4-17 愛してる
彗の出国前夜のアトリエは、暖房の設定温度がずいぶん高かった。ステンドグラスを嵌めた扉の前で、素肌に触れる温もりに驚いた私は、鉛筆をカッターナイフで削っている彗に、おずおずと訊ねた。
「彗は、暑くない? 大丈夫?」
「うん。画家の僕は、適当に調節するから平気だよ」
鉛筆を削り終えた彗は、シャツのボタンを二つ外して、腕まくりをした。
「ヌードデッサンは、モデルの体調を最優先させるから」
普段通りの声音で告げられた台詞が、私たちがこれから始める行為の意味を、否が応でも意識させた。とくとくと心臓の鼓動が高鳴って、素足はキッチンのそばで縫い留められたように動かない。湯上りの身体の熱も、ちっとも冷める気配がない。
彗は、私のそばまで歩いてくると、キッチンの灯りのみを残して、他の照明を全て落とした。窓から差し込む月明かりと、幽けき橙の輝きだけが、出窓の天井にぶら下がる星形のペンダントライトで反射して、アトリエの宇宙で輝く惑星になる。
「行こうか」
彗が、私の手を取った。私は、身体にバスタオルを巻いただけの心許ない格好で、いつも彗と寝起きしているクッション張りの出窓へ誘われながら、以前に彗と交わした言葉を、くらくらしながら振り返った。
十月の午前四時に、高校のフェンス沿いのミモザの下で、画家として生きる夢を再び諦めないと決めた彗は、私に一つの頼みごとをした。
――『フランスに発つ前に、澪の絵を描かせてほしいんだ』
彗が描きたいという私の絵は、今までのような生活のワンシーンを捉えたものではないことを、覚悟のこもった声が伝えていた。私も、覚悟はできていた。彗のモデルを引き受けた二月の夜から、いつかこんな日が訪れるような気がしていたから。
それでも、やっぱり怖気づいてしまったから、私が消え入りそうな声で『彗は、描いた絵を全部、秋口先生に見せているでしょう?』と確認すると、彗は真剣な顔で『その絵は、絶対に見せない』と言い切った。
――『僕だけのものにするから』
画家とモデルの関係は、恋愛関係に発展しやすいのだと、かつて彗が語った意味が、私にも分かった瞬間だった。甘い眩暈に決断を後押しされたから、私は彗のただ一人のモデルとして、ヌードデッサンを引き受けた。
彗は、私をクッション張りの出窓に座らせると、躊躇いがちに左手を伸ばして、バスタオルの合わせ目に触れた。でも、私は首を横に振って、彗の手を借りずに自分の意思で、バスタオルをほどいた。月光の青と、電灯の橙が、緩く溶け合う境界で、私を静かに見つめた彗は、一度だけ目を閉じて、囁いた。
「綺麗だ」
そして、目を開けたとき、私の恋人は画家に変わっていた。左腕で抱き寄せられて、出窓を背にして横向きに寝かされる間、普段よりも神経が研ぎ澄まされて、素肌に彗の服が当たる感触さえも、緊張で壊れそうな心を刺激した。今から私は、彗と肌を合わせるときよりも、彗に心を見られてしまう。
彗は、私の長い髪を左手で梳って、月明かりで青白く見える私の身体に、一房ずつ纏わせていたけれど――ふっと恋人の目に戻って、優しい声で言った。
「怖い?」
「……うん」
「いつでもやめるから、声を掛けて。今の僕が、一番恐れていることは、澪に嫌われることだから」
「ねえ、彗」
私は、小刻みに震える左手を、胸の前で持ち上げた。左手の薬指の輝きが、アトリエを照らす綺羅星の一つになる。
「指輪は、つけたままでもいい?」
「……うん。そのほうが、僕も嬉しい」
彗は、穏やかに微笑んだ。私の右手をゆっくりと掴んで、金色の輝きを灯した左手のもとまで導くと、そっと指を絡ませる。神様に祈りを捧げるような、私の名前を表す形が整うと、私もようやく笑みを返せて、手の震えも収まった。私から離れた彗は、イーゼルにスケッチブックを立てて、椅子に座り、鉛筆を構えた。
「十五分ごとに、十分の休憩を挟むよ。でも、疲れたら言って」
「分かった」
冴えた眼差しが、私の身体の隅々《すみずみ》にまで向けられた。けれど、もう怖くなかった。モデルの私が、画家の彗に、全てを見られてしまうように、画家の彗だって、モデルの私に、全てを見られてしまうのだと分かったから。
鉛筆の漆黒が、真っ白なスケッチブックを滑っていき、私を象っていく音だけが、アトリエの張り詰めた空気を撫でていく。きっと彗は、私と足並みを揃えることを優先して、私の心を知りたいという気持ちに、ずっと歯止めをかけていた。だから、彗がこうして、私の心に全力で迫ろうとしている時間が、怖いくらいに幸せで、切ないくらいに愛おしかった。
やがて、アトリエに射す月明かりの角度が変わって、春の夜風が出窓をカタカタと揺らしたとき、彗は、鉛筆をイーゼルに置いた。スケッチブックを眺めてから、私を出窓に誘ったときのように、静かに目を閉じている。
「これで、心残りはなくなったよ」
「私にも、見せて」
起き上がろうとしたけれど、ポーズを取り続けて固まった身体は、全然動いてくれなかった。出窓まで歩いてきた彗は、私の身体を毛布で包んで、サイドテーブル代わりの椅子に白湯のマグカップを置いてから、「だめだよ」と私に意地悪を言った。
「僕だけのものにするって、言ったからね」
「ひどい。私はモデルなのに」
「澪は、水分補給をして待ってて。僕もシャワーを浴びたら、戻ってくるから」
彗は、画材を素早く片付けると、リビングからスケッチブックを持ち去った。私を描いたデッサンは、このままスーツケースに入れられて、明日の朝に彗と共に、フランスへ旅立ってしまうのだろう。彗の瞳に映った私だけは、一緒に連れていってもらえるのだ。私は、時間を掛けて起き上がると、言いつけ通りに水分を摂って、彗が恋人の顔でここに戻ってくるときを待った。
それからは、いつかのような長い夜を過ごした。私は聞き分けがない子どもみたいなわがままをたくさん言って、彗も私を決して離さなくて、この可惜夜が永遠になってほしいのに、いつか夜が明けることを、私も、彗も、知っていて――朝を迎えた私たちは、二人掛けソファで朝食を取って、身支度を整えてから、玄関で向き合った。
「いってらっしゃい、彗」
「いってきます、澪」
そう声を掛け合ったけれど、私たちは動かなかった。窓から入る白い日差しは、漆のような艶のある木の廊下に、黒い影を落としている。モノトーンに沈む玄関で、上がり框に立つ私と、三和土に立つ彗は、見つめ合った。
彗と二人で話し合って、見送りは家で済ませると決めていた。私が空港まで彗に付き添ってしまったら、私は彗を引き留めたくなってしまうし、彗は私を攫いたくなってしまう。だから、今から私たちは、家を出るときにも、家に帰るときにも、必ず通る大切な場所で、大切な恋人とさよならをする。
「澪。身体には、気をつけて」
黒いコートを着た彗の隣には、大きなスーツケースが並んでいた。本当に、行ってしまうのだ。分かっているのに、覚悟だってしていたのに、抑えきれない涙が溢れて、彗の微笑に霞が掛かる。「彗こそ……」と続けた言葉の先を、続けられない。
笑顔で、送り出したかったのに。私は、彗と、離れたくない。
「私は……彗に、強い人だって言ってもらったけど、本当はまだ、全然強くないってこと、分かってるの」
頬を伝った涙が、ワンピースの胸元に落ちた。両手で顔を覆った私は、ジョージ・フレデリック・ワッツが『希望』で描いた盲目の少女みたいに、暗闇に閉ざされた世界の中で、彗の顔を見ないまま、本当の気持ちを声に乗せた。
「行かないで」
「うん。僕も、行きたくない」
静謐な玄関の空気に、凪いだ声が染み渡る。私は、両手を下ろして、両目を開けて、彗を見た。玄関の白い光を背に受けた彗の顔は、逆光で影に包まれているはずなのに、笑みだっていつもと変わらないはずなのに、一筋だけ頬に零れた光の軌跡を、私は見た。
「ずっと、ここにいたいよ」
彗の右手が、硬い動きで持ち上がり、私の頬に触れた。温かい手のひらが、涙をぎこちなく掬っていく。私も、朝日が煌めく指輪をつけた左手を、彗の右手に重ねた。
「待ってるから」
「迎えに行くから」
「待てなくなったら、追いかけるから」
「待てなくなるのは、僕が先だ」
油絵具の甘い匂いが、ふっと近づく。玄関を照らす陽光が、彗の身体で遮られた。光と影の間に立って、唇を重ねた私たちは、クリムトが『接吻』で描いた恋人みたいに抱き合うと、身体を離して、笑い合った。
いってらっしゃいも、いってきますも、もう二人で伝え合った。でも、さよならだけは言葉の形にしたくないから、私たちが今まで唯一、互いに掛け合ったことがない言葉を、お別れの言葉の代わりにした。
「愛してる、彗」
「愛してる、澪」
彗は、今日の日差しみたいな柔らかさで、微笑った。そして、スーツケースの持ち手を握って、私に背中を向けた。洋風扉に左手を掛けて、白い朝日が溢れた外へ出ていく。開いた扉の隙間が狭まるにつれて、玄関に伸びる光の筋も細くなり、やがて扉が閉まって、光も消えた。
一人きりになった私は、油絵具の甘い残り香が消えた頃に、涙が乾いた顔を上げて、靴を履いて、外に出た。
さあっ――と、春の風が吹き抜けて、私の長い髪を揺らしていく。私と彗が、夜明けの世界へ最初の一歩を踏み出したあの日のように、空は青く澄み渡っていた。
モネの庭に佇むミモザの木は、まだ黄色の花が咲き誇っていた。孤独を厭うように寄り集まった丸い花は、地面に黄色を散らし始めていて、白いガーデンテーブルにも積もっている。
出会いと別れの季節を呼ぶ花の元へ、私は近づいて、椅子に座った。一年前の午前四時に、ここで一緒にホットチョコレートを飲んだ人は、もういない。
目を閉じると、瞼の裏に、たくさんの思い出が浮かび上がった。午前四時の暗闇から、私を見つけてくれたときの声。左手だけで器用に本のページを捲るときの、憂いと慈しみがこもった眼差し。アトリエのキッチンで一緒に作った、ミモザサラダとチキンスープ。初めてやきもちを妬いてくれた夏に、二人で飲んだカクテル。それから、諦めかけた夢を再び繋ぎ止めたときの、居場所を見つけた子どもみたいな、優しい笑顔――瞼を開けた私は、顔を上げた。
今日は、アリスの英会話教室の最終日だ。そのあとは『フーロン・デリ』のアルバイトも控えているから、フランス語の予習と復習は、午前中に済ませておこう。
椅子から立ち上がった私は、ガーデンテーブルに積もったミモザの花を、そっと左手で撫でてから、今日から一人で暮らす家の中へ、足早に戻っていった。
― 第4章 たとえ世界から希望が消えても <了> ―




