宵宮
陽が沈み、闇の帳が降りてくる。
人々は家に帰り夜明けまでの長い時を待ち侘びる。それが常であった。
だが今日だけは違う。人々は夏の夜を謳歌していた。
「おっとう、おっかあ、すごい、すごい。まるで昼間みたい!」
ちづは小さな体で思いっきり飛び跳ね、その驚きを全身で表していた。
道々には松明が置かれ、暗い道を照らしている。
その光の道は山の麓の神社まで真っすぐつづき、天の川が地に降りてきたようだった。
「すっごいたくさんの人。こんなにたくさんの人見たの、ちづ初めて」
この宵宮は近隣でも有名だ。見たことのない顔もいる。きっと他の村からやってきた者だろう。
「祭りは六年に一度だからな。前のお祭りはちづが生まれた年で、赤ちゃんだったから覚えてなくても仕方ない」
「ううっ、もったいない。こんなすっごいこと覚えてないなんて。なんか損した気分!」
ちづは頬をぷうっと膨らます。
「まあまあ。けれどその代わりにご褒美があるじゃないか」
「ご褒美?」
ちづはきょとんとした顔をする。やれやれ、やっぱり理解してなかったか。
「この祭りの主役はちづ、お前だ。この沢山の人達は、みんなお前を見に来たんだぞ」
「ちづを?この人達ちづのこと知ってるの?」
「ちづのことは知らない。けれどこれからちづがする踊りを見たくて、みんなやって来たんだ」
六年に一度、神降ろしの儀が行われる。その年に生まれた子供を『神子』と呼ぶ。
神子は生まれた年のその次の祭りで、その身に神を宿すと言われる。
神子は宿った神の荒ぶる心を鎮め、荒魂を和魂に変え、豊穣をもたらす。
そして次の祭りを迎えた時、新たな神子にその役割を引き継ぎ、その任を降りる。
ちづはその神子にこれからなる。
しかし神子といっても本当に神様が降りてきた試しはない。
だがその神子の存在が、人の心に平穏をもたらすのだ。
嵐が来て逃げ出したい日も、長い日照りに喘ぐ日も、野盗の襲来に怯える日も、『神子さまがいらっしゃる』と思えばなんとか乗り越えられた。
今日は地獄でもきっと明日はきっとよくなる。この苦しみはいつまでも続かない。なぜなら神子さまがいらっしゃるのだから。……神子は希望の姿をした現人神なのだ。
「だいじょうぶかな。ちづ、じょうずにできるかな」
六歳の子供に神様の意義などは分かるまい。ただ上手く踊れるか、人々の期待に応えられるかを心配している。
「大丈夫よ。ちづは私の子どもですもの。私もちづと同い年のとき神子になったけど、なんとかなったもの。ちづも上手に出来るわよ」
「おっかあも神子だったの?」
「そうよ。私も不安だったけど、先代の神子様が一緒に踊ってくれたから、ついて踊ってたら知らないうちに終わっちゃてた。ちづも先代様が一緒に踊ってくれるんでしょう」
「うん。ナミお姉ちゃんが一緒に踊ってくれるって」
ナミ……今年十二歳になる当代の神子だ。今日で晴れて先代となる。
「だったら大丈夫よ。ナミちゃんが助けてくれるから」
「うん!」
勢いよくちづは返事をし、女房に抱きつく。そしてその長い手を伸ばし、右手で俺の手を、左手で女房の手をしっかりと握る。ちづを真ん中に俺たち三人は手を繋ぎ、一つとなって神社に向かった。
神社は大勢の人と、かがり火で溢れていた。
「遅いよ、ちづちゃん。タツキさん、ミクさん、もっと早く連れてきてよ」
俺たちが神社に到着すると、待ち構えてたように一人の少女が駆け寄ってきた。
当代神子のナミだ。
「まだ時間までには大分あるだろう」
俺は戸惑いの声をあげる。
「これだから男は。女の子は準備が色々あるんです―。ちづちゃんの晴れ舞台、綺麗にお化粧しなくてどうするんですか。さあ行くわよ、ちづちゃん。わたしがこの六年間磨いた化粧術、惜しみなく披露してあげる!」
ナミはそう言うと、引きずるようにちづを連れてゆく。
「頑張ってね~」
女房は暢気に手を振って二人を見送る。
「さて、時間まで暇になりましたね」
二人が見えなくなると、視線を俺に向けじっと見つめる。
「……久しぶりにあそこに行ってみませんか」
ミクの顔は、母親の顔から少女の顔に変わっていた。
境内の裏庭を抜け、林に入る。木々の枝を避けるように身を屈め歩く。
大人なら絶対立ち入らない場所だ。
かがり火も届かず、かすかな星の光を頼りに俺たちは進む。
「着いたぞ。崖から落ちないように気をつけろ」
俺たちは切り立った崖の前に辿り着いた。
崖の下を見下ろす。
眼下には松明で赤く縁取られた道が見える。
暗闇の中で曲がりくねって進む光る道は、紅龍が蠢いているようだった。
遠くから龍笛の音が流れてくる。
低音から高音へと駆け抜ける音は、舞い立ち昇る龍の鳴き声を思わせた。
ここは俺たち二人の、秘密の場所だった。
ここを初めて訪れたのは、俺が十二歳、ミクが六歳の時。
ミクが神子となる宵宮の日だった。
「ミクは何処へいった。何処にいるんだ」
大人たちは姿の見えない次代の神子様を必死に探していた。
これから神降ろしの儀が始まる。なのにその主役が行方不明みたいだ。
面倒くさいことになりやがった。
俺はよっこらしょと立ち上がった。
「タツキ、どこに行くんだ」
「ちょっと用足しに」
俺は厠とは逆方向に歩を進める。
境内の裏庭に広がる林。そこは大人達を拒む、絶好の隠れ家だった。
鬱蒼とした林は葉が茂り障害物となり、背の高い大人には立ち入り難い場所だった。
だが小さな子供にはその柵は通じず、まさに大人から逃れるにはうってつけの場所だった。
この神社での生活が長い俺には周知の事実で、おそらくミクにとっても同じだろう。
俺は最近伸びた体を縮めながら林の中を進んで行く。
くすんくすんと泣き声がする。どうやら当たりらしい。
「『かくれんぼ』は楽しいかい」
俺は少女の肩を掴み、動けなくし、優しく声をかける。
驚かして崖から落ちたら大変だ。
「ミクを捕まえにきたの?」
怯えた声で呟く。
「残念ながら俺は『かくれんぼ』に参加していないんだ。散歩の途中に声をかけただけ」
「私を連れて行かないの?」
探るように問いかける。
「ミクがそれを望まないなら」
味方では無いかもしれないが、敵では無い。その事だけは分かって欲しかった。
「なんで逃げ出したんだい。そんなに神子になるのが嫌だったの?」
ミクはぴくっと体を震わす。そして頭をぶんぶんと横に振る。
「違うの。嫌とかじゃなくて……恐いの」
「恐い?」
俺は思わず聞き返す。
「うん、恐い。だって神子様は綺麗な心で、正しくて、思いやりに溢れて、神さまに愛されなければいけないんでしょう。そうじゃなければバチが当たるって。それもそのバチは神子様だけじゃなく、村の人全員に当たるんでしょう。そんなの……恐いよ」
ミクは座ったまま顔を膝につけて涙を零す。
あのクソ神主ども、こんな小さな子に何を要求しやがるんだ。
「そんなこと、心配しなくていいんだよ。神さまってね……結構いい加減なんだ。お祈りの祝詞をちょっと間違えたって、作法が少し覚束なくたって、神さまはそんなことを気にやしない。そもそも人は不完全なものなんだ。それを少しでも完璧にしよう。神さまに近づこうと努力する。そんな人間を神さまは愛してくれるんだ。一番いけないのは作法を完璧にして、心の中で舌を出す。それさえ間違えなければ神さまは怒りやしない」
ミクはこれまでの自分の恐れはなんだったのという顔をする。
「それで……いいの?」
なおも不安な口ぶりだ。
「けど私、自信がない。今の神子様みたいに立派に振る舞えない。あんなに真剣にお祈りを捧げ、聞く人みんなを幸せな気持ちに出来ない」
俺は笑った。腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。ミクは怒りの表情で睨みつける。
「いや、ごめん。だってさっき言ったよね。結構いい加減だって。お祈りだって『今夜の晩飯なにかな』とか『あの親父、だいぶハゲてきたな』とか考えながらやってたんだよ。いくら神子様だからといって、ずっと気を張り詰めてやってられないよ」
俺の台詞にミクは怒りの感情を高める。
「神子様を悪く言わないで。関係ない人が勝手なことを言わないで」
「いや、関係ない人って言われても、思いっきり当事者だし」
「は?」
「あ、やっぱり気づいてなかったんだ。改めて自己紹介します。当代神子・タツキです。よろしく」
ミクは俺を指差したまま凍りつく。
「うそ、だって神子様は女の子で、お兄さんはお兄さんだから男で。は、お兄さんは女なんですか?」
「日本語おかしいよ。俺は間違いなく男。俺が生まれた年は女の子がいなかったから、俺が神子になっただけ。普通は女の子がなるから、仕方なく女装してたんだ。決して趣味ではありません」
ミクは口をぱくぱくさせている。
見事に女装をやり遂げたと誇ればいいのか、哀しめばいいのか。
俺は崖の下を眺める。
松明が道々に置かれ、長く長く続き、地に伏す龍に見える。
「あの光は、人の手によるものだよな」
俺の言葉にミクは崖下を見る。
「きれいだろ。地に伏す龍だ。空には天を舞う星の龍がいる。だけど俺は地の龍の方が好きだ。天の龍に比べれば、みすぼらしいかもしれない。けれどそこには人の願いが、努力が詰まっている。この地の龍の輝きが天の龍を覆い隠し、地上を星の世界にする日がきっと来ることを、俺は信じている。俺たち神子の役割は希望の灯となり、その営みを続けさせることじゃないかな」
ミクは天と地を見比べ、何やら考える。
「まあ、難しいことは後でじっくり考えよう。とりあえず戻って、ちゃっちゃと儀式を終わらせよう」
俺はそう言うとミクの手を握り、林を駆けていった。
俺たちの後ろで、地の龍と天の龍が楽しそうに交わっていた。




