4-11 山吹先生
「澪、もう行くの?」
「うん。お昼ごはん、ありがとう」
リビングを出る前に、私は母を振り返った。
「お母さん。お父さんが帰ってきたら、二人に話したいことがあるの」
ここに帰ってきたのは、彗のためだけれど、両親にはそろそろ打ち明けるべきだと思っていた。私には、フランスに発つ予定の恋人がいることを。
台所で珈琲を淹れていた母は、ぎくりと動きを止めた。――まただ。早く誰かに叱られることを待っているような表情は、アリスの家でバーベキューを楽しんだ夏に、星加くんのことで思い悩んでいた巴菜ちゃんの顔にそっくりで、真実を象るパズルのピースが、心の中でパチンとまた一つ嵌まっていく。不信感を覚えた私は、もう一歩だけ踏み込んだ言葉で、母に揺さぶりをかけてみた。
「お母さん。私、付き合ってる人がいるの」
「……そう」
母は、私と目を合わさなかった。珈琲に牛乳を注いで、小さじ二杯の砂糖を入れて、スプーンでぐるぐると混ぜている。異様なまでに淡白なリアクションが、新たな情報のピースを授けてくれた。――この反応は、私が星加くんに告白されたときと同じだ。当時の私が『彼氏がいる』と返事をすると、星加くんは『知ってるよ』と言い返した。あのときの星加くんと、今の母が重なった。
「……いってきます」
私は、踵を返して家を出た。額縁のことも訊きたかったけれど、今は控えた。手持ちの情報のピースが少ないうちは、母は質問に答えてくれない気がしたのだ。それに、さっき電話で取りつけた約束の時間も迫っていた。
高校の通学路の坂道は、雲一つない青空と、桜並木の紅葉の対比が鮮やかだ。でも、ひとけがほとんどない所為か、うら寂しい空気が流れている。高校の校舎が見えてくると、温かい懐かしさが胸に萌した。私は腕時計を確認すると、校門の前を素通りして、フェンスに沿って歩道を進んだ。
そして、桜並木の終わりであり、フェンスの曲り角に位置する場所で――桜の木に交じった仲間外れのミモザの木と、再会を果たした。
ささやかな葉音を奏でる梢は、黄色の花をつけていない。廃校の知らせを聞いたときよりも、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
この木の下に、私が再び立つときは、豆電球みたいに輝く丸い花が、ふわふわと柔らかく咲いていて、隣には彗もいるのだと思っていた。一人で枝葉を見上げていると、横合いから「倉田さん?」と呼ぶ声がした。
振り向くと、壮年の女性がそばにいた。品のいいブラウスとスカート姿で、黒髪は巴菜ちゃんを彷彿とさせるお団子に結っている。私は顔をほころばせると、大切な恩師に挨拶した。
「山吹先生。こんにちは。お久しぶりです」
「こんにちは。グラウンドからフェンス越しに倉田さんが見えたから、迎えに来ちゃった。本当に久しぶりね」
「突然お邪魔して、すみません。山吹先生が、今もここで教鞭を取られていて、ホッとしました」
「すっかり大人っぽくなって、綺麗になったわねえ。先生のことを覚えていてくれて、嬉しいわ」
山吹先生は、目尻に皺を刻んで微笑んだ。笑みと物腰が柔らかくて、生徒たちに好かれている美術教諭は――私に、彗の絵を見せてくれた人だ。彗のことを、天才ではなく努力家だと語った山吹先生なら、きっと私が知らない彗を知っている。
「最近は、廃校の知らせを聞いた卒業生たちが、母校との別れを惜しんで、今日の倉田さんみたいに電話を掛けてくれるの。在校生は今も勉強中だから、本当は放課後まで待ってねってお願いしてるんだけど、今回は特別よ」
「恐れ入ります。皆さんのお邪魔にならないようにします」
「大丈夫よ。倉田さんは、他の卒業生たちとは、事情が違うみたいだし」
校舎の昇降口で、来客用のスリッパに履き替えた私は、山吹先生の先導で、三階の美術室に向かった。明るい廊下は、日差しを蓄えているような甘い匂いがして、彗のアトリエの匂いに少し似ている。五時間目の授業中なので、チョークで黒板を叩く音が、あちこちの教室から聞こえてきた。
「高校は……いつ頃、取り壊しになるんですか」
「工事の着工時期は、私たちにも知らされていないの。だいぶ先になると思うから、しばらくは校舎が残るんじゃないかしら。寂しいけれど、生徒数も年々減っていたもの。時代の流れかもしれないわね」
「あの……高校のフェンス沿いの桜の木は、どうなるんでしょうか」
「そのままになると思うけれど、正確なことは分からないわね。高校がなくなったあとで、どんな施設ができるかによって、他所へ移す可能性もありそうね」
ということは――あのミモザも。唇を噛みしめた私は、頭を振った。感傷に浸るのは、山吹先生と話し終えてからだ。
久しぶりに訪れた美術室は、以前よりも広く感じられた。理由は、生徒の作品の展示が減ったからだ。がらんとした棚の上は、ひび割れた石膏像たちが占拠していて、高校を卒業して久しい私に、胡乱な目を向けている。カーテンの隙間から射す陽光のスポットライトだけが、昔から変わらず暖かかった。
「山吹先生。今日は時間を割いてくださり、ありがとうございます」
「六時間目は授業があるけど、今なら平気よ。でも、まずは先生から質問させてもらおうかな。倉田さんは、どうして相沢くんのことを調べているの?」
「実は……山吹先生。私、相沢先輩と、お付き合いをしているんです」
彗を先輩と呼んだのは、高校二年生の冬以来だ。山吹先生が、頬を両手で押さえて「あらあら、まあまあ」と瞳を輝かせて言ったから、私は少し照れてしまった。
「そうだったのね。ふふ、でも納得しちゃった。相沢くんと倉田さんは、雰囲気が似ていたもの。二人とも、相沢くんが油彩画に描き出した情緒のような、夜が明けたら消えてしまいそうな儚さがあって、遠い所へ行ってしまう前に、絵の形でキャンバスに描き残したくなるような、不思議な空気を持っていたから」
夜が明けたら――山吹先生の感性は、私をどきりとさせた。抽象的でありながら、本質を鋭く見抜く画家の目を、彗と秋口先生だけでなく、山吹先生も持っている。私の周りには、芸術を愛する人がたくさんいる。
「倉田さん。相沢くんと交際しているのに、本人に質問できない事情でもあるの?」
「はい。……山吹先生。壱河一哉さん、という方を、ご存知ですか?」
山吹先生の顔色が、変わった。今までの長閑な空気も、ぴんと冷たく張り詰める。やっぱり、山吹先生は知っていた。私は、深く頭を下げた。
「先日、壱河一哉さんが亡くなりました。その日から、相沢先輩は、絵を描かなくなりました。壱河一哉さんのお通夜の日に、相沢先輩に何があったのか。その日のことを、私にも言えない理由は何なのか。それらを明らかにするためには、高校時代の相沢先輩と、壱河一哉さんについて、もっと知る必要があると考えました」
「倉田さん。本当なのね?」
「はい」
「分かった。時間は、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「そう。少し待っていてね」
山吹先生は、黒板の隣へ歩いていくと、美術準備室に続く扉を開けて、薄暗い室内に入っていく。ほどなくして出てくると、大きな段ボール箱を抱えていたから、私も慌てて手伝って、近くの机まで一緒に運んだ。
「ありがとう。この箱の中身を鑑賞しながら、もうしばらく待っていてくれる?」
「え? はい」
山吹先生は、美術室を出ていった。遠ざかっていく足音を聞いてから、私は段ボール箱を開けて、ハッとした。
重さの正体は、大量のスケッチだった。モノクロの風景の断片は、まるで写真のネガみたいに、画用紙に散りばめられている。春のグラウンド、真夏のプールサイド、秋の学園祭、冬の通学路――精緻に描き出された世界の中へ、見る者の心を手繰り寄せていく引力は、酩酊感を伴うくらいに強かった。それでいて筆致は優しくて、夢とうつつの境を撫でるように蕩かせている手法を、私はよく知っている。
「彗の絵……こんなにたくさん……」
彗は、私にくれた油彩画の他にも、高校に絵を残していた。でも、現在の彗の筆致よりも、鉛筆の線が少し濃い。――これらの絵は、右腕を怪我する前の作品だ。私と出逢う前の彗が、スケッチを通した向こうにいた。
席に着いて絵を見ていると、山吹先生が戻ってきた。「お待たせ」と柔和に言って、隣の席に座ったので、私は絵を机に置いて、居住まいを正した。
「倉田さんは、相沢くんの怪我について、どれほどのことを知っているの?」
「歩道に車が乗り上げたときに、腕を庇いたかった、と話してくれました。その怪我が理由で、一度は夢を諦めかけたことも」
「……そうね。相沢くんは、三年生のときに、大きなコンクールで金賞を獲ったの。彼の右腕の怪我は、授賞式の会場を出てすぐの場所で、ハンドル操作を誤った車が、歩道に乗り上げてきたときに負ったものよ」
私は、目を瞠った。彗の怪我は、交通事故が理由だとは聞いていたけれど、その交通事故が、コンクールの授賞式のあとに起きたものだなんて、知らなかった。
「事故の負傷者は、二人よ。二人とも、コンクールに絵を出品した高校生だった」
「その負傷者の一人が、彗で……もしかして、もう一人は」
山吹先生は、頷いた。予想もしない情報のピースを、まだパズルのどこに嵌めたらいいのかは分からなくても、顔も知らない壱河一哉さんの輪郭が、ようやくおぼろげに見えてきた。
壱河一哉さんの自殺には、このときの怪我が関わっているのだろうか。彗だって、利き腕を負傷したことで、一度は人生の岐路に立たされた。もし、壱河一哉さんの怪我が、彗の右腕のように、画家として生きる夢を砕くようなものであれば――人生のどこかで絶望しても、おかしくないのかもしれない。
「さて。彼について、先生から話すのは、ここまでにさせてね」
山吹先生が、おっとりと笑った。そして、意外な台詞を続けた。
「ここから先は、相沢くんのご両親が、あなたに話してくださるから」
「え? ……えっ?」
彗の――お父さんと、お母さん? 度肝を抜かれた私に、山吹先生は悪戯っぽい笑みを見せて、段ボール箱に手を乗せた。
「廃校の話が出たときから、相沢くんの実家には、連絡を取るつもりでいたの。これらの絵を、引き取っていただこうと思ったから。生徒がいなくなる学校に残すよりも、誰かのもとで慈しんでもらうほうが、絵も幸せだと思うもの。さっき、相沢くんの実家に電話を掛けたときに、倉田さんの話も本当だと確認が取れたから、先生もあなたと話せたの。先方は、あなたの名前を知っているわ。今から、相沢くんのご両親は、倉田さんを高校まで迎えに来るそうよ」
「彗の、ご両親が、私の名前を……」
「相沢くんが、話していたのね。倉田さんのことを」
山吹先生は、少女のように明るく笑って、私の両手に、熱い両手を添えた。
「倉田さん。先生からも、お願いね。相沢くんの、力になってあげて。先生にとっても大切な画家が、この世界から消えてしまわないように」




