ボン・ヴォヤージュ
「はじめまして、おじいちゃん、おばあちゃん」
俺は子供が出来る前に孫が出来たようだ。
「そんな馬鹿な話があるか。時系列が滅茶苦茶じゃねえか」
真っ当な突っ込みを入れる。
「やっぱりそうなるよね。だからこの話を切り出すのは嫌なんだよな」
男は深い溜息をつく。
「……その話が正しいとしたら、あんたはんは時空を超越した存在やと言わはるの」
柚月は訝しむように訊ねる。
「時空ね……。説明が難しいな。そもそも時空の定義が君たちと僕とでは違うからね」
「どういう意味やの」
「君たちが言う時空とは『絶対時空』。縦、横、奥行きに目盛りをつけて認識される普遍の入れ物。けれど僕にとっての時空は違う。時空は一律に等しいものではない。この湾曲した空間では三角形の内角の和が180度にならない様に、湾曲した時間では千年の時も千年じゃないんだ」
こいつは何を言ってやがる。
「……あんたはん、やっぱり超越者やわ。そんな台詞、まともな神経の人間には出てきまへんで」
「僕にとっては『地球は丸い』と言っているようなものなんだけどね。まあいいや、そんな概念もあるとだけ頭の隅に入れておいてくれ。……で、ここからが本題。僕がここに来たのは、樹さんとつぐみさんにお願いがあって来たんだ」
これまでの飄々ととした雰囲気が霧散し、真剣な面持ちで俺を見据えた。
「あなたの子ども、僕の父を母を殺さないでください。他の者の手にかかるのは仕方ありません。ですがあなたの手で殺めるのだけはやめてください」
祈るような口調で聞き捨てならないことを語った。
「俺が子殺しをする。そう言うのか……侮辱するなよ」
俺は怒りに震え反論する。つぐみは俺の手を心配そうに握る。
「つぐみがこんなに愛している子どもを俺が殺すというのか。俺の身体が切り裂かれても、そんな真似は絶対にしない!」
怒号する俺を、男は哀しそうな目で見つめる。
「……その言葉、気持ち、忘れないでくださいね」
祈るような憐れむような声だった。
男が言葉を言い終わると、突然周りが消え始めた。
灰色のアスファルトも蒼い空もどこかにいってしまった。
残されたのは、上下も左右もなく、ただ無限に広がる黒い闇だった。
宙に浮くような、水中に漂うような妙な感覚に襲われる。
足をタンと蹴る。上下左右自在に進む。ここには重力が無いのか。
「兄さん、兄さん、何処にいるんですか。返事してください。無事ですか!」
つぐみの声が響く。いや声ではない。思念が直接頭に響く感じだ。俺は声の方向に進む。
「つぐみ、ここだ。俺はここにいる。怪我はないか、大丈夫か」
「ああ、兄さん。よかった、いたんですね。兄さんこそ無事ですか」
俺たちは手を取り合い、抱きしめ合う。するとつぐみの姿が暗闇に浮かび上がってきた。
「兄さん、兄さんの姿が見えるようになりました。これは一体……」
つぐみにも見えるようになったのか。どういうことだ。
「お互いの存在を認識すれば具現化でけるみたいどすな」
柚月の声が響く。何かが俺の手に触れる。その瞬間、柚月と水瀬の姿が浮かび上がった。
「よかった、お前たちも無事だったのか」
俺は安堵の声をあげる。
「……無事かどうか分からしまへんけどな」
柚月は引っかかる言い方をする。
「奥歯に物が挟まったみたいな言い方だな」
「樹はん、あんたはんにはうちらがどう見えてはります?」
「どうっていつも通りだ。つぐみは可愛いし、柚月はおっかないし、水瀬はアホっぽい」
「……おおきに。普段うちらをどう見てはるか、よーわかりました。でもそれが問題なんどす。うちには芽衣がごっつう可愛う見えます。よく奇跡の一枚やら言われる写真がありますでしょ、あれどすえ。こいつ、こないに可愛うあらしまへん。見る人の認識に従って、その姿が変わるんやないかと思います。そうすると一つの疑問が出てきます。うちらは今、どんな存在なのか。本当に元の姿なのか、それとも幽霊みたいにゆらゆらと漂う青白い炎のような存在なのか……」
その場にいる者は誰も答えることが出来なかった。
「さて、いつまでもこのままでは埒が明きまへんな。探索に出まひょか」」
柚月が言った瞬間だった。俺たちの足元から白い光が浮かび上がった。
暗闇の海の中、灯台の如く、誘うように光っていた。
「……これ、あいつの仕業かな」
俺は(自称)孫の顔を思い浮かべた。
「十中八九そうでっしゃろな。露骨すぎるわ」
「行くのは止めるか。罠の可能性が有る」
「うーん。罠の可能性は低い思いますえ。まず仕掛ける意味があらしまへん。罠を仕掛けるまでもなく、あいつはうちらを好きなようにでける。悔しいけど、能力差があり過ぎるんどすえ」
どうしたもんかね。俺と柚月は考えあぐねた。
「柚月ちゃん、行こう。他に打つ手はないし、どうせこのままいても脱出の可能性は無いわ」
水瀬が珍しく作戦に口を挟む。
「『死中に活を求める』か。そやな、うち知らんうちに臆病になっとったかもしれへん。こんなんうちらしゅうない。おおきに、芽衣。さあ、いくで!」
水瀬が口を挟みたかったのは、作戦ではなく柚月の在り方だったのか。こいつらしいな。理論ではなく直感で生きている。
「なんやの、これは」
俺たちは光源を目指し、その大元に辿り着いた。そこにあったのは白い光を放つ、モザイク状の巨大な壁だった。正六角形のパネルのような物が無数に組み合わされ、巨大な壁となっていた。正六角形は一軒家ほどの大きさがあり、壁は海のように果てが見えなかった。光はその正六角形の内部から発せられているようで、よく見ると少しずつ色合いや明るさが違った。
「この中から当たりを見つけて脱出しろってことやろか。なんぎなこっちゃ」
柚月は溜息をつく。
そうだろうか。俺は違和感を感じる。
あんな途轍もない力を持つ奴が、わざわざ俺たちをここまで連れてきて、脱出ゲームみたいな真似をさせるだろうか。そんな事に快楽を覚えるような奴には見えなかった。もっと何か違う目的があるんじゃないか。その目的のために俺たちを利用しようとしているんじゃないか。俺は思考を巡らせる。
「気をつけて。強い力が波打っている」
水瀬が突然声をあげ、何かを見つめる。
その視線の先を見ると正六角形の一つの光がどんどんと増し、まるで爆発するようだった。
膨張した光は大きな柱となって俺たちに向かって放たれた。
俺たちはなす術もなく光に飲み込まれる。
意識が細く細く消えゆくなかで男の声が聞こえた。
「ボン・ヴォヤージュ(よい旅を)」
嫌味なやつだ。俺は意識を失った。
「おっとう、おっとう」
俺を呼ぶ声がする。幼く、高い声だ。
眩しい光の中、少しずつ目を開く。
黒髪の6歳ぐらいの女の子が俺の体を揺すっていた。
「昼間っからお酒飲んで、おねむして、おっかあに知られたら怒られるよ」
女の子はいたずらっぽく笑いながら俺の体に抱きつく。
その細く長い腕、抜けるような肌の白さは、どこかあの男を思い起こさせた。