最終話 夢が叶う日
置時計の秒針が、枕元で時を刻む。午前八時三十分。私は、ベッドから起き上がった。
忍び足で寝室を出て、厚手のコートに袖を通す。コートの下は、ラフなトップスにジーンズ姿。パジャマはとっくに着替えていた。今日は特別な一日だから、早くから目を覚ましていた。私が受け持っていた最後の仕事も、予定より早めに納品できた。
リビングを覗いた私は、まだ時間に猶予があることを確認すると、長い髪を櫛で軽く梳いてから、マフラーを首に巻きつけて、アパートを静かに抜け出した。六階まで上り下りする生活に、最初は音を上げていたけれど、今ではすっかり慣れたから、くすんだグリーンの螺旋階段を、軽い足取りで下りていく。
二月のパリは、日照時間が短くて、八時が近づく頃に日の出を迎えて、朝が来る。薄い水色の空を見上げた私は、乾いた冷気に包まれた街を歩いて、行きつけのブランジェリーのガラス扉を押し開けると、焼きたてのパンの香りが拡がる店に入って、お客さんたちの列に並んだ。
ほどなくして、レジの前に立った私が、店員の女性に「Bonjour」と挨拶すると、溌溂とした声で「Bonjour, que puis-je faire pour vous?(おはよう、何にしましょうか?)」と返ってくる。私も、打てば響くように「Une baguette s’il vous plaît(バゲットを一本ください)」と答えると、2ユーロコインを支払って、パリッとしたクラストに立派なクープが入ったパンを受け取った。「Merci, au revoir(ありがとう、さようなら)」と言ってブランジェリーを出た私は、ほかほかのバゲットを一口だけ食べたい気持ちを抑えながら、今度は急ぎ足でアパートに戻った。
螺旋階段を上がる前に、郵便受けをチェックすると、ハガキが一枚と、手紙が一通入っていた。ハガキに印刷された写真の中で、純白の装いの美男美女が、キラキラと眩しく笑っている。差出人の高嶺周・絢女の名前の下に、手書きの一言が添えられていた。
――『澪ちゃん。私、幸せになったよ』
絢女先輩も、夢を叶えたのだ。大学の学食で、ナポリタンを食べながら語り合った日を回想しながら、続いて手紙を確認した。今度の差出人も、日本人だ。
その場で封を開けて、本文に目を通すうちに、笑みが零れた。小学校の先生になった巴菜ちゃんの近況報告には、今も星加大祐くんの名前が頻繁に出ている。仕事帰りに飲みに行くことが多いという二人の恋が、いつか交差しても、しなくても、大事な友達の二人には、これからも毎日を笑顔で過ごしてほしい。螺旋階段を上がるうちに、今度はスマートフォンがメッセージを受信して、吹き抜けの空間に着信音がエコーした。
メールの差出人の名前は、綾木アリス。日本では、夕方に差し掛かる時刻のはずだ。本文を読んだ私は、目を瞬いた。
――『ミオ、ハナから聞いたわよ! おめでとう! こっちに戻ってくるときは、ぜひ連絡してね! ヤスヒコも、アマネも、アヤメも、みんな待ってるわよ!』
大好きになった人のことは、親しい間柄の人に、たくさん話したくなってしまう。どうやら私たちのことは、日本で知れ渡っているようだ。バゲットと郵便物と一緒に、くすぐったい気持ちも抱えた私は、螺旋階段を六階まで上がりきって、少しだけ乱れた呼吸を整えてから、私たちの家の扉を、そっと開けた。
さっきは閉まっていたカーテンが開いていて、空の水色にほんのりと染まった白い日差しが、暮らし始めて一年と半年ほどになるアトリエ兼リビングを、優しい光で満たしている。小ぶりで透明なシャンデリアが、澄んだ陽光に七色の色彩を与えていて、虹の欠片をアトリエじゅうに拡散した。日当たりのいい窓際にイーゼルを立てて、椅子に座った私の夫は、まだキャンバスに絵筆をのせていたから、安堵の息をそっと吐いた。
――今も、描いていると思っていた。
「おはよう、彗」
「おはよう、澪」
こざっぱりとしたシャツとニット、絵具まみれのエプロンを身に着けた彗は、私を振り返って微笑んだ。けれど、私が抱えたバゲットに気づくと、笑顔を少し曇らせた。
「パン屋なら、僕が行くって言ったのに」
「大丈夫だよ。今日は体調がいいから。ちゃんと身体も動かさないと」
「それなら、次は一緒に行こう。ここの階段は、今の澪にはきついから」
確かに私は、昨日まで家から動けなかった。私は、素直に「うん」と頷くと、テーブルにバゲットと郵便物を置いて、マフラーをほどいて、コートを脱いだ。
「高嶺さんと絢女先輩から、結婚報告のハガキが届いたよ。二人とも、タキシードとウエディングドレスが似合ってる」
「そっか。入籍は僕らが先だったけど、挙式は二人に先を越されたね」
「私たちが式を挙げるときには、来てもらえたらいいな」
その頃には、新しい家族も増えているはずだ。まだ膨らみが目立たないお腹に手を当てていると、そっと後ろから抱き寄せられて、彗の膝の上に座らされた。私は、きょとんと彗を見上げた。
「どうしたの?」
「澪の夢を、叶えようと思って。僕が夢を叶えるところを、一番近くで見たいと言っていたから」
「えっ、もう完成したの?」
「ううん、まだだよ」
彗は、私を器用に抱えたまま、パレットと絵筆を手に取って、目の前のキャンバスと向き合った。
「あと、ひと筆で完成だ」
油絵具の甘い匂いが、ふわっと香った。それなのに、黄色を乗せた絵筆がキャンバスを優しく撫でるだけで、少し粉っぽくて青い甘さに、魔法みたいに変わった気がした。
私たちの目の前には、薄明の世界が拡がっていた。薄紫と乳白色の海原に、灯台のように輝く白い星と、糸のように細い三日月が浮かんでいる。道標の星と月の船が揺蕩う水色に、散りゆく線香花火の最後の光を溶いたような紅が拡がり、爽やかな桃色に霞んでいた。約束の油彩画からは、未明の名残の匂いがして、午前四時の迷子だった頃の心が、大人になった私の心に蘇る。痛みを伴う温かさが、じんわりと胸に沁みていった。
夜明けを迎えた空の下で、グラウンドを囲うフェンスの角では、毎日の通学で見慣れた樹木が、枝葉を慎ましく伸ばしている。炒り卵のような黄色の花が、ふわふわと丸く寄り集まって咲いていた。柔らかそうな花びらの下、日の出の光に包み込まれた、その場所で――再会を果たした私と彗が、ミモザの花を見上げている。
「油彩画に自分を描いたのは、初めてだよ。大学生の頃の僕が『夜明けのミモザ』を描いていたら、たぶん自分を描くことは避けたと思う」
彗は、隣の椅子に絵筆とパレットを置いてから、面映ゆそうな声で言った。「どうして避けるの?」と訊いてみると、「照れるから」と端的な答えが返ってきた。
「じゃあ、どうして自分を描こうと思ったの?」
「澪を、描きたいと思ったから。でも、澪を一人にはしたくないから」
「……彗」
私は、彗を呼んだ。そして、彗の右腕の負担にならないように、身体を慎重によじってから、クリムトが『接吻』で描いた恋人みたいに、大好きな人に寄り添った。
「私を、見つけてくれて、ありがとう」
――夢が叶う日を迎えるまでに、さまざまなことがあった。大学を卒業した私は、翻訳を扱う仕事に就いた。どこでだって生きていける私になるために、外国語の会話力と筆記のスキルを磨き続けて、異国の文化と歴史を学んで、高嶺さんのような文芸翻訳にも携われるようになったのは、二年半が過ぎた頃だった。
そして、時を同じくして――彗が、日本のアトリエに帰ってきた。
――『待てなくなるのは、やっぱり僕が先だった』
画家としてフランスで独立した彗は、得意げな顔で言った。そして、まだ当面の間はフランスで絵画を学びたいという意思を私に伝えて、家族や友人たちへの挨拶回りを済ませると、私をフランスまで攫っていった。
「澪がいたから、叶えられた夢だよ」
彗は、私を抱きしめ返してから、右手をぎこちなく持ち上げて、私の頬に触れた。私の涙もろさは、あの別れの日から四年たっても治らない。泣き笑いの顔になった私に、彗も穏やかに微笑ってくれた。
「この絵を持って、日本のアトリエに帰ろう」
「うん」
私たちは、もうすぐ日本に帰国する。大切なアトリエに帰ったら、私たちが愛した花を、新しい家族にも見せたいから。そのまま日本に骨を埋めるのかもしれないし、いつかまたフランスで暮らす日が来るのかもしれない。先のことはまだ分からないけれど、大好きな人たちと一緒なら、どこにだって、新しい居場所を作れるはずだ。
「彗、そろそろ朝食にする? バゲットは、まだ温かいよ」
「そういえば、澪が高校を卒業したときも、二人でパン屋に行ったっけ」
「本当だ。懐かしいね」
ゆっくりと立ち上がった私たちは、完成したばかりの油彩画『夜明けのミモザ』を振り返る。そして、二人で笑い合ってから、日差しで明るいキッチンへ、肩を並べて歩き出した。
― 油彩画・夜明けのミモザ <了> ―




