4-7 仲直りの夜
スマホを持って喫茶店の外に出ると、日差しは午前中よりも和らいでいた。明日は、また涼しい一日になるのかもしれない。眩暈はだいぶ収まったから、英会話教室に電話を掛けて、アリスに取り次いでもらったときも、落ち着いて話をすることができた。
『ミオ! 大丈夫なのっ? 私のことはいいから、ゆっくり休んでね!』
「はい。ご迷惑をおかけして、すみません。本当は、アリスに会いたかったです」
『私もよ。でも、安静にね。それに、ミオとはまた会えるものね』
電話の向こうで、アリスの声が弾んだ。明るさを受け取った私も、「はい」と答えて微笑んだ。アリスの英会話教室は、三か月の短期コースで申し込んでいたけれど、期間を三月まで延長している。費用のためにも、アルバイトでしっかり稼ぎたかったけれど、次に『フーロン・デリ』へ電話を掛けて、店長に明日のシフトをアルバイト仲間と交代したと伝えたところで、喫茶店から絢女先輩も出てきた。
「今の電話は、『フーロン・デリ』に掛けたの?」
「はい。明日なら、シフトを変更しなくても、働けたかもしれませんけど……」
「無理は禁物よ。自分でも無理だと思ったから、聞き入れてくれたんでしょう?」
「はい。アリスも、店長も、私がびっくりするくらいに心配してくれました」
「当然よ。今まで体調管理を徹底してきた澪ちゃんの努力を、みんな見ているのよ」
私に休息を取るよう進言したのは、絢女先輩だ。無理は禁物、努力――それらの言葉は、店内の四人掛けの席に着いている男性が、私に伝えた台詞と同じだ。絢女先輩も、ガラス越しに店内を見ながら、私に訊いた。
「大丈夫?」
体調のことではなく、彗のことを言われたのだと分かった。私は「はい」と答えて頷いた。無理をしているわけではなくて、本心から頷いているつもりだ。
「私は、たぶん覚悟していました。彗が、何かに思い悩んで、追い詰められることがあるとすれば、それは……彗の夢に、関わることだと思っていました」
喫茶店の中で、黒いリクルートスーツ姿の彗は――隣の席に座る高嶺さんと、強張った表情で話し合っている。ついさっき、私は絢女先輩に「電話が必要な場所に、早めの連絡をしたほうがいいわ」と言われて、年上のメンバーたちの輪から外された。彗と高嶺さんの会話を聞いていた絢女先輩に、私も訊きたいことがあったけれど、絢女先輩が溜息を吐いて「あり得ないわ」と呻いたから、質問をいったん呑み込んだ。
「さっき、澪ちゃんが外に出てから、相沢くんを問い詰めたのよ。今さら就職活動だなんて、どういう風の吹き回し? ってね。そうしたら、なんて答えたと思う? 確かに就活のスタートは大きく出遅れたけど、僕なら今からでも何とかなると思う、ですって。四年生の就活生たち全員を、敵に回す発言だわ」
「あ、絢女先輩……? 怒ってます?」
「怒っていないわ。むかつくだけよ」
それは、怒っていると捉えて差し支えない気がする。絢女先輩は、調子を狂わされたことに対する戸惑いを吐露するように「相沢くんが就職なんて、絶対に反対よ」と、珍しく他人の決断に踏み込む言葉で、彗の行動を非難した。
「相沢くんみたいな絵画ひとすじの人間が、普通の社会人として生きていけるわけがないじゃない」
「絢女先輩、その言い方は、ちょっとひどいと思います……」
「経済学部の成績も、優秀だもの。一般企業に就職しても、そつなく仕事はできるかもしれないけど……」
絢女先輩は、言葉を濁した。途切れた台詞の続きは透明でも、私にはすんなりと言葉の形に翻訳できた。
「その生き方では、彗の心は満たされません。これからずっと、何よりも大切にしたいことを諦め続けて、毎日を生きていくことになります」
「澪ちゃん、私よりも残酷なことを言ってるわよ」
「えっ、私、そんなつもりじゃ……」
「おかげで、冷静になれたわ。相沢くんがリクルートスーツを着て就活だなんて、ショックが強すぎる眺めだったから、びっくりしたけど。私よりもショックを受けて当然な澪ちゃんが、冷静に構えているんだもの。私が取り乱すわけにはいかないじゃない」
絢女先輩は、可笑しそうに言った。私は、日差しの温もりを頬に感じながら、覚悟ができていたとはいえ、思った以上に動じなかった自分自身に驚いていた。
「彗の行動は、ショックでしたけど……やっぱり私、平気みたいです」
「澪ちゃんが、それだけ強くなったってことじゃない?」
絢女先輩の声音は軽やかで、笑みにも普段の余裕が戻っていた。賛辞に驚いた私は、素直な嬉しさを笑みにのせて、改めて窓ガラス越しに喫茶店を見て――心なしか青ざめている彗の横顔に気づいて、胸が痛んだ。私が小声で「高嶺さんは、彗にどんな話をしていたんですか?」とさっき呑み込んだ疑問を口にすると、絢女先輩は「澪ちゃんを見つけたときの経緯よ」と隠さずに教えてくれた。
「体調のことだけじゃなくて、おかしな人たちに絡まれそうだったことは、相沢くんにも報告しておいたほうがいいでしょ?」
前者はともかく、後者は伏せておきたかった。けれど、最も話題にしてほしくないことは、別にある。私が問いを重ねる前に、絢女先輩が「安心して」と言ってくれた。
「今の相沢くんに、絵画の話題はまずいってことは、高嶺さんも察してくださっているわ。あの二人は、今も澪ちゃんの話しかしていないはずよ」
「……そうですか。よかった」
私を助けてくれた高嶺さんは、初対面の彗にも思いやりを持って接してくれた。肩から力が抜けた私に、絢女先輩が再び「大丈夫?」と訊いてくれた。今度は体調のことと、それからやっぱり彗のことだと分かったから、私は薄く笑みを作った。
「はい。大丈夫です。知らない人に声を掛けられそうになったことは、彗が気にすると思うから、隠せるなら隠したかったけど……そんなことをしても、すぐに伝わっちゃうと思います。これから、ちゃんと二人で話し合って、嘘じゃない笑顔で一緒に過ごせるように、頑張ってみます」
「それがいいわね。……あ。噂をすれば」
喫茶店の扉が開いて、彗も外に出てきた。絢女先輩は口角を上げると、彗とすれ違って店内に戻っていく。二人きりになった私たちは、見つめ合った。
「……澪。ごめん」
彗は、俯いた。腰の横で握りしめた拳は、力が入りすぎて白くなっている。血を吐くような声の悲痛さは、暖かい秋風には不釣り合いで、彗の後悔を際立たせた。
「僕は、澪に、酷いことをした」
「酷いことなんか、されてない」
私は、彗に駆け寄って抱きついた。周囲の誰が見ていても、今こうしないといけないと、強い気持ちで思ったから。彗の戸惑いと躊躇いが、息遣いから伝わってくる。両腕は、腰の横に下ろされたままだった。
「彗は、私が嫌がることなんて、今まで一回もしなかった。昨日だって……じゃなくて、今日だって……」
言い直した所為で格好がつかなくなったうえに、二月のモデル事件のことは、実は今でも少し根に持っている。そんな私の葛藤が伝播したみたいで、彗は毒気を抜かれた顔をしてから、ベッドで見つめ合ったときみたいに、ひどく儚い笑い方をした。
「僕の所為で、苦しい思いをさせたのに。怖い目にも遭わせたのに」
「彗の所為じゃない。体調は、元から悪かったの」
「気づけなくて、ごめん」
やっと、彗の両腕が持ち上がった。ぎこちなく、それでいて強く抱きしめ返してくれたから、安心した私の目尻に、涙が滲んだ。
「彗。私も、謝りたかったの。壱河一哉さんが、亡くなって……彗が、気持ちを整理しようとしているときに、邪魔するようなことを言って、ごめんなさい」
「謝らないで。澪が、僕を気に掛けてくれたことで、僕は救われていたから」
「うん……」
ひとしきり謝り合ってから、身体を離して、笑い合った。彗が「僕たちは、帰ろうか」と言ったから、私も「うん」と返事をして、二人で喫茶店に戻った。テーブル席で高嶺さんと話していた絢女先輩は、私たちに気づくと、チェシャ猫みたいな顔でにんまりした。
「雨降って地固まる、って言葉を体現したみたいな顔で戻ってきたわね」
「えっと……お騒がせしました」
「速水さん。今日はありがとう。高嶺さん、本当にお世話になりました」
「いいんだよ。こういうきっかけだったけど、相沢くんに会えてよかったと思っているから。倉田さんは、お大事にね」
「はい。ありがとうございました」
私と彗が頭を下げると、絢女先輩も高嶺さんに、「せっかくの休日を、私たち学生のために使ってくださり、ありがとうございます」と伝えていた。そんな絢女先輩に、私も「駆けつけてくださって、ありがとうございました」と礼を述べると、絢女先輩は「いいのよ。就活が終わったから、前より暇になったし」と笑顔で言ってのけたから、私は「ええっ?」と叫んでしまった。
「おめでとうございます。内定が出てるのに、さっきは彗に怒ってたんですか?」
「まあね。これで、バイトに専念できるわ」
「バイト、続けるんですね。……よかった。絢女先輩、内定が出たら『フーロン・デリ』を辞めちゃうのかなって、気になってたから」
「しばらくは辞めないわよ。お金を貯めて、旅行したいもの」
「内定おめでとう。ご趣味は旅行なんですね」
高嶺さんも、会話に加わった。絢女先輩は「ええ。知らない景色を見るのが好きなんです。学生のうちに、できるだけ遠くに行ってみたいから」と答えて、あどけなく笑った。絢女先輩がアルバイトに打ち込む理由は、初耳だ。もっと話を聞きたいけれど、彗が「僕たちは、そろそろ失礼させていただきます。速水さんはどうする?」と訊ねたから、絢女先輩は紅茶のカップに指を添えた。
「まだここにいるわ。高嶺さんから、海外のお話を伺いたいし」
「そういうことだから、ここでお開きにしようか」
「高嶺さん。今日は、本当にありがとうございました」
最後にもう一度感謝を伝えると、高嶺さんは「いいんだよ」と答えて席を立った。私に近づくと、隣の彗には聞こえないほど小さな声で「むしろ、倉田さんには感謝しないとね。今日は、本当にありがとう」と言われたから、私は小首を傾げた。
「感謝?」
「例の件、もし興味があったら、よろしくね」
「澪。それじゃあ、行こうか」
「う、うん」
彗に連れられて喫茶店を出る間際に、テーブル席を振り返ると、席に着いた高嶺さんと絢女先輩の間には、初対面のときよりも親密な空気が流れていた。彗も、私の視線を追って、双眸を優しく細めてから、午後一時半の青空の下を二人で歩いた。
アパートに帰り着くと、彗は私をベッドに寝かせた。「夕飯の時間になったら起こすから、眠ってて」と私に言い含めると、リクルートスーツから普段着に着替えて、一人で出掛けようとした。心細くなった私が「どこに行くの?」と訊ねると、「夕飯の買い出しだよ」と言われたから、どきりとした。
「昨日、僕を気遣ってくれた澪は、買い物に行きたいって言いづらかったと思う。そのことも、謝りたかったんだ」
彗は、私の返事を待たないで「すぐに帰るから」と言って家を出た。私も、とろんと眠たくなってしまい、帰ってきた彗に起こされるまで起きなかった。
そのあとは、彗が作ってくれた卵のお粥と、チキンスープの夕食を取って、久しぶりに二人でのんびりとした時間を過ごして――交代で入浴を済ませてから、私は言った。
「彗。今日も、ここで眠って」
今回のことを気にした彗が、床で寝ると言い出す前に、有無を言わさぬ口調を作った私は、彗をベッドに座らせた。そのまま私も隣に座ると、ものすごくドキドキしたけれど、彗の左腕にぎゅっと抱きついて、頑張って言った。
「仲直り、しよう。今から」
「……そっか。僕らは、喧嘩していたんだね。それなら、仲直りをしないとね」
穏やかに答えた彗が、私に顔を近づけた。昨日の朝に、彗をアトリエから見送ったときの続きが始まって、与えられた熱を受け止める私の肩を、彗の右手が掴んでいる。こうすれば、私は動けなくなることを、彗は分かっている気がする。私が好きになった人は、いつも優しくて、時々ずるい。唇が離れたときに、私は言った。
「ごめんね」
「ん?」
「星加くんのこと。彗は、私が思うよりもずっと、気にしてくれたんでしょ?」
「澪。その名前は、ベッドでは出さないでほしい」
彗は、左腕で私の身体を支えると、ゆっくりとベッドに横たえた。仲直りをしたかったのに、新たな喧嘩の火種をまいてしまった私は、慌てて「彗は、私の気持ちを疑わないって、言ってたのに」と抗議してみたけれど、立ち上がった彗は「僕が澪の気持ちを疑わないことと、澪に執着していることは、別の話だからね」と涼しく言って、部屋の灯りを落としにいった。蛍光灯の白から、月明かりの青に塗り変えられた室内で、彗は窓を背にしてベッドに入ると、掛布団から右手を伸ばして、私の長い髪を梳った。拍子抜けした私は、至近距離で満足そうな顔をしている彗に、囁いた。
「いいのに」
「本音を言えば、僕だってそうしたいよ。さっきの澪が、可愛いかったから。でも、澪が元気になってからでないと」
「……まだ、気にしてるの?」
「昨日の僕は、自分のことばかり考えてた。澪がこうなって、頭が冷えたよ。体調のこと、気づけなくて、本当にごめん」
「そんなことない。私だって、言わなかったから。彗、もう謝らないで。彗は、ずっと私に優しかったよ」
彗の寝間着のシャツにしがみつくと、彗はしばらくのあいだ黙ってから、「分かった」と素直に返事をして、いつもの柔らかさで微笑ってくれた。
「澪がそう言うなら、今からは気にしないことにする」
「うん」
嬉しくなった私が、うつらうつらしていると――私の肩に乗った右腕の重みが、少し増した。髪を撫でていた右手も、私の左耳のそばで動かなくなる。
彗は、安心しきった子どもみたいに無邪気な顔で、規則正しい寝息を立てていた。私は、ぽかんとしてからホッとして、彗の胸板に頬を寄せた。
――本当は、ホッとしている場合ではないことくらい、分かっている。彗が抱えた問題は、何一つ解決していない。今はまだ、マイナスに大きく振り切れていた心の針を、なんとかゼロに近い地点まで戻せただけだ。
でも、私の体調なら、明日も休養を取ることで、じきに快方に向かうはずだ。アリスの英会話教室も、『フーロン・デリ』のアルバイトも、来週まで予定がなくなった。大学の講義はあるけれど、私はこれから自由に動ける。肩に乗ったままの右腕に、私も掛布団から手を伸ばして、そっと触れた。
彗は、右腕に怪我を負ったときも、夢を諦めかけていた。そのときの交通事故について、歩道に車が乗り上げてきた、と彗は語っていたけれど、詳しい話を私は知らない。
亡くなった壱河一哉さんなら、知っているのだろうか。
そもそも、壱河一哉さんは、彗にとって、どんな友人だったのだろう。
彗と同じ、画家の卵。絵のコンクールで誰よりも競い合いに拘った、真っ直ぐな人。そんな仲間と、彗は数年の間、連絡を取っていなかった。お通夜にも、彗は早朝から地元へ帰省したのに、参列せずに帰ってきた。
壱河一哉さんが知っていて、私が知らない何かがある。彗の右腕の傷痕は、そんな正体不明の暗闇を象徴しているような気がして、私に一つの決意を固めさせた。
私は、彗のことを、もっと知りたい。




