闇より響く足音
殺戮の宴は終わった。
周囲に存在していた生命は刈り取られた。根こそぎに。
残されたのは恐怖の色を張り付けた無数の躯。
おびただしい返り血を纏い、いま少女が帰還してくる。
それまで彫像のように固まっていた水瀬の身体がぴくりと動いた。
ゆっくりと瞳を動かし、つぐみを見つめる。
「つぐみお姉さま、敵は排除しました。もうお姉さまを傷つける者はいません」
水瀬は誇るでもなく、怯えたようにつぐみに語りかける。
見捨てられるのを恐れる子犬のように。
そんな水瀬をつぐみはじっと見つめ、つかつかと近づいていく。
そして水瀬の顔に両手を当て、その頬を思いっきりつまみ、裂けんばかりに広げた。
「おねえはま、いらいいらい、なにしゅるんですは」
水瀬は思わぬつぐみの行動に声をあげる。
「このあほんだら。なに自分を粗末に扱ってんのよ。あんな快楽殺人鬼みたいな真似、あんたの本分じゃないでしょう。相手に恐怖を与えるためでも、そこまで自分を偽らないで。……私には戦闘のことは分からない。けどね、あんたが血に狂った声をあげている時、心が悲鳴をあげているのは分かった。もっと自分を大切にして。仮面のつもりでも、それを何度も被り続けると自分の顔に張り付いてしまう……」
つぐみは顔に当てていた手を離し、それを水瀬の背中に回し抱きしめる。
「……お姉さま」
水瀬はぽろぽろと涙を流す。
俺の出る幕はないな。俺と柚月は目を合わせ、笑いながら頷く。
「ほな、帰りましょか。後始末は比丘尼はんらにまかせて引き上げまひょ。撤収、撤収!」
柚月の明るい声に背中を押され、俺たちは歩き出す。
みんな笑顔で歩き出す。
数歩歩いた時だった。突然水瀬が立ち止まる。
「水瀬、どうした?」
俺は怪訝な表情で水瀬に問う。
「来る!……圧倒的な。……なんなのこの力は!あり得ない。化物……」
水瀬の顔は蒼白だ。
「芽衣、芽衣!どうしたんや。しっかりしい。なにが来るんや!」
いつも冷静な柚月が声を荒げる。
「逃げて、柚月ちゃん。ここはわたしが食い止める。つぐみお姉さまを連れて逃げて!」
水瀬は俺たちを見ず、ただ一点を見つめている。
俺たちも水瀬の視線の先を見る。
一人の男が姿を現し、ゆっくりと近づいてくる。
「了不起(素晴らしい)!」
男はそう叫び、両手で拍手をしながら歩いてくる。
ぱちぱちぱち。拍手が俺たちを縛る縄に感じた。
「哪里哪里(どういたしまして)」
柚月が冷や汗をかきながら答える。
「いやほんとに見事な闘いぶりだった。感動したよ」
男は例えるならば闇だった。
黒い薄手のコートに黒い細身のパンツ。シャツも黒い光沢の絹で、全身黒で覆われていた。ただその顔だけが抜けるような白で、その幽鬼じみた風貌を一層強調していた。
「なるほど、確かにこれは化物や」
気圧されるのに逆らうように柚月が呟く。
「おや、君にも分かるのかい、僕の力が。これは意外だ」
「なーんもわからしまへん。けどな、おたくはんの雰囲気からただ者やないのはわかります。そやのになんやの、一切力を感じさせへん。まったくのゼロや。……アホやろ、あんた。こんなん『ものすっごい力を隠してます』いう看板を上げとるようなもんや」
「なるほど、興味深いね。そちらは本能で真実に到達し、こちらは分析から到達する。いや実に興味深い」
男は面白そうに笑う。
「で、おたくはんは何者やの。八百比丘尼のとこの急進派?それとも五行家の進化促進派?」
「やれやれ、二者択一かい。そのどちらでもないよ。もっと選択肢を広げてみたらどうだい」
「すんまへんな、世間知らずな小娘なもんで狭隘な世界しか知らへん。ご教授願えまへんか」
「真理は自らの力で到達してこそ価値がある。横着してはいけないよ」
「いけずやわ。モテへんで、そんなこと言うとったら」
柚月は右腕を振り大太刀を顕現さす。
「……芽衣、あんたは二人を連れて逃げなはれ。あいつの相手はうちがする。問答は無用。これが最善の策や」
「……柚月ちゃん」
柚月は言い放つと男に向かって突進した。
「やれやれ、自分にヘイトを集めて味方を逃がすか。涙ぐましいね」
男は泰然と構えている。
「翔べ、迦具土」
柚月は詠唱を行い刀を振る。紅炎が竜のように男に襲いかかる。
「……いやな技を使うね。だが術式が甘い。ウィークボソンに干渉は出来ているが、グルーオンや光子には干渉出来ていない。重力子については望むべくもない。子供騙しだ」
男はつまらなさそうに呟く。
紅炎が男を包み込んだ。決まった。
だが男に触れた瞬間、炎はさらさらと砂のように崩れてゆく。
男は一歩も動いていない。
柚月は信じられないと心が叫んでいるようだった。
「これで終わりかい。もしかしてとっておきだったのかな。それは悪い事をした。けれど二の矢、三の矢は用意しておくべきだ。まあ、初手で切り札を出すというのも一つの考えだが、その時点で詰んでるよ」
柚月はがくりと両膝をつき崩れ落ちる。
男はその横を悠然と通り過ぎる。
「さて、次はそちらのお嬢さんかな」
男は水瀬を見つめる。
「アイアスの7層の盾」
水瀬が叫ぶ。7枚のドームが俺たちを覆った。
「……残念ですがあいつを倒すことは出来ません。残された手はここで持ちこたえ、応援を待つことです。数で押せば、脱出のチャンスはあります」
水瀬は震える声で言う。
分かっているのだろう。可能性は限りなく低いことを。だがそれに賭けるしかないのだ。
男はふうと溜息をつく。
「リムーブ」
男が手をかざし、唱える。
ぱりーん。ドームが音を立てて砕けてゆく。
「言っただろう。術式が甘いと。せめて7層を連結させて補完すればもう少し持っただろうね。研鑽は大切だよ」
なんだよ、これ。あの圧倒的だった柚月と水瀬がまるで歯が立たない。なんだよ、こいつ。
俺は呆然と立ち尽くす。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
男の低い声が届く。
これまでか。
俺は目を瞑る。
「逃げて、お姉さま!」
水瀬の声が響く。
目を開ける。男の身体に正面からしがみつき、その場に押し留めようとしていた。
「樹はん、つぐみはんを連れて逃げなはれ!」
柚月が男の背中にしがみついていた。
俺は何をしているんだ。可能性が少なくても、たとえそれが一秒だけの延命だとしても、最後まで抗うべきじゃないのか。
俺は周囲を見渡す。あった、敵が落とした黒光りするダガーナイフが地面に落ちている。
震える手で拾い上げ、両手で構え、男に向き合う。
「つぐみ、逃げろ。おまえだけでも逃げろ!」
精一杯の力を振り絞り叫ぶ。頼む、お前だけでも逃げ延びてくれ。
「兄さんこそ逃げてください。私にとって一番大切なのは兄さんです!」
つぐみは逃げない。俺の腕を必死に掴み、この場から引きはがそうとする。
誰もが逃げようとせず、大切な人を守ろうとした。
「……えっと。誤解があるみたいだから言うけど、僕は君たちの敵じゃないよ」
困惑した表情で男は決まり悪そうに言う。
「「「「……は?」」」」
間の抜けた声が重なった。
「……敵じゃない。どちらかと言えば樹さんとつぐみさんの身内だ」
嘘つけ。お前なんか見たこともないぞ。
「信じてもらえないようだね。登場の仕方を間違えたかな」
どう見てもラスボスの登場の仕方だったぞ。
「改めて自己紹介させて頂きます。僕は樹さんとつぐみさんの子供のそのまた子供。謂わば孫ですね。初めまして、おじいちゃん、おばあちゃん」
男はにこやかな笑顔で俺たちに微笑みかけた。