マイ・ヒーロー
わたしには忘れられない想いでが二つある。
その一つが11年前、小学一年の夏の海。
太陽が金色の雨を降らしているような眩しい夏の日、わたしたち家族は町内会の人たちと海に来ていた。
初めての夏休み。すべてがきらめいて見えた。世界はわたしを祝福している。わたしはそう思い上がっていた。
波打ち際の水遊び、砂遊び、貝殻集め。日頃経験出来ない遊びに夢中になった。その成果を両親に誇りたかった。だが町内会での責務がある両親は、わたしの訴えを聞き流すばかりだった。
思い通りにしてくれない両親に、わたしは憤った。
「なんでわたしの言うことを聞いてくれないの」
気がつくとわたしは走り出し、人気のない洞窟に来ていた。
水面に浮かぶ細い通り道を歩き、洞窟の奥に進み、出口を見据え座り込んだ。
わたしがいなくなって、心配すればいいんだ、後悔すればいいんだ、そう思っていた。
周りは静かで、何の変化も無かった。
わたしは先程まで遊び回っていた疲れがどっと出てきて、眠りについた。
どのくらい時間が経ったのだろう。目が覚め、気がつくと洞窟には海水が押し寄せていた。歩いて来た道は海に呑み込まれている。帰れない。わたしは本能的にそう思った。
今考えれば、満潮で通り道が海水に隠れていただけだった。注意深く見れば海水に沈んだ通り道も発見でき、歩いて帰ることも可能だっただろう。だが岩壁と海水だけの隔絶された世界に取り残されたわたしには、そんな事は不可能だった。世界に捨てられた。お前は世界に要らない子供なんだ。その考えだけが頭の中をぐるぐる回っていた。
わたしは泣いた。死ぬほど後悔した。心の底から謝った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」
わたしの謝罪は虚しく波に消えていく。わたしの声は枯れていった。わたしはもう疲れてしまった。
なにも考えたくない。なにも感じたくない。そう思っている時だった。耳慣れぬ異音が響いてきた。
じゃぶじゃぶと水を掻き分ける音がする。逆光を浴びた黒いシルエットが近づいてくる。腰まで水に浸かり、でこぼこした海底に足をとられながら、それでも力強く近づいてくる者がいた。
「見つけた。やっぱりここにいた」
優しい聞き慣れた声がした。隣の……いつき兄さんの声だ。
「帰ろう。みんな心配している」
そういっていつき兄さんはわたしに手を差し伸べる。その手は太陽と海の光をすべてかき集めたように輝いていた。わたしはただ泣きじゃくり、いつき兄さんにしがみついた。
いつき兄さんが、わたしの中で掛け替えのない存在になった瞬間であった。
もう一つの忘れられない想い出。それは6年前、12歳の夏、わたしは危機に直面し、投げ出し、押し付け、そして逃げた。いつき兄さんがわたしを海で助けてくれたと同じ年齢の時の事である。
同い年の時のいつき兄さんとは比ぶべくもない。
……わたしは自分を軽蔑した。
◇◇◇◇
「兄さんは特別なんです。わたしの世界そのものなんです。光り輝いていなければいけないんです。不幸になったりするのは許されないんです。……そのためなら、わたしは何だってします!」
つぐみは湧き上がる哀しみを抑えきれないように言う。
永年ため込んだ想いを吐き出すように語る。
純粋な、ほの暗い情念が押し寄せてくる。
俺がそれに呑み込まれてはいけない。
「つぐみ、お前は何かに囚われている。お前にとって俺は救いなんかじゃない。……もはや呪いだ……」
俺はやりきれない目でつぐみを見つめる。
つぐみは顔がこわばるほどの驚きに言葉を失った。
数舜の沈黙のあと、つぐみは衣服を身に着け、かえっていった。
翌日、両親不在の夜最終日……つぐみは来なかった。
会社から帰ると作り置きのシチューと置手紙だけがあった。
「温めて召し上がってください。……お元気で」
手紙に書かれてあったのは、それだけだった。
第一章そろそろフィナーレです。最後までお付き合いください。
第二章も考えています。続きをちょっとでも見たいと思われましたら、ブックマーク、下記の星評価お願いします。