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油彩画・夜明けのミモザ  作者: 一初ゆずこ
第1章 クリムトと午前四時の恋人
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1-5 光と影

 放課後の空はまだ明るくて、窓から斜めに射し込む午後の光が、廊下を白く染めている。これから徐々に日が長くなっていくのだろう。

 今日の午前四時にも、私はけいと会っていた。二人で魔法瓶の紅茶を飲んでいる間、互いに絵の話題には触れなかった。今朝の両親も、私の夜間の外出について、いまだに触れる気配がない。けれど、いつまでも隠せるわけがない。ただのみおと彗という、記号みたいな存在でいられる時間は、あと僅かだ。通学鞄を肩にげ直した私は、授業で描いた油彩画を引き取るために、三階の美術室の戸を開けた。

 油絵具の甘い匂いが、ふわりとただよう。日差しで暖められた室内には、私みたいに絵を引き取りにきた生徒がいたけれど、入れ違いで廊下へ出ていった。緩い賑わいが遠ざかる美術室の一角に、油彩画はまとめて置かれていた。

 ほどなくして見つけた私の作品は、がらんどうの教室の絵だ。机と椅子の描き込みに苦労した様子がうかがえて、私は少し落ち込んだ。窓の向こうの晴天と、教室に落ちる灰色の影がアンバランスで、今なら彗と話した『散歩、日傘をさす女性』みたいな青い透明感をえがけていないとわかってしまう。

倉田くらたさん、どうしたの?」

 気づけば、美術の女性教諭の山吹やまぶき先生がそばにいた。黒髪をお団子に結った壮年そうねんの先生は、笑みと物腰が柔らかくて、生徒たちに好かれている。私が口ごもったのは、久しぶりに名字を呼ばれた気分になって、戸惑ってしまったからだと思う。

「えっと……理想通りの絵を描くことって、難しいなって思っていました」

「先生は好きだけどなぁ、倉田さんの絵。このときにしか描けない、唯一無二のきらめきをとらえていて」

 山吹やまぶき先生は、相好そうごうを崩した。こうして伝えてくれた感想も、きっと唯一無二の『印象』だ。私も笑みを返したけれど、硬い表情だったと思う。両親の離婚の件が頭の隅に居座っていて、大人に笑いかけるという行為を、心のどこかが拒絶していた。そんな自分が嫌で、泣きたくなる。今の私は、まだ日向を歩けない。

 私のいびつな表情は、山吹先生に違和感を与えたようだ。悲しそうな顔をされたから、絵のことで深刻に悩んでいると誤解されたのだろうか。私が釈明しようとすると、山吹先生は「そうだ」と出し抜けに明るく言った。

倉田くらたさんと同じように、教室の風景を描いた生徒の絵があるの。光と影の描き方がうまい子だから、これから絵筆を握るときの参考になると思うわ」

 山吹先生は、生徒たちの油彩画の中から一つを選んでかかえると、手近なイーゼルにせた。カーテンの隙間から射す陽光のスポットライトが、長方形のキャンバスに描かれた高校の教室を照らし出す。日差しの柔らかなベール越しに、誰のものなのかも分からない絵と向き合った私は――目を見開いた。

 誰もいない教室には、夜明けの空の水色と、曙光しょこうの橙に染まった空気が満ちていた。窓の向こうに拡がる朝ぼらけの街は紺色で、建物の群れはクリムトがえがいた恋人みたいに融和している。なぜか心を惹きつけてやまない影を臨む教室で、主がいない机と椅子は、輪郭りんかくが未明の空色に照っていて、早朝の高校に一番乗りで登校してくる生徒の誰かを、青くて透明な微睡まどろみの中で待っている。

 この世界には命が描かれていないのに、やがて朝を迎える風景には、新しい一日への期待と、確かな希望が息づいていて――私の目から、ぽろっと涙が零れていた。

「いい絵でしょう? 作者の男の子は、コンクールで何度も入選して、美術雑誌にも取り上げられて、天才だって言われてきた生徒だけど、先生は彼のことを、人並み外れた努力家だと思っているの。私たちに頼み込んで、早朝に登校するくらいに、情熱を注いだ絵なんだから、卒業までには取りに来てねって伝えたけど……なかなか来てくれないのよね。でも、倉田さんに見せられたから、ここに残してくれてよかったのかもね」

 山吹先生は、私の涙には気づかないふりをしてくれた。ひどく優しい眼差しで、天才であり努力家だという生徒の油彩画を見つめている。クリムトのめいの少女・ヘレーネのような横顔のうれいが、一つの真実を予感させた。私は、自分の油彩画を急いで抱えた。

「私……帰ります。ありがとうございました」

「ええ。さようなら。またね」

「さようなら」

 教室の絵に背を向けると、美術室から足早に出た。一度も振り返らなかった。頬を伝い落ちる涙が、止まらなくなってしまったから。

 もし、あんなにも心を揺さぶる絵を描いた人が、利き腕を使えなくなって、画家として生きる道を絶たれたら。ひとけのない教室に宿ったかそけき光を見失って、薄い窓ガラスをへだてた向こう側で口を開けた暗闇に、心を一息にさらわれてしまう。かなしい引力に抗えなくて、居場所を探して彷徨さまよう時間を、私は誰にも、弱さだなんて言わせたくない。

 ――『いいんだ。違う生き方もできるから』

 夢を諦めようとしている彗の台詞せりふが、頭の奥でリフレインする。たとえ彗の声が、言葉が、新しい道を受け入れているのだとしても、私はどうしても認めたくなかった。

 両手が油彩画でふさがって、熱い涙を拭えない私は、俯いたまま廊下を走って――一人の男子生徒とすれ違った。

 相手が立ち止まった気配を感じたけれど、私は廊下の突き当りを曲がった。やがて背後で美術室の戸が開けられる音がして、続いて山吹先生が驚いた様子で告げた台詞せりふも、かろうじて私の耳まで届いた。

相沢あいざわくん、やっと引き取りに来たのね。三年生では、君が最後よ」

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