1-6 祈りを象る
夜の高校のフェンスの隣に、今夜も彗の姿を見つけられた。ダッフルコートに袖を通した右腕を、今日も腰の横に下ろしている。夜風に梢を揺らしたミモザの下で、私に気づいて振り返った彗は、軽く目を瞠ってから、いつも通りの挨拶をしてくれた。
「こんばんは。澪」
「こんばんは。彗」
私も、いつも通りの挨拶をした。けれど、いつもの私服姿ではなく、学校指定のピーコートと、制服の黒いブレザーと赤いチェック柄のスカート姿で、彗の隣に並んだ。
夢に現実を持ち込んだ私の行為を、彗は受け入れてくれたのだと思う。
なぜなら、彗の左手は――見覚えのある油彩画のキャンバスを、持っていたから。今日が『その日』になることを、彗も予感していたに違いなかった。
それからは、いつもよりも時間をかけて、二人でゆっくりと話をした。好きな小説とか、お気に入りの場所とか、ありふれた会話を特別な時間に変える魔法から、少しでも長く覚めないように。やがて日が昇り、朝が来ると知っていても、午前四時、私たちは、夜が明けるまでの間だけ、恋人同士のようになる。夜空が白み始めた頃、ミモザを見上げた彗は、目を細めた。
「もう少しで、満開だ」
黄色の花は、日に日に華やかさを増していた。彗と出逢った夜から、私たちは毎晩ミモザを見上げている。ぼんぼりのような花が身を寄せ合って咲いている姿が愛らしくて、私は温かい気持ちになったけれど、寂しさも感じていた。この花が満開になって、春の訪れを告げる前に、私たちの関係は、夜明けのように終わる。
もうすぐ私は、高校三年生。そして彗は、おそらく。
「澪。僕は、勉強が好きだって話したよね」
彗は、ミモザの花を見上げたまま言った。
「うん、話してくれた」
私も、ミモザの花を見上げたまま答えた。
「絵描きとしての僕は、若輩者で未熟だったと思うけれど、だからこそ被写体の持つ歴史や、名前の由来について、できる限り知りたいと思っていたんだ。だから、澪の名前の漢字についても、意味を調べてみたんだ」
「私の名前の、意味を……?」
「澪標の澪だって、君は僕に名乗ったね。『澪』の字は、さんずいに雨、令の字の組み合わせだ。さんずいは、水の流れ。雨は、空から降るもの。そして令は、人が神様にひざまずいて、お願いをする様子を表しているんだ。名づけは、ご両親?」
驚いた私は、やっとのことで頷いた。
「私の名前は、お父さんとお母さんが、二人で考えてつけてくれた」
私の答えを聞いた彗は、心残りを果たしたような、清々しい笑みを見せた。
「君は、愛されているよ。君だって、家族を愛しているんだ。澪は僕に、大学に行きたいと言ったね。それなら、父親についていくだけで解決できるんだ。でも、君は悩み続けた。それは君が、両親が離婚しないことを願っていたからだよ」
それが、私の本心。本当は気づいていたのに、直視できなかった寂しさの正体。だって、仕方ないと思う。午前四時の暗闇では、大切なことなんて何も見えない。
「人の祈りを象った、とても綺麗な名前だね」
神様に祈るような声で、彗は言った。私は、また泣きたくなる。かつて彗は、難しいねと私に言った。本当に、その通りだと思う。でも、私は、それに彗だって、本当は諦めたくないのだ。現実がどんなに厳しくても、まだ諦めたくなんてないのだ。
「私の名前が祈りなら、彗。あなたの名前は、希望だと思う」
「どうして?」
「彗星のスイで彗だって、あなたは私に名乗ったよ。人は、星に願いをかけるでしょう?」
彗は、意表を衝かれた顔をした。それから、何かを諦めるように笑った。
「今夜は月が眩しすぎて、それにもう夜も明けてしまうから、星は見えないよ」
寂しい台詞が、私の胸を締めつける。でも、彗は言葉を続けた。
「僕たちの頭上にあるのは、ミモザだけだ」
彗が、哀しい笑みを私に向けた。私は、ああ、これでおしまいなのだと悟った。
だけど、ミモザの花越しに降る月明かりが、私たちが見失っていた道標を、照らしてくれた気がしたから――私は、次の台詞を迷わなかった。
「彗。あなたが本当は誰なのか、私はもう知っているの。でも、これから答え合わせをする前に、彗と約束したいことがあるの」
「奇遇だね。僕も、同じ提案をしようと思っていたんだ」
彗の笑みから、ふっと寂しさが薄れた。私たちは似た者同士で、彗の答えを私も予感していたのに、願い事が叶った奇跡の実感が、目頭に不意打ちの熱を灯した。
「澪。それは、僕から言わせてくれる? 他にも、伝えたいことがあるから」
彗は、左手で持っていたキャンバスに、かつて絵筆を握っていた右手を添えた。教室の油彩画を眺める眼差しに、クリムトの姪の少女のような憂いが過る。
「僕は、この絵と向き合うことを恐れていたんだ。早朝の教室にイーゼルを立てて、右手で絵を描いていた頃には、右腕がこうなるなんて、思いもしなかったから。自分で表現した希望に、打ちのめされることを恐れて、逃げていたんだ。……だから、昨日。絵を引き取りに行けたことに、僕は自分でも驚いていたんだよ」
朝を待つ教室の絵画を、彗は両手で私に差し出した。月光に照らされた微笑みに、もう憂いの影は見えなかった。
「この絵と向き合えたのは、澪と出逢えたからだ。いつの間にか勇気づけられていたことも、画家の夢を諦めたくない自分に気づけたことも、この絵が今でも大切だって分かったことも……僕は、嬉しかったんだ。よかったら、受け取ってくれる? 澪に、持っていてほしいんだ」
私は、そろりと手を伸ばした。両手で受け取った油彩画からは、日向の教室の匂いがした。現実の香りだ。頬をひとしずくだけ滑り落ちた熱の軌跡を、私はやっぱり隠せない。困っていると、彗が右手をぎこちなく上げて、私の頬に触れた。涙を掬う指は骨ばっていて、ミモザの下で一緒に飲んだ紅茶よりも温かかった。
「こんな手でも、まだ役に立つことも、澪が教えてくれた」
目を細めた彗は、出逢ったときから変わらない穏やかさで、それでいて『散歩、日傘をさす女性』から受け取った『印象』のように、凛とした声音で、私に告げた。
「約束しよう。一年後、ミモザの花が満開になる頃に、互いの夢とか、将来とか、大切なことを諦めない自分になれたら、そのときは。今度は午前四時じゃなくて、夜が明ける頃に、ここでまた会おう」
もし、彗が言うような私たちになれたなら。午前四時には消えるはずの夢の続きを、今度は日が昇る世界で育んでいける。将来の夢なんて何もなかったのに、これからどんな自分になりたいか、真っ白なキャンバスに初めて理想を描けた気がした。
「うん……約束する」
私は、油彩画を片手で持つと、自由になった手の小指を、彗の右手の小指に絡めた。二人で見つめ合ってから、長くて短い夢を終わらせる言葉を、それぞれ唱えた。
「澪。僕の名前は相沢彗。この高校の三年生。もうすぐ卒業するよ」
「彗。私の名前は倉田澪。この高校の二年生。名字は、これから森口になるかも」
「うん。知っていたよ」
「私も」
「いつから?」
「昨日。美術室の前で、すれ違ったよね?」
「それなら、気づいたのは僕が先だ。澪と初めて会った日の放課後に、ミモザの木を見に来たときから、分かっていたよ」
「あのとき……フェンスのそばですれ違ったのは、彗だったの?」
彗は、返事の代わりに微笑むと、戻ってきた現実に則るように、私に言った。
「倉田さん。今さらだけど、家まで送るよ。夜道の一人歩きは危ないからね」
「本当に、今さらですよ。先輩」
藍色の空の果てに、淡い鴇色の光が灯っていく。もうすぐ朝を迎える世界の彼方へ、羽ばたいていく鳥を見つけた。私の滲んだ視界には、ミモザの黄色が拡がって、願いを乗せた流れ星みたいに輝いた。
こうして私たちは、夜明け前に別れたのだった。