愛の言葉
道が三つに分かれていた。
一つは里の中央部に向かう大きな道。
もう一つは海が見渡せる岬へと向かう道。
最後に山に登る細く険しい道。
つぐみはどの道に行ったんだ。
そんなのわかりきっている。
こういう時にあいつが行く場所は決まっている。
あいつは辛い時、苦しい時は広く、大きなものに身を委ねる。
水平線の見える海や、大空が見渡せる草原とかだ。
俺は岬への道を進もうとした。
瞬間、頭の中に光の粒がトーンと落ちてきた。
粒は弾け、一本の線となり、眩いばかりの道となる。
その道は三つの道どれとも重ならなかった。
光は草が生い茂った道なき場所を示していた。
そんな馬鹿な。俺はかぶりを振る。
目を凝らして見る。すると草が折れ空間が出来ている。そして地面には足跡のようなものがある。
マジか。俺は光の線に沿い、草を踏み分け進む。
草が踝を打つ。
細く鋭い葉が刃のように足首を切る。
草丈が大きく腰まであり、行く手を阻む。
あいつはなんでこんな所に来たのか。
どのくらい進んだのだろう。光の線が段々太くなってくる。それは波打ち、鼓動していた。
太陽が降り注ぐ広場にでた。
短く生えそろった草は風に揺れ、生まれたての子供の手のようだった。
その光の中につぐみは膝を抱え座っていた。
歪な聖母子像のようだった。
「なんで、ここに来れたんですか……」
顔を膝に埋めたまま、怒りでもなく驚きでもなく、つらい現実を受け止めるようにつぐみは言う。
「私のことをよく知っていれば、理解していればここには来れなかったはずです。何故ここに辿り着けたんです?……なにかに……導かれたのですか?」
空恐ろしいものに怯えるように問いをぶつけてきた。
俺はその目にごまかす事も、嘘をつく事も出来ず、無言をもって答えてしまった。
「そう……なんですね。もう私たちは、自分の気持ちに自由にはなれないのですね」
「なにを言っている。お前は何にそんなに傷ついているんだ。ナギや西條と仲良くしていたのが気に入らないんじゃないのか。話してくれ、一体何がお前をそんなつらい顔をさせているのかを」
つぐみは顔を上げる。その涙に塗れた顔は、何かを悟ったようだった。
「兄さん、さっき素敵な笑顔をしてました。台風が通り過ぎた後みたいな、一片のかげりも憂いもない眩しい笑い。ああ、兄さんはこんな笑顔をする人だったんだと私は衝撃を受けました。私といる時はあんな笑顔はしません。少し熱を帯び、何かを求めるような笑顔。最初はそれ、凄く嬉しかったですよ。愛されているんだって。でもそれって、兄さんの本当の気持ちだったんでしょうか」
つぐみは哀しみを拭い、冷徹な目に打って変わった。
「もう一度問います。兄さん何でここに来れたんですか。何かに導かれたんじゃないですか。何かに操られて来たんじゃないですか」
つぐみの問いは質問ではなかった。残酷な現実の通牒だった。
「私が見る兄さんの笑顔には、いつも苦悶が滲んでいました。それが恋愛だと思い込んでいました。経験のないお子様は駄目ですね。苦しみが恋の深さと勘違いするんだから。兄さんはあんな晴れやかな笑顔が出来る人。それを曇らせていたのは、私への想いが邪なモノから生まれた物だから。……兄さんの私への想いは、私から別れた異形に操られた物じゃないんですか」
つぐみは否定して欲しかったのだろう、この事を。そしてつぐみであれば来ないここに来た。そしてつぐみを理解していれば来ないはずの俺がここに来た。それが答えだった。
「私の本当の望みは兄さんの笑顔。私の気持ちは二の次 三の次なんです。それを曇らせるものは、取り除かなくてはいけません。……例え、それが私だとしても」
つぐみは震える声で言う。
「私、馬鹿な夢を見ていたみたいです。兄さんと結ばれ、幸せな未来を送れるって。……身の程知らずですよね、バカみたいですよね。わかっていたはずなのに、わきまえていたはずなのに……夢を見ちゃいました」
哀しみを凝縮した、線香花火の最後のような笑顔だった。
「兄さん、ナギさんか西條さんかと寝てください。そして土蜘蛛の半身を移してください。彼女たちなら兄さんを受け入れてくれます。そして移した土蜘蛛も悪いようにはしないでしょう。兄さんはそれで自由になります。……この状況からも。土蜘蛛の呪縛からも」
つぐみの言葉は、信じがたいものだった。
「なにを言っている。馬鹿なことを言うな。俺は愛してもいない女を抱くほど鬼畜じゃねえ。俺が抱くとしたらつぐみ、お前だけだ。ちったあ自覚しろ!」
俺は縋るように罵倒した。
「そう言ってもらえるは本当に嬉しいです。でも駄目なんです。兄さんがそう思っていても、それで兄さんの顔が曇るなら、それは駄目なんです。頼みます、兄さん。私の願いを聞いてください。私にとって、兄さんの幸せ以上のものはないんです!」
繊細な硝子細工のように脆い目で俺を見つめる。
失いたくない、こいつを。
操られているとかどうかは関係ない。これは俺の心からの気持ちだ。
どうすればそれが解ってくれるんだ。
『魂のこもらぬ百万編の言葉より、己の存在を乗せた拳の一撃が如何に雄弁か、わかるだろう』
一つの言葉が頭をよぎる。……やってやる。
「つぐみ、お前は馬鹿だ。お前は俺と別れてそれでおしまいと思っているようだが、その後どうなるか考えているのか」
つぐみは不意をつかれ、涙が止まる。
「俺は……荒れるぞ。自信を持って言う、荒れる。酒に溺れ、色に溺れ、苦痛を紛らわせる刺激を求めて自堕落な生活を送る。お前との思い出が俺を苛み、お前と最もかけ離れた存在、幼女や清原みたいな男に手を出すかもしれない。お前はそんな未来を望むのか」
つぐみは青ざめる。俺だってそんな未来はまっぴらごめんだ。
「俺はいま、幸せだ。この感情は操られる類のものじゃねえ。俺の気持ちだ。
こんな状況でも俺のことを第一に考えてくれる奴がいる。
俺が美味しいものを食べていると、自分も美味しそうな顔をする奴がいる。
俺の隣りで楽園にいるように眠る奴がいる。
こんな俺を何十年も愛すると言ってくれる奴がいる。
この世界を素晴らしいと思えさせる奴がいるんだ。この幸せを奪うんじゃねえ」
俺は言うべき言葉を間違えていたのだ。『愛している』ではなく『幸せだ』と伝えるべきだったのだ。それこそが本当の愛の言葉。愛する者が望むべき言葉を捧げるべきだったのだ。
本当にこいつはめんどくさい。
つぐみは涙の上に笑顔をまとった。その姿は果てしもなく気高かった。
「兄さん。兄さんは私といて幸せなんですね」
「言い間違えるな、お前がいる場所が幸せなんだ。離れるんじゃないぞ」
「はい!」
二人は融け合わんばかりに抱きしめ合った。やさしい風が吹いていた。