を作ってくれているのだ。
「ちづ!」
俺は万感の想いを込めて呼びかけた。
これまでのちづとの思い出の日々。
「おっかあ」と初めてしゃべり、「なんでおっとうじゃないんだ」と拗ねた日。
三歳の時高熱を出し、おぶって隣村から医者を連れてきた日。
俺が仕留めた猪を見て、「おっとう、すごい」と言ってくれた日。
嵐の夜、怯えるお前を抱いて眠った日。
どんなに幸せだったか、満たされていたか、ちづに語る。
それは幻などではない、確かに俺のなかに存在しているものだ。
そして言う。
「帰ろう、うちに」と。
だが、現実は冷酷だった。
「あかん。もううちらの手の負えん。……限界や」
ちづは、なおも暴れまわる。抑える柚月が弱音を漏らす。
駄目なのか。俺の心は届かないのか。
「もう諦めろ。気が済んだだろう。冥府魔道に堕ちた者は、決して救われはせぬ。それに終わりがあるとすれば、全てのものを殺し尽くすか、己が滅びる時だ」
遠巻きに見ていた軍勢から、一人の男が歩み出てきた。
「太宰小監 清原 致信。理より外れし憐れなるものよ。その存在、この命に代えても滅してみせる!」
名乗りをあげる武士に俺は見覚えがあった。
これまで何度も俺たちを助けてくれたきた、筋肉馬鹿だが心優しい仲間だ。
「清原さん、あんたもこっちに来てたのか。待ってくれ。あんたにとってここは異世界かもしれないが、この子は確かに生きているんだ。頼む、殺さないでくれ!」
清原は蔑むように俺を見る。
「馴れ馴れしい口をきくな。お主とは会ったこともない。謀り、人の情につけ込むような真似はよせ」
どういう事だ。こいつはあの清原じゃないのか。
「儂は己の責務を果たすのみ。……朝廷に対しての責務ではない。ヒトとしての、この世界に生きるモノとしての責務だ」
清原は携えた刀をするりと抜く。よく見ると、柄に何か呪文のような物が書かれた布が巻かれている。
「当代一の言の葉使い、清原 少納言が作りし霊符。僧侶の真言、陰陽師の呪符にも引けは取らぬ。魔を滅するにこれ程のものはない。……『独武者』清原 致信、参る」
そう言うと、巨体を揺らし、ちづに向かって突進して行く。
ちづの身体から白い光が立ち昇る。それはひとつに固まってゆく。現れたのは、巨大な髑髏だった。髑髏はその歯をカチカチと鳴らす。……これは、水瀬の術じゃないのか。
「妖の術か。だが生身の体が無かろうと、現世の存在ならばこの刀で切れぬモノはない」
清原の刀が一閃する。髑髏は真っ二つに断たれ、ぱりんと砕けて散ってゆく。
「さしもの化物も、この術式は解析できまい。現在、たった今生まれし、どの系統にも属さぬ独立した術式だ。天地開闢の理を熟知していようと、それを源泉とせぬならば当惑するは必定。……妹よ、感謝する」
清原はにやりと笑う。
清原は舞うように刀を振るう。
一つ、また一つと髑髏が消えてゆく。
花火のように弾け、恨めしそうな声をあげ消えてゆく。
「残すは本体のみ。覚悟!」
刀をぎゅっと強く握り、ふうっと息を整える。
「この行いは非情なのかもしれん。だが天下万民の平穏な暮らしのためには必要なのだ。たとえこの身が煉獄に堕ちようとも、儂はやり遂げる」
そう叫び、雄叫びをあげ、駆け出す。
髑髏はもう飛んでこない。
ちづは既に目睫の間だ。
「もらった!」
勝利を確信し、刀を振り下ろす。
その時である。ちづの口から白い糸が飛び出した。
糸は複雑に絡み合い、四縦五横の格子状の線となってゆく。
蘆屋 道満が使っていた九字護身法だ。
糸は清原に絡みつき、捕らえる。
清原は必死にもがくが、逃れる術はなかった。
「う、うごけぬ。……無念、儂の命もこれまでか。すまぬな、妹よ。せっかくの神器、儂の力量不足で活かしきれなんだ」
清原は涙を流す。
悔恨と慙謝の色づいた涙だった。
「……樹と申したか。儂の最期の頼み、きいてくれぬか」
縋るような目で俺に訴える。
その邪心のない瞳に俺は逆らえず、引き寄せられるように清原へと向かう。
「かたじけない。儂の頼みはただ一つ……」
清原は鋭い目つきで俺を見つめる。
「この刀で、あの蜘蛛を切ってくれ」
それは思ってもみなかった、だが心の奥底では予想していた言葉だった。
「わかっておる。あれはお主の子供なんだろう。いい子だな。あのような身になりながら、お主のことを決して傷つけようとしなかった。攻撃はすべてお主に当たらぬようにしていた。……優しい子だ」
清原の声は、島で聞いた暖かいものに似ていた。
「だからこそ、お主はあの子を葬らねばならん。……あの子はもう止まらぬ。憎しみに囚われ、すべての者を殺し尽くすまで止まらぬであろう。しかし、その末に待っておるのは地獄だぞ。己を取り戻した時、自分の罪に慄然とし、屍の山で戦慄するだろう。その自責の念はどこまでも深く、たとえ自ら命を絶とうと、決して拭えることはない。よいのか、そんな地獄をあの子に味わわせて」
清原は淡々と語る。ただ事実を述べるかのように。
「あの子はいずれ死ぬ。ここで生き延びたとしても、いずれ罪の重さに堪えかねて、死ぬ。選べるのは多くの罪を重ねて死ぬか、無垢のまま死ぬかだ。……親として、あの子を救ってやれ」
俺が目を背け、認めたくなかった事実を突きつける。
「あの子はお主を攻撃しない。あいつに近づけるのはお主だけだ。頼む、世界を救ってくれ。人として、親としての責務を果たしてくれ」
優しい菩薩のような顔で、悪魔のような言葉を放った。
「兄さん、やめて。きっとなにか、あの子を救う方法があるはず。望みを捨てないで。最後まで諦めないで!」
つぐみは絶叫する。俺はその言葉に縋りたい。だが……。
柚月を見る。首を横に振っている。
水瀬を見る。俯き、涙を零している。
……そうか。
俺は清原から刀を取る。もう誰も言葉を発しない。
ゆっくりとちづへと歩いてゆく。
まるでこの決断を止めて欲しいかのように。
ちづからの攻撃は無い。
……そうか。
一歩一歩、ちづに近づいてゆく。
この歩みが永遠に続けばいいのに。ちづに辿り着けなければいいのに。
歩みの遅さは俺の心の弱さだ。
だが、終わりの時は来る。
ちづはじっとしている。
八つの瞳で俺を見つめている。
俺は右手をのばし、ちづの頭を撫でる。
ざらざらとした感触が体に伝う。
いつもの柔らかなすべすべした肌ではない。
だが、こいつは紛れもなくちづだ。俺の愛しい子どもだ。
ちづは嬉しそうに、切なそうに身をゆだねる。
「ちづ、ごめんな。俺にはこれしかお前にしてやれる事はない。ごめん……。ふがいないおっとうで……ごめん」
俺はちづに顔をつける。ちづに涙が伝わってゆく。
「生まれ変わったら、幸せになろうな。今度はいいおっとうになるからな」
ちづは体を震わせている。
永遠にも思える時がすぎた。
決断の時だ。
「…………ごめん…………」
俺は刀を振り上げ、ちづの頭へと突き刺す。
ちづは抵抗をしなかった。
鮮血がほとばしる。
「……おっとう……」
ちづの声がした。
かすれるような、振り絞るような声だ。
「おっとう、ごめんね。ちづが悪い子だから、おっとうを悲しませて。……ごめんね、おっとう……」
ちづの声は段々と小さくなってゆく。
「ち……づ……」
何か言ってやらねば、最期の言葉をかけてやらねば。
だが名前を呼ぶだけしか、俺にはできなかった。
「ごめんなさい――――――――」
ちづの最期の絶叫が鳴り響いた。
その瞬間である。
空に亀裂が走った。地が割れた。
まるでジグソーパズルが崩れるように、世界が崩れていった。
爆発するような光を放ち、すべてが崩れていった。
俺たちは光にのみ込まれた。
気がつくと、俺たちは見知った場所にいた。
暗闇のなか、巨大な六角形のモザイクが浮かぶ、あの場所だ。
つぐみ、柚月、水瀬、みんな揃っていた。
みんな、心が死んでいた。
つぐみがある六角形を見つめている。
それはひび割れ、光を失い、モザイクのなかで唯一つ異質だった。
つぐみは六角形に駆け寄る。
「うわぁぁ――――――――」
ひび割れた画面を抱きしめ、つぐみは号泣する。
みんな理解した。あれはあの世界だ。ちづだ。
俺たちはなにも言えず、ただ涙した。
どのくらい時間が経ったのだろう。
それは突然起きた。
涙尽きぬ俺たちを嘲笑うように、新たな六角形から光が放たれた。
俺たちは再び意識を失う。
のちに俺たちは知ることとなる。
俺たちの絶望の旅は、始まったばかりだと。