4-16 別れの挨拶
数か月ぶりに訪れた綾木家のリビングは、ダイニングテーブルに所狭しと並べられたご馳走で、極彩色に輝いて見えた。
「ケイ、ミオ、どんどん食べてね。今日の主役が遠慮しちゃだめよ?」
「アリスさん、ありがとうございます」
「このレバーパテ、美味しいです。アリス、また作り方を訊いてもいいですか?」
「もちろん。ミオは、いいお嫁さんになるわね」
にこにこしたアリスは、金髪を緩く一つに束ねていて、毛糸のセーターが暖かそうだ。二月の下旬に差し掛かり、寒さが和らぎ始めてもいい頃なのに、昨日は雪が降っていた。春の訪れを阻むような天候が、私の寂しさに寄り添ってくれた気がしたから、窓の向こうに拡がる昼下がりの青空を、私は穏やかな気持ちで眺めていた。
そのとき、向かいの席でお寿司をつまんでいた巴菜ちゃんが「お嫁さんになら、もうなってるようなものだよね? 澪ちゃん」と言って笑ったから、私は返事に困ってしまった。隣の席に座る彗は、私に助け舟を出さないで、飄々《ひょうひょう》とした笑みを返してくる。さらに、マントルピースの前で高嶺周さんとワインを飲んでいた絢女先輩が、私たちの席に近づくと、にんまりとチェシャ猫みたいな笑い方をした。
「澪ちゃん、指輪を見せてくれる?」
「絢女先輩は、一緒にここに来る途中で、見てるのに……」
もじもじしていると、高嶺さんまで「それなら、僕に見せてくれるかな」と爽やかに言って、私にお祝いを伝えてくれた。
「婚約、おめでとう」
「ありがとうございます……」
観念した私は、そろりと左手をみんなの前に差し出した。薬指にはめた婚約指輪は、細くてシックな金色で、台座には小粒のダイヤモンドが光っている。なんだか自分の指ではないみたいで、手を見下ろすたびにドキドキしている。
「いいなあ、素敵!」
巴菜ちゃんが、華やいだ声を上げた。そして、私たちがいるダイニングテーブルではなく、窓際のローテーブルに取り皿を置いた星加くんに「大祐は見ないの?」と声を掛けて、心の傷口に塩を塗っていた。頭を抱えたくなった私が「巴菜ちゃん……」と思わず声を上げると、やさぐれた顔で振り返った星加くんが「巴菜はうるせえよ」と恒例の文句を言ったから、隣で自棄酒に付き合っていた綾木泰彦さんが、可笑しそうに「まあまあ」と合いの手を入れて、眼鏡の奥で目を細めていた。
――彗のフランス留学が、三週間後に迫った今日。綾木夫妻が企画した送別会に、私たちは招待されていた。料理は各自で持ち寄ることにして、高嶺さんはお寿司、絢女先輩と私と彗は『フーロン・デリ』の中華料理、星加くんと巴菜ちゃんはピザとお酒を用意した。あとは、アリスがレバーパテとローストビーフ、綾木さんはバゲットと温野菜に、三種類のディップソースを添えてくれた。マスカルポーネチーズと明太子、アンチョビとマヨネーズ、アボカドとブラックペッパーのディップソースは、どれも彩りが鮮やかで、彗が興味深そうに見つめていた。
「まさか、友達が大学在学中に婚約するなんて……澪ちゃん、早すぎるよ」
巴菜ちゃんは、オーバーリアクションで眩しそうな顔をしている。「えっと……自分でもびっくりしてる」と答えた私は、今までのことを回想した。
――壱河一哉さんの訃報が発端となって、彗が画家として生きる夢を諦めかけた十月の一件を経てから、私と彗はさらに忙しくなった。
まず、故郷から私と一緒にアパートに戻った彗は、連泊の荷物をスーツケースにまとめると、久しぶりにアトリエに帰っていった。その後は、まず秋口先生に謝り、次に絢女先輩に謝り、リクルートスーツ姿を見せたことで怖がらせた人たちへの謝罪行脚も終えてから、拍子抜けするくらいの潔さで、絵画に没頭する日々に戻っていった。さらに、私の両親に同棲の許可を得るために、日を改めて二人で再び故郷に向かった。
私の両親は、意外にも、私と彗がアトリエで暮らすことを認めてくれた。ただし、彗が海外で過ごす間、私が彗との口約束だけを頼りに「ほったらかし」にされることだけは、看過できないと言って反対した。彗は、目から鱗が落ちたような顔をしてから、私の両親の考えを聞き入れた。たぶん私も、彗と同じ顔をしていたと思う。両親からは『そういうことも、ちゃんと考えなさい』と叱られたので、もう彗のことを変な人だとは言えないのかもしれない。
そのあとは、昨年のうちに慌ただしく両家顔合わせを済ませて、私のアパートを引き払い、彗のアトリエに引っ越して――彗は、私に指輪を贈ってくれた。午前四時の恋人だった人は、私の周りの人たちから彼氏と呼ばれる人になって、今は婚約者になっている。絆にはたくさんの名前があることを、彗は私に教えてくれた。
「ケイ、やるじゃない。画家とはいえ、今はまだ学生なのに、思い切ったわね」
アリスは、彗の左腕を肘でつついた。高嶺さんも「先を越されちゃったな」と言って相好を崩したから、アリスは堂々と「ねえ、アヤメ。アマネとはどうなのよ?」と絢女先輩に訊ねたけれど、絢女先輩もさらりと笑顔で「さあ、どうでしょうね?」と返事をして、みんなで和気藹々《わきあいあい》と話している。私は、こっそりと巴菜ちゃんに囁いた。
「私にお金を使うよりも、留学中の生活費に充ててほしいって、伝えたんだけど……絵のお仕事で稼いだお金で、プレゼントしてくれたの」
彗にとって大切な時期の買い物だから、今もまだ気が引けているけれど、約束が形を得た輝きを見ていると、心がふわふわと浮き立った。彗は、私の指に婚約指輪をはめたときは、誇らしげな顔をしたけれど、アリスの家に来る途中で、絢女先輩に冷やかされたときには、真顔で『もっと早く、こうするべきだった』と語ったから、私を大いにたじろがせた。私の話を聞いた巴菜ちゃんは、悪戯っぽく囁き返した。
「相沢先輩って、大祐の一件が、よっぽどストレスだったんじゃない?」
「ストレスって……そうかも。最初は気づけなかったから、意外だった」
「あたしは、すっごく共感できるよ? 日本に残していく恋人に、悪い虫が寄ってきたらって考えたら、心配で帰国したくなっちゃうよ。ま、恋人がいるって知っていても、寄ってくるときは寄ってくるんだけどね!」
「巴菜はうるせえよ……」
星加くんは、さっきから気まずそうだ。告白して振られた相手が、ホームパーティーに二人も同席しているのだから、当然だ。でも、アリスが巴菜ちゃんに『ダイスケにも会ってみたいから、連れてきて!』と言ってくれたことを差し引いても、星加くんが彗を送り出そうとしてくれたことが、私は嬉しかったから「巴菜ちゃん、一緒に行こう」と声を掛けて、星加くんと綾木さんがいるソファに移動した。
「星加くん。今日は来てくれて嬉しかったよ」
「うん。相沢先輩には、迷惑かけたし。それに、ほとんど部外者みたいな俺まで、綾木さんたちが招いてくださったし。友達の婚約祝いを兼ねてるパーティーなら、俺も祝いたかったから。倉田さん、おめでとう」
「……ありがとう」
「大祐も、向こうのテーブルで食べればいいのに。速水先輩と顔を合わせづらいからって、付き合わされてる綾木さんが可哀想でしょ?」
「いいんだよ、西村さん。こっちはこっちで、楽しくやってるから。そうだ、倉田さん。高嶺くんの会社のインターンシップはどうだった?」
「はい。すごく貴重な体験をさせていただきました。私の力不足を感じる場面が多かったので、これからも勉強に励んでいきたいと思います」
「収穫があったなら、高嶺くんも喜ぶと思うよ。アリスの英会話教室を辞めたあとも、友人として仕事の悩みを聞くことならできるから、気兼ねせずに僕らを頼ってね」
「ありがとうございます。心強いです」
私が微笑むと、ダイニングテーブルのほうから「ケイは、いつ帰国するの?」とアリスが訊ねる声が聞こえた。振り返ると、彗は烏龍茶のグラスを手にして「二年後を予定しています」と答えてから、ちょっと困ったように眉を下げた。
「もっと短期で留学を終えるかもしれませんし、もっと長期で滞在することになるかもしれません。秋口先生が紹介してくださった画家のもとで、僕がどれだけのことを身につけられるか次第ですね」
「でも、年末年始には帰ってくるんでしょ?」
「それも……分かりません。今のところは、途中で帰国を挟むよりも、できるだけ早く技術を習得して、澪と一緒に暮らす段取りを整えたいと思っています」
「そう……寂しくなるわね」
アリスが、しんみりと言った。巴菜ちゃんが、私の手を握ってくれた。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。ずっと、覚悟してきたことだから」
「……あのさ。俺も、巴菜も、話なら聞けるから」
「うん……ありがとう」
きゅっと唇を噛んでから、私はみんなに笑った。そのとき、彗に「澪」と呼ばれたから、時間なのだと気づいて、立ち上がった。彗も席を立っていて、私の隣に歩いてくると、一同をぐるりと見回して、別れの言葉を口にした。
「皆さん。今日は、僕たちのために送別会を開いてくださり、ありがとうございました。フランスに発つ前に、素晴らしい思い出を作ることができました。帰国したときには、澪と一緒に、必ず挨拶に伺います」
「早く帰って来なさいよ」
絢女先輩が、肩を竦めて言った。高嶺さんが「今から土産話が楽しみだね」と言って微笑むと、綾木さんが「そのときは、僕も話にまぜてほしいな」と口を挟んで、巴菜ちゃんが「澪ちゃんは可愛いから、指輪の力を過信しないほうがいいですよ?」と爆弾発言を放ったから、星加くんが「俺までダメージを受けるからやめろ……」と呻いて、アリスに大笑いされていた。彗は、巴菜ちゃんの言葉しか頭に残っていないような顔をしたけれど、気を取り直した声で言った。
「それでは、僕と澪は、そろそろ失礼させていただきます」
「主役が帰っちゃうのぉ? 寂しいじゃない、ケイ。もっといればいいのに」
「アリス、二人を困らせてはいけないよ。皆さんが全員揃う休日は、今日しかなかったんだから、仕方ないさ。玄関まで送るよ」
苦笑した綾木さんも、ソファから立ち上がった。全員が席を立とうとしたので、彗が「お見送りは、ここまでで大丈夫です。本当に、ありがとうございました」と礼を言った。私も彗と一緒に頭を下げて、みんなに手を振られてリビングを出ると、綾木さんとアリスだけが、私と彗に付き添った。
玄関を通ったときに、淡い薄紫色が目を引いて、私は壁を振り返る。
金色の額縁に収まった油彩画には、クリーム色の外壁を持つコケティッシュな家と、塀に伝う満開の藤の花と、家の前で立ち話をしている男女の姿が描かれていた。幸せのお裾分けを受け取った私は、彗と一緒に次の目的地を目指して、外に出た。
電車を乗り継いで、徒歩と合わせて二時間半かけて故郷に戻ると、約束の時間が迫っていた。私と彗は、自然と早足で、桜並木の通学路を進んでいく。
「山吹先生と会うのは、高校を卒業して以来だよ」
「先生、全然変わってなかったよ。前に高校に行ったときは、私も校舎を見て回れなかったから、今日は楽しみにしてたんだ」
高校の校門前には、待ち合わせの時間までに到着した。息を弾ませた私と彗は、示し合わせたみたいに見つめ合うと、少しだけ寄り道した。校門を素通りして、下校している在校生たちの疎らな流れに逆らって、フェンスの角まで進んでいく。
――仲間外れのミモザは、満開だった。シャンパーニュ・ア・ロランジュみたいなオレンジ色を帯びた黄色は、間もなく午後四時を迎える日差しを受けて、キラキラと眩く光っている。私と彗は、ミモザの木の下に立った。
「彗がフランスに行く前に、ここに来られてよかった」
「うん」
頷いた彗の横顔も、日差しに照らされて明るかった。ミモザと同じ色の光に包まれた私たちは、校舎から出てきた山吹先生の姿を見つけて、手を振った。梢が落とす影から足を一歩踏み出して、二人でミモザの木の下から離れていく。
私たちは、きっともう、仲間外れのミモザのもとへ、午前四時に来ることはないだろう。その理由は、高校が廃校になることとは、関係なくて――彗が一年前に言ったように、二人の居場所は、どこにだって作れるから。




