1-7 言わないで
置時計の秒針が、枕元で時を刻む。午前五時四十分。私は、ベッドから起き上がった。
忍び足で部屋を出て、薄手のコートに袖を通す。コートの下は、無地のトップスにスカート姿。パジャマはとっくに着替えていた。明け方の縹色を映す鏡の前で、胸元まで伸ばした黒髪を櫛で梳くと、ハンドバッグを持って家を出た。
微睡から目覚めていく街は、澄んだ風が花の香りを運んでいて、街路樹の桜も蕾を開き始めている。早朝の散歩に勤しむ人ともすれ違い、私は頭上を振り仰いだ。
薄明の空は、美しかった。薄紫と乳白色の海原に、灯台のように輝く白い星と、糸のように細い三日月が浮かんでいる。道標の星と月の船が揺蕩う水色に、散りゆく線香花火の最後の光を溶いたような紅が拡がり、爽やかな桃色に霞んでいた。春はあけぼのという『枕草子』の一節を表した空の下に、つい昨日卒業したばかりの高校と、フェンスの角に寄り添う黄色の花が見えてきた。
仲間外れのミモザは、満開だった。青く色づいた空気の中で、黄色がふんわりと光っている。春の訪れを知らせる花びらの下、一人で佇む青年を見つけた私は、安堵の息をそっと吐いた。
きっと、また会えると思っていた。月光も花の影もない地面を踏んで、木の下にたどり着いた私を、相手は朗らかに迎えてくれた。
「おはよう。澪」
「おはよう。彗」
初めての挨拶を交わした私たちは、見つめ合った。彗は、髪が少し短くなって、さっぱりした雰囲気に変わっていた。夜空の名残みたいなネイビーのジャケットが、すらりとした体躯に似合っている。――あの日から、一年が過ぎたのだ。
「私のこと、もう倉田さんって呼ばないんだ」
「うん。あのときの約束は、互いに果たせたと思うから。どうかな」
問われた私は、こくりと頷いた。何から話そうか迷ったけれど、約束のことについて打ち明け合う前に、まずは昨年のことから切り出した。
「一年前の夜に、私が家を抜け出してたこと……お父さんとお母さん、気づいてたんだって。でも、私を信頼して、何も訊かないでくれたみたい」
両親は、私を叱らなかった。離婚の件でショックを受けた私のことを、私が思う以上に気遣ってくれていたことを知ったのは、長い夜が明けてからだった。
午前四時に、私がどこに行っていたのか。私は、両親に明かさなかった。ただの澪と彗という、記号みたいな存在で過ごした時間は、二人だけの秘密にしたかったから。彗は、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「あれは、僕が悪かったんだよ。澪を、夜中に連れ出したから」
「ううん。私が、そうしたかったから……」
「悪いって分かっていたのに、澪を帰らせたくなかった僕は、自分で思っているよりも、悪い人間なのかもしれないね」
そう言って微笑んだ彗の頬を、橙の輝きが縁取っていく。――朝が来たのだ。日の出の瞬間を一緒に見ようと決めていたのに、午前四時の迷子ではなくなっても、私たちは互いのことばかり見つめている。一年たっても相変わらず、歯が浮くような台詞をさらりと告げる綺麗な人は、ふと思い出した様子で私に言った。
「そういえば、僕はまだ、澪の質問に答えていなかったね」
「質問? ……あっ」
――『彗が一番好きな絵を、教えて』
午前四時のミモザの下で、私は彗に訊ねていた。けれど、その質問をした翌日に、私は彗の怪我のことを知って――彗の一番好きな絵を、私は今も知らないままだ。彗は「隠していたわけじゃないんだ」と弁解してから、少し困ったような笑みを見せた。
「ただ、僕自身が答える前に、もう澪がタイトルを言い当てているんだよ」
「私が? うそ。だって、まだ知らないのに」
「本当だよ。気づいてない?」
全然、身に覚えがなかった。茫然としていると、彗が小さく笑った。
「澪。遅くなったけど、教えるよ。僕の、一番好きな絵は」
「待って」
私は、彗を止めた。まだ冷たさを残した春風が、私たちの服と髪を靡かせる。ミモザの花に覆われて見えなくなったはずの梢が、柔らかく触れ合う音がした。
「まだ、言わないで」
彗が、驚いた様子で私を見た。私は緊張したけれど、思い切って言った。
「いつか、私が当てるから」
今はまだ分からなくても、彗と一緒に日向を歩いていく時間が、私に答えを教えてくれるはずだ。そんな私の意思は、ちゃんと彗に伝わったようだ。「うん。分かった」と穏やかな声で答えた彗は、右手をゆっくりと私に差し出した。
「これからも、よろしく」
私も右手を差し出すと、一年前に絵筆を握れなくなった彗の右手と、新しい約束を交わした。クリムトが描いた恋人みたいに温度を分かち合ったまま、私はずっと伝えたかったことを囁いた。
「両親は、離婚しなくて済んだよ。私、短期大学にも行かせてもらえるんだ」
――離婚しないで、と。たったそれだけの言葉を伝えるだけで、本当にやめてもらえるなんて思わなかった。冷えていた家が温もりを取り戻したわけではないけれど、私は今、すっきりとした気持ちでここにいる。彗は、ふわりと顔をほころばせた。
「それは、よかった。学科は?」
「日本文学科。彗の受け売りかも。言葉が持つ意味や歴史を、もっと勉強したくなったから。彗は?」
「大学は、経済学部を選んだよ。腕は、今もリハビリを続けてる。今日は、これを澪に見せたかったんだ」
繋ぎ合っていた手を離した彗は、鞄からスケッチブックを取り出した。そして、いつかの文庫本のようにページを捲ると、左手で私に差し出した。
朝日のスポットライトが、白黒の風景画を照らし出す。日差しの柔らかなベール越しに、新しい絵と向き合った私は――息を呑んだ。
スケッチブックに描かれた絵は、あのときのミモザだった。午前四時の迷子だった頃の夜風が、花の匂いが、月明かりが、指切りの温度が、夜空の色を変える朝焼けが――昨日の出来事のように、胸に迫る。鉛筆で丹念に表現された濃淡が、モノクロの世界に魔法をかけて、鮮やかな色彩を咲かせていた。
「この絵は、左手で描いたんだ。僕の右手は、どんなにリハビリを続けても、もう以前のような絵は、描けないから。……でも。希望なら、ここに残っているから」
誇らしげに言った彗は、夢を引き継いだ左手を、慈しむように見下ろした。胸がいっぱいになった私は、視線を風景画に落として、大切な絵から受け取った『印象』という言の葉を、掠れた声に乗せることしかできなかった。
「夜明けの……ミモザ」
「……うん。いいね。それを、この絵の名前にしようかな」
彗は、得心した様子で頷いている。びっくりした私は、思わず訊ねた。
「絵のタイトル、決めてなかったの?」
「うん。澪に決めてほしかったから。あと、この絵はスケッチの一つだから、いずれは油彩画として完成させるよ。当分の間は、形にしないって決めてるけどね」
「どうして?」
「大切な絵だからね。この左手が、右手を超えるくらいの絵を描けるようになって、ちゃんと画家として自活できるようになってから、改めて向き合いたいんだ。それが、今の僕の夢だよ」
スケッチブックを鞄に仕舞った彗は、まるでさっきの言葉に従うように、改めて私と向き合うと、今日の青空みたいに晴れ晴れとした笑い方をした。
「澪、本当に難しいね。僕は、違う生き方もできる、なんて言ったけど、本当は諦めが悪かったみたいだ」
本当に、難しい――私は、その言葉を噛みしめる。あの夜と同じ台詞を、朝の光の中で聞けて、嬉しかった。涙ぐみそうになった私は、誤魔化すように囁いた。
「大学では、私以外の女の子のことも、名前で呼んでるの?」
「呼んでないよ。周りは自然にそうしているけど、僕は苦手みたいだ。そんな自分を曲げられないから、大学ではすっかり変人扱いされてるよ」
「彗は、最初から変な人だったよ」
なんだか可笑しくなって、私はくすりと笑ってしまった。
「ねえ、朝食がまだなら、どこかへ食べにいく?」
「それはいい考えだね。まだ早い時間だけど、どこなら開いてるかな」
「駅前のパン屋さんなら、もうすぐ開くよ」
肩を並べて、どちらからともなく歩き出す。
朝日が射す方角へ踏み出した私たちを、夜明けのミモザが見下ろしていた。
― 第1章 クリムトと午前四時の恋人 <了> ―