4-5 救いと再会
彗が通う大学は、私が通う大学と一駅ほどしか離れていない。普段なら徒歩で向かうけれど、今回はバスを利用した。昨日の肌寒さが嘘のように気温が高くて、暑さが私をさらに滅入らせた。
バスを降りた場所は、歩道に沿って美容院や飲食店が軒を連ねている。ここまで来れば、彗の大学は目と鼻の先だ。くたくたに疲れた私は、お守りみたいに握りしめていたスマホを確認して、少しずつ焦り始めていた。
――彗と、連絡がつかない。スマホに電話を掛けてもコール音が鳴るばかりで、折り返しの電話もなかった。とにかく、メッセージだけでも入れておこうとしたところで、ふと思いつく顔があった。
――絢女先輩。鎖骨に届く長さの黒髪と、くっきりとしたメイク、赤い唇の左下にある黒子が色っぽい美女で、私が尊敬している人。彗と同じ大学に通う絢女先輩なら、彗の居場所を知っているかもしれない。眩暈でふらふらしながら、スマホに絢女先輩宛のメッセージを打ち込んで送信すると、こちらはすぐに返信があった。
――『澪ちゃん、今どこにいるの?』
彗の居場所を訊いたのに、私の居場所を訊かれてしまった。ぼやけた疑問を感じながら、ふらりと辺りを見回して、虚ろな目をした私をうっすらと映した窓ガラスに『喫茶・ポラリス』と書かれていたから、店名を絢女先輩に報告した。
その瞬間に、体力の限界が訪れた。立ち眩みに負けた私は、歩道の隅にしゃがみ込む。強い日差しが生んだ濃い青色の影を見つめながら、呼吸を懸命に整えた。
彗に早く会いたいのに、大学にさえたどりつけない。それに、たとえ大学に行けたとしても、彗と連絡を取れなければ、広い構内から一人の生徒を見つけるのは困難だ。でも、もう、どうしたらいいのか、分からない――石鹸の泡を溶かした渦みたいに、意識がぐるぐると回りかけたときだった。
「倉田さん?」
汀をくすぐる小波のように、穏やかなテノールが聞こえたのは。思考を混濁させていた渦がほどけて、我に返った私は、顔を上げた。晴天のてっぺんで輝く太陽が眩しすぎて、軽く屈んで私を見下ろすその人は、逆光の青色を纏っていたけれど、整えられた黒髪と、映画俳優みたいに眉目秀麗な容貌は、視界が霞んでいても判別できた。
「高嶺、さん……?」
――高嶺周さん。私が英会話を教わっているアリス・ベネット先生の知り合いで、アリスの夫である綾木泰彦さんの後輩で、七月に綾木夫妻の家で開かれたバーベキューの会で、私に文芸翻訳の話を聞かせてくれた人。シャツとチノパンに藍色のテーラードジャケットを合わせた高嶺さんは、優しそうな甘さの垂れ目を、心配そうに細めていた。
「大丈夫? ずいぶん具合が悪そうだけど」
立ち上がった私は、なんとか答えようとしたけれど、高嶺さんを見上げただけで、視界に黒いノイズが生まれた。よろけてしまった私の肩を、高嶺さんが支えてくれた。そして、一拍の間を空けてから「倉田さん。ちょっとごめんね」と囁くと、私の肩を軽く抱いた。仄かな辛みを含むマリンノートが、ふわっと上品に香った。
「え……?」
ぽかんと目を瞬いていると、視界の端で複数の人影が動いた。緩慢に目で追うと、彗の大学の生徒と思われる男の人たち数人が、そそくさと去っていく後ろ姿が見えた。高嶺さんが私から離れたときには、私も事態を理解できていた。
「一応訊くけど、彼らは知り合い?」
「知らない人です……」
――危なっかしい足取りで歩いていた私に、先に声を掛けたのが、もし高嶺さんではなかったら、今頃どうなっていたのだろう。悪意で私に近づいていたかもしれない人たちから、一人で逃げ切る自信はなかった。遅効性の毒みたいに押し寄せてきた恐怖を抑えて、私は「高嶺さん、ありがとうございました」と礼を言って、頭を下げた。でも、またふらついてしまったから、高嶺さんが肩をもう一度支えてくれた。
「とにかく、涼しい場所で休んだほうがいい。時間は、大丈夫?」
もう声も出せなくて、私はこくんと頷いた。高嶺さんは、私を連れて『喫茶・ポラリス』に入ると、店員さんと何事かを話し込んでから、私を四人掛けテーブルのソファ席に座らせた。そして「少し待ってて」と言い置いて、歩道に面したカウンター席へ歩いていき、書籍とアイスコーヒーのグラスを持って、私の元へ戻ってきた。そのとき初めて、高嶺さんはカウンター席に座っていたお客さんで、私の様子を外まで見に来てくれたうえに、席まで交換してもらえるように、店員さんに掛け合ってくれたのだと分かった。対面の椅子に座った高嶺さんに、私は今度は謝罪した。
「高嶺さん、本当にすみません……」
「いいんだよ。僕のことは気にしないで、まずは、ゆっくり落ち着こう」
高嶺さんは、誰の元にも平等に吹き渡る潮風みたいな爽やかさで、私に微笑みかけてくれた。店員さんが運んでくれた水のグラスに口をつけると、レモンのフレーバーの涼やかさが、身体の火照りを冷ましていく。高嶺さんに「食事は、ちゃんと取ってる?」と訊かれたから、正直に「今朝は、食べられませんでした」と打ち明けた。
「今は、何か食べられそう? もう十二時だし、無理のない範囲で、何か食べ物をお腹に入れた方がいい。僕もこれから頼むから、一緒に注文しよう」
「はい……」
「食べられないものや、苦手なものはある?」
「いえ、ありません……」
メニューを開いた高嶺さんは、私の様子を確認してから、店員さんを呼んで「キノコの和風リゾットを一つと、卵サンドを一つ、アイスティーを一つ、ストレートでお願いします」と注文してくれた。メニューを吟味する余力もなかったので、スマートに決めてもらえたことが、申し訳ないけれど有難かった。
「料理を勝手に選んでごめんね。ここを出たあとは、倉田さんが出掛ける場所まで付き添うよ。さっきの輩はもういないだろうけど、念のため用心しておこう」
「何から何まで、ありがとうございます……本当に、助かりました。高嶺さんは、お仕事はお休みの日ですか?」
「うん。仕事を休むと決めた日に、のんびりと読書をする時間が好きでね」
高嶺さんの隣の椅子には、さっきカウンター席へ取りにいった書籍が、鞄と一緒に置かれている。書店で表紙を見たことがある文庫本は、海外のミステリー小説だろうか。
「ごめんなさい。せっかくの休日を、こんな形で邪魔してしまって」
「いいんだよ。それに、倉田さんには、こちらから連絡を取ろうと思っていたから」
「私に?」
「うん。でも、また日を改めるよ。倉田さんは、今日は自分のことだけを考えて」
「でも……」
「それなら、あとで連絡先を教えてもらえるかな。アリスさんか西村さんに取り次いでもらおうと思っていたんだけど、その前に倉田さんと会えて、運が良かったよ」
優美な笑い方をした高嶺さんは、やっぱり綺麗な人だと私は思う。初めて絢女先輩と出会ったときにも、同じ感慨を抱いたことを思い出した。能動的な気配りができる二人は、人目を引く容貌だけではなく、他者への接し方も似ている気がする。
そう漠然と考えていると、料理と飲み物が運ばれてきた。高嶺さんの前に置かれた卵サンドは、白い食パンに挟まれた黄色の卵がふっくらしていて、私の前に置かれたキノコのリゾットは、湯気から和風だしの優しい香りがする。
今朝は食欲がなかったのに、コンソメとチーズの香ばしさが、私に空腹を思い出させた。「いただきます」と言ってから、スプーンでリゾットを掬って口に運ぶと、滋味深い温もりが、じんわりと身体に染みていく。胡椒で味付けされたしめじが、アルデンテで煮込まれたお米の甘さに、柔らかな立体感を持たせていて、乾いた砂が水を吸い込むように、栄養を摂取している実感があった。
「美味しい……これなら、食べられそうです」
「よかった。食欲が戻ったなら、きっと早く良くなるよ」
ふわりと笑った高嶺さんも、ボリュームのある卵サンドをゆっくりと食べている。夏のバーベキューのときには気づかなかったけれど、食事をしているときの表情が、思いのほか幸せそうだった。こういうふうに不意打ちで見せられる無邪気さに、くらっとしてしまう人はたくさんいるのだろう。そんなところが、やっぱり絢女先輩に似ている。アイスティーを飲んで人心地ついた私に、高嶺さんが「ところで」と声を掛けた。
「今日は、どうしたの? どこかへ行こうとしていたようだけど」
「彗に……お付き合いしている人に、会いに行こうとしていました。大学にいるはずなんですけど、連絡が取れなくて……」
説明しながら、なんて行き当たりばったりで、衝動的な行動だったのだろうと恥ずかしくなる。やっぱりこんな体調の日には、出掛けるべきではなかったのだ。
そんな私の後悔を、高嶺さんは察してくれたのだと思う。私の事情には深入りしないで、「倉田さんの彼は、綾木先輩の家でバーベキューをした日に話題になった、画家の相沢くんのことだね」と言って微笑んだ。
「はい。私……彼氏と、えっと、たぶん、喧嘩をしてしまって……」
意地の張り合いのような夜の時間を、言い換える言葉は他にもあったはずなのに、喧嘩という表現を選んだことで、我ながら気抜けしてしまった。喧嘩なら、きっと仲直りができる。私は何のために外へ出掛けたのか、話を聞いてくれた高嶺さんのおかげで、硬い結び目を作った心の糸のほどき方が、やっと分かった。
「私……彗に、謝りたかったんです。たぶん、彗も私と同じ気持ちだと思うから、早く会って、二人でもう一度、ちゃんと話をしたかったんですけど……私がこんな状態で会いに行っても、彗が傷つくだけだって、今なら分かります。高嶺さん、助けてくださって、本当にありがとうございました。私、ここを出たら、家に帰ります」
「うん。倉田さんなら、きっと大丈夫だよ。それにしても、羨ましいね」
「羨ましい、ですか?」
「自分のことよりも、相手のことを優先したいと思えるような、大切な人と巡り会えていることが、とても素敵だと思ったからね。もちろん、無理は禁物だけどね」
「あ……えっと……高嶺さん、先ほど私に、連絡を取ろうと思っていたと仰いましたよね。高嶺さんさえよろしければ、今からお話を聞かせていただけませんか?」
「僕は、構わないけれど……体調は、大丈夫?」
「座っていれば、大丈夫です」
高嶺さんは、逡巡するそぶりを見せた。そして、私の体調が多少は上向きになったと判断したのか、「分かった」と答えると、意外な質問を口にした。
「倉田さんは、もう就職活動は始めてる?」
「え? はい、一応。でも、企業研究の段階で、活動と呼べるほどのことはできていません。どんな企業が自分に合っているのか、まだよく分かっていないんです。それを知るために、いろいろな会社を調べてはいますが……」
大学で巴菜ちゃんと星加くんと過ごした昨日も、ちょうど進路の話をしたばかりだから、すらすらと自分の現状を言葉にできた。といっても、とても誇れるような状況ではないのだけれど、高嶺さんは「なるほどね」と答えて、食事の手を止めた。
そして、さっきの台詞に輪をかけて意外な質問を、私に投げかけたのだった。
「翻訳の仕事に、興味はない?」




