4-13 彗の一番好きな絵
二階の突き当りの部屋までは、彗のお母さんが案内してくれた。
「ここが、彗の部屋よ。澪さんを迎えに行く前に、できる範囲の掃除はしたけれど、十分ではないと思うの。ごめんなさいね」
彗のお母さんは、少し困ったような笑顔で前置きしてから、扉を開けた。「いえ、とんでもありません……」と返事をした私は、室内を見てびっくりした。
六畳ほどの洋室は、絵画で溢れ返っていた。本棚にはスケッチブックがぎっしりと押し込まれていて、入りきらないものは床に積まれていたけれど、いくつかは派手に雪崩れている。壁に立てかけられたキャンバスも、主がいないベッド付近まで占領していて、生活の領域を狭めていた。彗のお父さんが、この部屋を物置だと評した理由がよく分かる。圧倒されている私の隣で、彗のお母さんが苦笑した。
「彗は、秋口先生が紹介してくださった家に移る前は、狭いアパートに住んでいたから、描き上げた絵を保管する場所がなかったの。帰省のたびに我が家に持ってくるものだから、こんなことになってしまって。びっくりしたでしょう?」
「はい……でも、アトリエと雰囲気が似ています」
「向こうでも、たくさんの絵を描いているのね」
彗のお母さんは、ヘレーネにそっくりな眼差しで、私に優しく微笑みかけた。
「私たちは一階にいるから、何かあれば声を掛けてね」
「分かりました。ありがとうございます」
廊下に出ていく彗のお母さんを見送ってから、私は部屋の中央まで歩を進めた。窓から射し込む橙の光が、室内に舞う埃の粒子を煌めかせる。油絵具の甘い匂いが、この部屋にも満ちていた。もうずっと前から、私の生活の一部になった匂い。高校三年生の冬まで、ここで過ごした彗の、生活の匂い。
何から手をつけたらいいのか分からなくて、私は床のスケッチブックを一冊拾って、ページを開いた。とたんに、春風を頬に感じた気がした。鉛筆で描かれた桜並木の隅には、日付が小さく記載されている。――彗が、高校一年生のときの絵だ。
ページを捲って、季節を巡った。彗が、高校一年生の六月。雨の日の水溜まりに、校舎が逆さまに映っている。彗が、高校一年生の八月。線香花火が、儚い焔を散らしていた。彗が、高校一年生の十一月。通学路の落ち葉が、風に遊ばれて渦を作る。彗が、高校一年生の二月。ページを捲る私の手が、止まった。
仲間外れのミモザの木が、梢を風に揺らしていた。ふわふわと寄り集まって咲く丸い花は、花期が終わるまで描かれていた。最後のページまで鑑賞した私は、続きのスケッチブックを捜した。
高校二年生になった彗の絵は、線の伸びやかさに磨きをかけていた。描く対象をスケッチブックの真白に顕現させて、命を吹き込んでいく喜びが、タッチに生き生きと表れている。彗の瞳に映った美しい世界を、私は絵を通して追いかけた。
そして、彗が高校三年生の秋に――絵が、急に途切れた。捲ったページの先は真っ白で、美しい世界が終わった意味を、私は悟った。この季節に、彗は。
でも、私の足元には、まだスケッチブックが積まれている。次のスケッチブックを、私は拾い上げた。ひと呼吸を置いてから、ページを開いて、息が止まる。
その絵は、何が描かれているのか分からなかった。線がひどく揺れていて、筆致も安定していない。弱い筆圧で薄くのたうったかと思いきや、過剰な強さで紙を削って、対象の輪郭を壊している。時間を掛けて鑑賞するうちに、描かれているのは高校の校舎だということを、懸命に引かれた線の数々が教えてくれた。記された日付は、彗が高校三年生の三月――私の目から、ぽろっと涙が零れていた。
――『約束しよう。一年後、ミモザの花が満開になる頃に、互いの夢とか、将来とか、大切なことを諦めない自分になれたら、そのときは。今度は午前四時じゃなくて、夜が明ける頃に、ここでまた会おう』
高校三年生の彗が、二月の夜明け前に、私に掛けた言葉を思い出す。彗が、あの約束を守るために、一人でどれだけ藻掻いたのか、痛ましい軌跡が伝えてくれた。
次のページも、最初は何が描かれているのか分からなかった。次第に、タンポポの花だと気づいた。世界の形を鮮明に紡いできた線は、今では足元で咲く野花さえも象れない。初めて絵を描いた子どものようなデッサンは、もどかしさに惑うように、揺れる感情を律するように、線の強弱を不規則に変えた。
――『あの頃の僕は、まだここに引っ越す前で、左手で絵を描くことが楽しくなって、がむしゃらに打ち込むようになって……自分の生活そっちのけだった』
昼下がりのアトリエで、ミモザサラダを作った彗は、左手で絵を描くことが楽しくなったと言って、笑っていた。でも、苦労しなかったわけじゃない。利き腕とは逆の手で、今まで以上に絵を極めていくということが、平坦な道のりなわけがない。
次のスケッチブックも、彗の線は揺れていた。一日に描き上げる枚数は、高校生の頃を遙かに凌駕した。描く対象と向き合い、鉛筆を握り、紙に線を引く工程が、何度も、何枚も、気が遠くなるほど繰り返されて、白と黒だけで構成されていたデッサンに、茶色がこすれたような痕がつき始めた。
――血だ。きっと、酷使し続けた左手の皮が、破れてしまった。文字通り血が滲むような努力の痕は、風景画を数ページにわたって汚した後に、ぱたりと消えた。出血が酷くなったのか、複数のページがまとめて千切り取られていた。
――もう、やめて。床に両膝をついた私は、熱い涙を溜めた目を、ぎゅっと閉じた。でも、彗がやめなかったから、私たちは夜明けの世界で再会できた。頬を滑り落ちていく涙を、手の甲で拭って、両目を開けた。やめないで。彗。次のスケッチブックを手に取って、彗が選んだ茨の道を、彗の目線を通して、一緒に進む。
いくつものモノクロの世界を、数えきれないほど渡り歩いていくうちに――線が、次第に揺れなくなった。表現にもメリハリが生まれて、誰にも翻弄されない力強さが戻ってくる。壊れていた輪郭が整って、世界をもう一度美しく象った。
最後に開いたスケッチブックには、仲間外れのミモザの木が、彗が高校生の頃のデッサンよりも、繊細な慈しみに溢れた筆致で描かれていた。大切な人の挫折と再生の記録が積もった部屋で、声を殺して泣いた私は、ミモザの絵を抱きしめた。日差しで暖かい部屋の空気が、涙を乾かしてくれるまで、そうしていた。
彗の両親が、私をこの部屋に連れてきてくれて、本当によかった。お礼を言うために立ち上がると、何気なく窓辺を振り返って、ふと気づいた。
散らかった部屋の中で、机の上だけが綺麗に片付けられていて、一冊の画集が置かれている。画集を眺める彗の幻が見えた気がして、私は机に近づくと、日差しを浴びて淡く輝く表紙に触れて、ページを捲った。
画集には、たくさんの名画が載っていた。ゴッホの『ひまわり』と『星月夜』についての記載も見つけたから、解説の文章を読んだ私は、はっとした。
ゴッホは、夏に彗から話を聞いたように、フランスのアトリエでポール・ゴーギャンと共同生活を送った時期があるけれど、出身国はオランダだ。思い立って『ヘレーネ・クリムトの肖像』のグスタフ・クリムトについても調べてみると、やはりだった。クリムトはウィーン出身で、フランスの芸術家ではなかった。
彗が、私に解説した最初の油彩画は、クロード・モネの『印象・日の出』だ。モネの絵が載ったページを捜すと、妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』が目に留まった。カミーユが、先日の秋口先生のように携えた扇子は、たったいま気づいたけれど、青、白、赤というフランスの国旗の色で塗られていた。
――私は、フランスという国に拘り過ぎていたのかもしれない。彗から教わった印象派は、フランス発祥の芸術運動で、彗自身もフランスに発とうとしている。でも、だからといって、彗の一番好きな絵が、フランスの画家のものとは限らない。
私は、世界中の芸術家が残した絵の中から、たった一枚を見つけなくてはならないのだ。途方に暮れた迷子みたいな気持ちで、画集のページを捲ったときだった。その油彩画と、私が出逢ったのは。
――暗い闇に包まれた絵の中で、惑星のような球体に座った少女が、傷んだ竪琴に両手を添えて、身体を預けるように寄り掛かっていた。
少女の頭には、包帯のような白い布が巻かれていて、両目は硬く塞がれている。視力を、失っているのだろうか。竪琴も、弦がほとんど切れていて、たった一本だけしか残っていない。その一本が奏でる幽けき音色に、少女は耳を澄ませていた。
画題を見た私は、目を見開いた。夜明けのミモザの下で、朝を迎えた世界を歩き出したときに、彗がくれた一つのヒントが、私を答えまで導いた。
――『僕自身が答える前に、もう澪がタイトルを言い当てているんだよ』
間違いない。やっと、分かった。
彗の一番好きな絵が、分かった。




