お願いです
街行く恋人たちを眺める。
彼らはどれだけ同じものを見ているのだろう。
どれだけ同じものを求めているのだろう。
昨日の夜、俺とつぐみは同じ場所で同じ映画を観ていた。
だが目に映るものは同じでも、届く心は違っていた。
彼らはどれだけ同じものを見ているのだろう。
「ただいま」
「お帰りなさい。ご飯とお風呂、どちらにします?」
三日目ともなればつぐみの出迎えも自然に感じてしまう。慣れってこわい。
いつも通り、風呂場で煩悩を洗い流しリビングに向かう。
テーブルにはハンバーグとポテトサラダが並んでいた。料理上手のつぐみにしては初心者向けのチョイスだ。
「今日はまた随分とオーソドックスなメニューだな」
「……これ、わたしが初めて覚えた料理なんです。小学六年の夏、あの事があったすぐあと。……兄さんにいつかは食べてもらいたいと思ってました。わたしの我儘ですが、今日はこれを召し上がってください」
キッチンに目を目を遣る。いつも以上に乱れが少ない。恐らく何度も何度も作ってきたのだろう、色々な想いを込めて。
「お前の一番練習してきた料理だろう。不味い訳がない。食べるのが楽しみだ」
つぐみは輝くような笑顔を浮かべた。
つぐみの最も歴史ある料理は、これまでで一番美味しかった。
ハンバーグはコンソメで下味をつけたのだろう。肉のくさみが抑えられ、旨味がでていた。
そして手の温度で肉の脂が溶けるのを防ぐため、氷水を用意し手を冷していた。
そこまでしなくていいのに。
「ごちそうさま。お世辞抜きに、おいしかった」
つぐみは目に涙を滲ます。俺はいたたまれなくなり、コーヒーを入れに行く。
優しいコーヒーの香りがリビングを満たす。
つぐみの料理には及ばないものの、そこそこ誇れるコーヒーを入れ、俺は席へ戻ろうとした。
そこで僅かな違和感を感じる。
リビングの光量が少ない。
そのほの暗い部屋の中に、つぐみは悠然と立っていた。
淡い陰影が映しだす彼女は、生きているのが不思議な、陶磁器人形のようだった。
「暗くないか、もう少し明るくしよう」
真冬のぎゅっと詰まったような、緊張した空気が漂っている。
つぐみは何も答えない。ただその大きな眼をじっと見開き、雄弁になにかを語っていた。
そして指をシャツのボタンに手をかけ、ひとつずつはずしていく。下着はつけていない。柔らかく、美しい曲線の胸があらわとなった。すとんとスカートも落とす。最後の一枚も何かと決別するように脱いでいく。
生まれたばかりの姿のつぐみは、一切の穢れもない新雪のようだった。
つぐみが俺に近づいてくる。ゆっくりゆっくり、もどかしそうに、怯えるように。
一歩一歩近づいてくる。これまでの歩みを噛みしめるように。
俺に手が届くところまでくると、つぐみは歩みを止めた。
そして花が咲くようにねっとりと唇を綻ばし、言った。
「……抱いてください。……お願いです」
茶化すことも逸らすことも出来ない真剣さで、つぐみは囁いた。
ああ、ついに来たのか、この時が。
崖っ縁に足を踏み出す恐ろしさがこみ上げてくる。もう逃げることはできない。
「お前の意思は固いんだな。何があろうと俺の子供を産む、そう言うんだな」
つぐみは何も言わず、ただ首を下に振った。それは重く、到底くつがえせない様なうなずきだった。
「……わかった。俺の気持ちを偽らずに言う。
つぐみ、俺はお前が好きだ。その真っすぐで、燃えるように激しく、底知れぬほど深い愛情に心惹かれる。いとおしいと思う。誇らしく思う。……でも、だからこそ、お前には人に後ろ指さされる人生を歩んで欲しくない。一片の曇りもない人生を送ってもらいたい。人がどう言おうと関係ないとお前はいうだろう。だが、これは俺のエゴだ。正しい正しくないとかではないんだ。俺がお前にそう在って欲しいと思っている、それが俺の本心だ。……俺の子供を産むとかいうのは……やめてくれ」
最後の声は消ええるようだった。
針を飲むような哀しみをたたえ、つぐみはじっと聞いていた。
「……どうしても、だめですか……」
つぐみは涙をこらえるように上を向く。
「兄さんが、わたしを大事に思ってくれているのは嬉しいです。……でも兄さんは解っていません。兄さんが幸せにならなければ、わたしも幸せになれないって。わたしの心に兄さんが大きく居座っているんです。……こんなわたしになったのは、兄さんのせいなんですよ……。兄さんが……兄さんとの想い出が、わたしをそうさせるんです。あの日の夏の海から……」
つぐみは語りはじめた。俺との想い出が生まれた、あの夏の海を。
そろそろ佳境に入ってきました。毎日投稿を途切れさせないよう、必死に頑張っています。
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