コール・ミー
「少し意地の悪い言い方をしたの。だが解って欲しい。彼奴は確かに儂らとは違う姿かたちをしておる。だが根本的には、おんなじなのじゃよ。幼き子供を見ると相好を崩し、見知った者の死には嘆き苦しむ。一緒なのじゃよ、儂らと。だが彼奴はその思いを伝える術を知らぬ。言葉を持たぬ。それ故ヒトはその風貌のみで判断する。化物と」
比丘尼は責めるのではなく、やり切れない、といった表情をする。
「だがな、言葉はなくとも思いを伝えることは出来る。拙くとも、心を込めれば、通じ合うのじゃ」
俺たちはそれ以上言葉を発しなかった。
ただ黙々と歩いて行った。
だが何かが伝わってきた。
言葉は単なる手段だと、俺は教えられた。
歩き始めて30分ぐらい経ったろうか、俺たちは丘の頂に着いた。
登って来た道を振り返ると集落が小さく見える。
色とりどりの屋根が、涙ぐましく咲く花のように映る。
反対側を見ると海が大きく迫ってきた。
頂の向こうは切り立った崖となっていて、潮風が舞い上がってくる。
人の営みと、自然の鼓動が交差する場所だった。
羊のように豊かに葉を茂らせた大木があった。
その根元に、苔が生え永年の風雪にさらされた大きな石が立っていた。
彼女はその石の前に跪き、掌を合わせ、目を閉じ、黙祷した。
ながい黙祷だった。
声をかけるのが憚られるた。
俺も何も言わず、じっと手を合わせ、黙祷した。
風のさわさわという音だけが流れていった。
ながい祈りのあと、比丘尼はすっと立ちあがった。
「ありがとうな。付き合ってくれて」
彼女は寂し気に微笑む。
「ここに眠っているのは?」
俺は静かな声で尋ねる。
「お主の想像している通りじゃよ。……先代の八百比丘尼じゃ」
彼女は空を見上げ、口元を引き締め、言う。
「今日は400年前、八百比丘尼が亡くなった日。ついでに言うと、儂が人として死に、人外として誕生した日でもある」
悲しいとか辛いとか、そんな感情を超えた先にある寂しさを纏った声だった。
「不思議なもんじゃの。遠い昔、人間だった頃の記憶はほとんど残っておらん。じゃが、この日だけは忘れることが出来ん」
彼女の目は虚空を見つめているようだった。
ここでない何処かを。今でない何時かを。
「のう、お主は怖くはないのか。自分のなかに巣食うものを。己が人外へと変貌するのではという可能性を。人の世からはみ出してしまう怖れを、お主は感じないのか」
彼女は縋るような瞳で俺を見つめた。
天から垂れる糸を求める者のように。
俺は時空を超え、過去の彼女を見せられている気持ちにさせられた。
数百年の時を生きる伝説の者ではなく、たった今平凡な日常を取り上げられた少女がそこにいるようだった。
「怖いか、確かにそれはある。だがそれはあんたが言っているのと、ちょっと意味が違う」
言葉は難しい。同じ言葉でも、指し示すものがまるで違う。自分の内にある大切なもの。それを表すのがこんなに難しいなんて。
「つぐみがな、言うんだよ。『私たちを贄とするなら、世界と決別してもかまわない』、『新世界のアダムとイブとなって、自分たちと子供とだけで暮らしてもかまわない』と。迷いのない目で言うんだよ。……それを見てると、世界ってそれほど大層なもんじゃないなって思えてきた」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「何百年と生きてきたあんたなら知っているんじゃないか。世界の金科玉条たる正義というものの、あやふやさを」
俺は淡々と語る。
「主君への忠誠、お家大事、君主国体、その時々で正義は変わってきた。それは不変ではなかったはずだ」
彼女は俺の意を読み間違えまいとじっと見る。
「ならばそんなものに付き合う義理はない。世界が俺たちを受け入れないなら、新しい世界を創って引っ越すだけだ。もしくは世界が変わるのを待ってもいい、永い時間があるならば。それを思えば、世界が俺たちを爪はじきにしようと何も怖くはない。……怖いのは俺たちが創る世界が、正義が、力ない者を理不尽に踏みにじらないかということだ」
俺は素直な気持ちを語る。
「五行家の連中は、俺の身に原初の創造神が宿っていると言っていた。信じる訳じゃないが、世界の創造に関わる力があるなら取り扱いは大変だ。俺の心が曇り、人の世を呪ってしまえば、それに相応しい世界が誕生してしまう。一時の気の迷いが、後悔してもしきれない結果を生むことになる。一瞬でも負の感情に呑み込まれてはいけない。……俺はそれが恐ろしい」
人との関わり合い、世界との向き合い方を素直に述べた。
比丘尼は俺を見つめ、静かに言う。
「……大丈夫じゃろう。その気持ちがあるのなら、お主が創る世界は、お主の子が創る世界はきっと優しい世界に違いない」
彼女の頬は僅かばかり緩んでいた。
「お主は、強いの。儂は……弱かった。人外となって80年経ったころ、儂は荒れておった。父も母も兄弟も、年老いあの世に旅立っていった。儂の人の身であったころを知る者は誰もいなくなった。里の者は儂を畏れ、敬い、丁重に扱ったが儂が求めていたのはそんなものではなかった。父や母のように叱って欲しかった。兄弟のようにふざけ合って欲しかった。儂は……さみしかった」
悲しいような響きを聞いた。
「人の中にいる方が、より寂しいと感じたことはあるか?人の輪に入れず、おまえは一人だと突きつけられたことはあるか?儂は里を離れ、この山に一人住むことにした。そのほうがまだ耐えられた」
悲しさが冷たい水のように流れてきた。
「儂は呪った。里の者を、儂を置いてくたばった親兄弟を、儂を助け地獄に落とした八百比丘尼を。すべてのものを呪った。……この墓石も何度蹴とばしたかわからんよ」
彼女は自虐的な苦笑いをする。
「じゃがな、150年ほどして解る気がしてきた、八百比丘尼の気持ちが。……たぶん噛み合わなくなってきたんじゃろうな。自分の時間と周りの時間が」
荒涼とした風が吹いてくるように感じた。
「最初から悠久に時を生きる者なら、そんなものかと済ませたじゃろう。だが彼女も儂も短い生を送るはずの者じゃった。それが何の手違いか、終わりの見えぬ人生を歩まされる羽目になってしもうた。これはけっこう堪えるのじゃ。自分は何気ない日々を緩やかに送っているのに、周りは目まぐるしく変わり、老い、去っていく。自分だけを置いて進んでいく。超越者なのか傍観者なのかよくわからん。ただわかるのは、この世界は儂の世界ではないという事だけじゃ」
胸がきゅっと締め付けられる。
「彼女も降りたかったのじゃろう、そんな人生から。自分から降りようとはせぬが、譲れるものなら譲りたいと思っておったに違いない。そこに現れたのじゃよ、譲るのにぴったりの大義名分を背負った瀕死の儂が。この娘を助け、永遠の命を手渡せば、この牢獄から解放される。命をかけて救ったことで感謝をされ、自分の物語も紡げる。そう思ったのじゃろうな。いま振り返れば、ほっとしたような、申し訳ないような顔をしておった。……儂は感謝と共に文句を言いに毎年来ているのじゃよ」
比丘尼は膝を抱え墓石をじっと見ていた。
俺にかける言葉はなかった。
ただ身体を傾げ、膝をつき、彼女の頭にそっと手を添え、優しく撫でた。
数百年の時を生きる者にする行為では到底なかったが、それが正しいと思えた。
「……儂にこんな真似をする奴、見たことないぞ」
「よかったな、珍しいものが見れて」
くしゅくしゅと彼女の髪をかき回す。
「帰るか、もうすぐ昼どきだ。朝めし食べてないんで腹がすいた」
太陽は南中にかかろうとしていた。
俺は立ち上がり、彼女の手をとる。
「……ナギ……」
彼女は俺の手をしっかりと掴み、俺の目を真っすぐに見つめ、言った。
「『ナギ』、それが儂の名じゃ。トトさまとカカさまがつけてくれた、いまではもう誰も呼んでくれん、儂の名じゃ。……主にはそう呼んでもらいたい」
俺はその言葉を正面から受け止め、彼女の手を引きよせた。
「帰るぞ、ナギ。昼飯はなにかな」
「白甘鯛の東寺焼きといっとったぞ」
二人の影は、並んで山を降りていった。