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静穏な朝

小鳥の(さえず)る音がする。

淡い朝日が差してくる。

夜明けだ。やっと訪れた。俺は安堵に包まれた。

この気持ちを解ってくれるのは、耳を除く全身にお経を書き込んだ僧侶ぐらいのものだろう。




隣でつぐみが幸せそうに寝ている。

俺は起こさないようにそっとベットから離れ、乾いた喉を潤わせるためダイニングへ向かった。




「おはよう」


ダイニングへ行くと、コーヒーサイフォンを用意している西條が声をかけてきた。


「おはよう。ずいぶんと早いんだな、まだ日が昇ったばかりだぞ」


「習慣なのよ、この時間に起きるのが。早朝の散歩を日課としているから」


「……健康のため?」


「素敵なおじ様との出会いのため」


ぶれないな、こいつ。




「コーヒー、飲む?モカだけど」


「お願いできるかな」


フラスコに火がかけられ、コポコポという音が小気味よく響く。

トロピカルな甘い香りが漂ってくる。

澄んだ静謐な時間が過ぎていく。


「お待たせ。はい、どうぞ。良い一日はコーヒーと笑顔から始まるのよ」

輝く笑顔で西條はコーヒーを手渡す。

俺はありがたく頂戴した。

柑橘系の爽やかな酸味が突き抜ける。

濃厚なボディと豊かな香りが、ゆったりとした朝を(かたど)っていく。




「ゆうべはお楽しみだったようね」


機械的な口調で西條が語りかけてきた。

俺の口から漆黒の霧が噴き出した。


「違うか、コトに及ばなかったから、『ゆうべはお苦しみだったようね』が正しいのかな」


俺はゴホッゴホッとむせる。


「よく我慢出来たわね、あんなかわいい娘を目の前にして」


「てめえ、なに見てきたようなことを……」


「あら、見てはないけど全てが物語っているわ。赤外線センサーがあの娘があなたの部屋に入ったことも、コンクリートマイクが情事の行われなかったことも、全て物語っているわ」


こいつら、なにしてやがる。


「そんな顔しないで。これはセキュリティの一環よ。あなたたちのプライバシーに立ち入るつもりはないわ。あくまで警備が主目的。あなたたちの動向が知れたのは副次的なものよ」


どうだかな。ピーピング・トムとは言わないが、そのセキュリティの中に俺たちの愛情行為の阻止という項目があるように思えて仕方がない。俺が我慢出来なかったら、こいつら踏み込んできたんじゃないかな。


「あなたが何を考えているか想像がつくけど、こっちの身にもなって頂戴。……一晩中甘ったるいバカップルの囁きを、いい年をした大人が顔を突き合わせて聞かされていたのよ。堪ったもんじゃないわ。任務じゃなければやってられない」


西條はくいとコーヒーを飲み干す。

よく見ると目の下にクマが出来ている。

……すいませんでした。


俺たちは甘いコーヒーを飲みながら、放心したように空を見つめていた。




「俺、ちょっと散歩してくる」


体を動かせば、少しは気も晴れるだろう。


「私も一緒に行くわ」


「……ここにおじ様はいないと思うぞ」


「あなたを一人きりにさせる訳にいかないでしょう。これでも私、あなたの護衛も任されているのよ」






ほっそりとした華奢な体つきの女性と連れ添い芝生の上を歩く。

白いオフショルダーのワンピースに麦わら帽子。絵にかいたような夏の令嬢だ。


「何か言いたそうな顔ね」


「いや、ガーリーだなって思って」


「……年甲斐もなくとか言いたいの。いいのよ、好きなように着るのが一番。雰囲気に浸って何が悪い!」


西條は少しむくれたように頬を膨らませ、それでも背をぴんと伸ばし、真っすぐ歩いて行く。


「似合っているよ。西條の涼やかな雰囲気に、よく似合っている」


西條は目を見張り、口をぽかんと開けた。


「そう、ありがと。あなたも少しは口の利き方が分かるようになったのね」


彼女は早足で俺の前を進んでいった。




海が見渡せる岬に出た。

青海原(あおうなばら)から吹き付ける風が気持ちいい。

ふと見ると、岬の突端(とったん)に一人の少女がいた。

少女はじっと沖を見つめ、何かを祈るようだった。

その小さな身にすべてを背負い潰されそうになりながら、それでも微笑む痛々しさがあった。


「比丘尼の奴、なにしてんだ……」


俺は隣の西條に尋ねる。


「……多分、剣斗(けんと)さんとお話しをているんでしょうね」


「剣斗さんって?」


「……100年前の英雄よ。100年前、島は外敵の襲来を受けた。異形のモノが襲ってきたのよ。私たちの祖先は、比丘尼さまの指揮のもと立ちあがった。その中の戦士の一人が剣斗さん。彼は押し寄せる敵を阻み、その身が切り刻まれるのを物ともせずに戦い、傷つき、それでも敵を倒していった。輝く勝利を残し、海の向こうに行ってしまった。……比丘尼さまは剣斗さんの名付け親だと聞いているわ。お話しているんでしょうね、……剣斗さんと」


みんな、色々な哀しみを背負って生きているんだな。

俺は比丘尼が見つめる遠い海の先を見た。


海の向こうに細長い三角の山が見えた。

白く、ツルツルとした山だった。

山がだんだんと近づいてくる。

山の麓から同じ色調の大木が無数に生えている。大木はうねうねと動いている。

30メートルはある山の中腹に、二つの大きな眼球があった。


巨大なイカであった。

クラーケンだった。


「久しぶりだわ、剣斗さんがこんな近くに来るなんて」


隣で西條が嬉しそうな声をあげる。


剣斗さんてこいつかよ。

クラーケンの剣斗(ケント)かよ。ババア、なんてネーミングセンスしてやがる。


「剣斗さんは海の向こうに行ったんじゃなかったのかよ!」


「ええ、剣斗さんは外洋に出て、島に近づく者を追い払うパトロールをしているわ」


比喩じゃなく、言葉通りの『海の向こう』かよ。


「ちょっと待て、ロリババアが『ここは儂が信を置く強き者が守っている』と言ったのは……」


「うん、剣斗さんのことよ。剣斗さんはこの島の守り神だから」


お前や清原のことじゃなかったのかよ。がっかりだよ。びっくりだよ。




虚脱した気持ちを奮い起こし、改めて島の守護神を見る。

するとそこには信じられない光景があった。


「どぉりゃあー」


雄叫びをあげ、剣斗さんに殴りかかる少女の姿があった。

水瀬であった。つぐみをお姉さまと慕う後輩(ヘンタイ)であった。


水瀬の打撃はぷよんぷよんと剣斗さんの柔らかい体に吸収される。涼しい顔をして水瀬の攻撃を受け止める剣斗さんは、ふっと小馬鹿にしたような声をあげ巨大な触手を振り上げる。ぺちんと水瀬は弾かれ飛んでいく。まるで水切りの石のように回転しながら、ぽんぽんぽんと水面を跳ねていく。


「ちくしょー」


怒号と共に水瀬は砂浜に頭から突き刺さった。

比丘尼は剣斗さんに腕を向け、親指を立ててサムズアップをする。

それを見た剣斗さんも触手を向け、吸盤を立ててサムズアップを返す。

ババァ、なにを仕込んでやがる。


俺は砂浜に下半身をはやした水瀬を回収に向かった。






平穏な一日とは、かくも遠いものなのか。


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