4-9 恋の空席
「澪。本当に、もう平気?」
「大丈夫だよ、彗。いってきます」
海沿いの自然公園で、手を振り合った私と彗は、それぞれの大学へ歩き出した。私と秋口先生が応接室で話した内容について、彗からは何も追及がなかった。下手に私から訊き出して、絵画の話になっては困るからに違いない。秋口先生は、彗に「当面の間は、休暇と見做しておく」と言い渡して温情をかけると、アトリエから去っていった。帰り際に、私を家まで送ると再び言ってもらえたけれど、体調はだいぶ改善したから、気持ちだけを受け取って辞退した。やるべきこともあるからだ。
大学に着いた私は、明日と明後日の講義を受け持つ教授を訪ねて回った。一通りの挨拶を終えたあとは、学食がある講堂を目指して中庭に出ると、春には満開の桜が咲き乱れる木の下で、茶髪をお団子に結った友達が、ベンチに座っている姿を偶然見つけた。
「巴菜ちゃん。おはよう」
「あ、澪ちゃん! 身体はもういいの?」
巴菜ちゃんは、ハッとした顔で立ち上がると、ジャンパースカートを揺らして私に駆け寄った。私は「うん。次の講義は出席するよ」と答えると、巴菜ちゃんにも予定を伝えておくことにした。
「巴菜ちゃん。私、明日と明後日、大学をお休みするね」
「えっ、まだ体調が良くないとか? 今日も、無理して来たってこと?」
「ううん。明日と明後日は、地元に帰省するの。大学は、できれば休みたくなかったけど……講義がない日を待てないくらいに、大切な用事があるから」
私が帰省することは、まだ彗には話していない。巴菜ちゃんの家に泊まるという作り話も考えたけれど、彗に嘘はつきたくないから、自分の中で却下した。病み上がりを理由に止められる可能性が高くても、意思を貫くつもりでいる。巴菜ちゃんは、呆気に取られた顔をしてから、日差しを見上げるような顔をした。
「澪ちゃんが大学を休むなんて、よっぽどのことだよね。なんか、いいな。澪ちゃんの、そういうところ」
「そういうところ?」
「自分の大切なものが何なのか、ちゃんと分かっていて、守るところ」
懐かしい響きの台詞だった。確か絢女先輩も、似たような言葉を私に掛けた。巴菜ちゃんは、再びベンチに座ると「あー、勉強にも恋愛にも人生にも疲れたよお」と弱音を吐いて、秋の青天を振り仰いだ。
「澪ちゃんも、大祐も、あたしの前をどんどん進んでる感じがして、正直すごく心細いよ。あたし、いい先生になれるのかな」
「教職の勉強に、悩みがあるの?」
「うん。学校の先生になりたいって、ずっと思ってきたけどさ。あたし、成績よくないもん。子どもに笑われちゃうよね」
「勉強で躓いてきた人は、勉強に苦手意識を持つ子どもに、温かく寄り添えるんじゃないかな。私、巴菜ちゃんは素敵な先生になると思う」
「そうかなぁ」
巴菜ちゃんは、まだ浮かない顔をしていた。私は、ふと気になって質問した。
「巴菜ちゃん、今日はどうしたの? 講義の予定は、なかったよね?」
「うん。そうなんだけど、実はね」
巴菜ちゃんが、声を潜めたときだった。つい先日聞いたばかりのアルトの声が、私のすぐ後ろから聞こえてきた。
「あなたの幼馴染がここに来るのを、待っているからでしょう?」
「……絢女先輩?」
いつの間にかそばにいた絢女先輩は、驚く私にニコリと笑って「だいぶ元気になったみたいね」と優雅に言った。襟ぐりが開いたVネックニットの肩で、黒髪が風に揺れている。巴菜ちゃんは、あんぐりと口を開けてから、慌てた口調で捲し立てた。
「なっ、なんであなたが、ここにいるんですか! 約束の時間は、まだなのに!」
「約束の時間? 巴菜ちゃん、何のこと?」
「久しぶりね。西村さん」
絢女先輩は、なぜかベンチで動揺している巴菜ちゃんを見下ろすと、隙のないメイクが施された美貌に笑みを乗せて、巴菜ちゃんをさらにたじろがせた。
「知っているんでしょう? あなたの幼馴染が、私をお茶に誘ったこと。相手を待たせてはいけないから、ここには早めに来たの」
「絢女先輩、星加くんと待ち合わせてるんですか?」
そういえば、巴菜ちゃんは絢女先輩のことを恋敵のように捉えていて、ライバル意識を燃やしていた。私にはピンと来ない組み合わせだから、ちょっと信じられない気持ちでいると、まさに話題に挙がった星加くんが、講堂の方角から歩いてきた。中庭に集った私たちに気づいて、ぎょっと目を剝いている。
「はあ? なんで巴菜がここにいるんだよ? 倉田さんまで……」
「さあ、どうしてでしょうねー」
巴菜ちゃんは、明後日の方角を向いた。どうやら、星加くんと絢女先輩の待ち合わせを邪魔するために、ここで張り込んでいたようだ。星加くんが不憫になったとき、絢女先輩が追い打ちをかけるように「同席を許可したのは、私よ」と言ったからびっくりした。巴菜ちゃんも「はあっ?」と叫ぶと、星加くんみたいに目を剥いている。
「あなたは邪魔しに来たつもりでしょうけど、むしろ私は、見届けてもらえて有難いわ。痛くもない腹を探られるのは、迷惑だもの」
「め、迷惑っ? なんで、あなたに、そんなこと!」
巴菜ちゃんはわなわなと震えていたけれど、絢女先輩は相手にしなかった。呆然としている星加くんと向き合って、はっきりとした口調で言った。
「今日は、私に声を掛けてくれてありがとう。友達としてなら、お茶のお誘いは歓迎するわ。でも、そうじゃないなら話は別よ。君と二人で食事に行くのは、あの日が最初で最後。今日は、それを伝えに来たの」
星加くんは、面食らっていた。それから、悔しそうに言い返した。
「どうして、俺にチャンスもくれないんですか」
「その恋は、君が澪ちゃんを好きになったときの気持ちと、全く同じだから」
星加くんは、言い返せなかった。絢女先輩は、冷静な声音で続けた。
「澪ちゃんがいなくなった空席に、そのときたまたま通りかかった私を、ちょうどいいから座らせているだけ。錯覚の恋でも、好意は嬉しかったけど、ごめんなさい。私は、過去の恋から学べない人と、新しい恋はできないの。自分の素直な気持ちを、相手に伝えられるところは、立派だと思うわ。その勇気を使って、これからは、君の周りの人たちが、どんなことを考えて生きているか、他人の目線で考えみて」
「そんな俺になれたら、チャンスくらいはくれるってことですか?」
星加くんが、自棄みたいな声で言った。絢女先輩は、「いいえ。そのときは」と答えると、見惚れてしまうほど綺麗に笑った。
「君は、私に心が揺れたことなんて、忘れているわ」
今度こそ、星加くんは言い返せなかった。踵を返した絢女先輩は、茫然自失の顔で座った巴菜ちゃんに近づくと、隣にいる私にも聞こえる声で、耳打ちした。
「あの子のタイプは、頭が良くて向上心がある女よ。少なくとも、何もせずに日陰のベンチでいじけて、他人を羨んでいる女ではないことだけは、確かね」
巴菜ちゃんの頬が、カッと紅潮した。絢女先輩は、ヒールを鳴らして去ろうとして、私を振り返って微笑んだ。
「澪ちゃん。次にあなたと会うときには、私たちを驚かせた出来事は、全て解決してるって、期待していいのね?」
「え? どうして……」
「なんだか、いい顔をしてたから。素敵な報告を待っているわ」
颯爽と歩いていく絢女先輩の背中に、私は「はい」と力強く返事をした。星加くんは、巴菜ちゃんの隣に座り込んで「また振られた……」と呟いて項垂れている。巴菜ちゃんが「完膚なきまでにね!」と大声で合いの手を入れたから、「巴菜は、うるせえよ……」と萎れた声で嘯く星加くんに、私はそろりと訊いてみた。
「星加くんは、絢女先輩のことが好きになったの?」
「いや、なんて言うか……恋にすら、させてもらえなかった」
顔を上げた星加くんは、後ろめたそうな顔をしていた。絢女先輩の言葉は、多少なりとも、事実を言い当てていたのだろう。私は、考えを少しだけ述べた。
「会わない理由を伝えたのは、絢女先輩なりの誠意だと思う。何も言わないでさよならをすることだって、絢女先輩にはできたはずだから。星加くんのことを、友達だと思ってくれたんじゃないかな」
「……ありがとう。優しい倉田さんにひきかえ、巴菜は鬼だな」
「大祐こそ、うるさい! 澪ちゃん、あたし、あの人、きらい!」
「えっと……私は、好きだよ。絢女先輩のこと」
「ううっ、澪ちゃんの心が綺麗で、自分が汚れて見える……あたし、決めた! 教職の勉強、もっと頑張る! 他の講義も! 賢くて優秀な女になる!」
「どうせ三日坊主だろ」
「言ったなぁ!」
言い合いを始めた二人を見ながら、私は感心していた。絢女先輩は、賢くて優秀な人だからこそ、同性には誤解されやすいけれど、悩みを抱えていた巴菜ちゃんを、あっという間に立ち直らせた。絢女先輩は、本当にすごい。
「巴菜ちゃんは、絢女先輩をライバル視しなくてもいいんじゃないかな」
つい呟くと、巴菜ちゃんが頬を桜色に染めて、私を引っ張って星加くんから離れた。「大祐が振られたから?」と訊かれたので、私は「ううん」と返事をした。
「星加くんは、関係なくて……絢女先輩は、たぶん」
星加くんではなく、前の恋人だった人でもなく、別の人と――幸せになるような、気がするから。午後の喫茶店で、絢女先輩と親密に話していた男性の顔が、脳裏に浮かんだ。自然と笑みが零れたから、巴菜ちゃんが膨れっ面になった。
「澪ちゃんまで、アリスさんみたいに『面白くなってきた』って言うの?」
「ううん、違うの。……私、この町が好き。できるだけ早く帰ってくるね」
高校生だった頃の午前四時に、私と彗は二人きりだった。でも、気づけば私たちの周りには、たくさんの素敵な人たちがいる。
この居場所に、必ず帰ってこよう。そう、強く思った。




