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油彩画・夜明けのミモザ  作者: 一初ゆずこ
第4章 たとえ世界から希望が消えても
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4-4 長い夜

 全身を襲う倦怠感けんたいかんが、浅い眠りから私の意識を引き上げた。

 カーテンの隙間すきまから射す白い光が、シーツに細い線を描いている。狭いシングルベッドで身を寄せ合っていたはずの人は、私の隣から消えていた。

 陽光をカーテンで遮断しゃだんした午前の部屋は、夕暮れ時みたいに薄暗い。バスルームの換気扇かんきせんが回る音と、窓の外で車が走る音が聞こえた。ふらふらとベッドを下りて、ローテーブルに置いていたスマホを手に取ると、液晶はメッセージの受信を通知していた。

 差出人の名前は、一文字だけ。――彗だ。

 ――『大学に行ってくる。さっきは、ごめん。澪は、ゆっくり休んで』

 返信しようとしたけれど、文字が青黒くかすんで見えなくなった。本当に血の気が引くということが、どういうことか分かった気がする。床にうずくまった私は、視界の揺れが収まってから、覚束ない足取りでバスルームに向かった。先に彗が使ったあとがまだ乾いていない濡れた床に、素足をつけてシャワーを浴びた。熱いお湯が、残りの体力も洗い流していく気がして、排水溝でうずを巻く石鹸せっけんの泡を、私は力なく眺めていた。

 ――昨夜、ホワイトソースを焦がした私たちの夕食は、電子レンジで温めるごはんと、フリーズドライの味噌汁みそしる、それからシチューの具にする予定だった野菜のいため物になった。洗い物を二人で片づけたあとで、交代で入浴を済ませてから、部屋のあかりを落とした私たちは、カーテンの合わせ目から青い月明かりが差すベッドに入った。寝返りも打てないほどせまいから、自然と抱き合う格好になって、窓を背にして横たわった彗は『おやすみ』と穏やかに言ったけれど、このときを待っていた私は『彗』と呼んだ。

 ――『今日は、何があったの?』

 ずっと、訊きたくても訊けなかった質問だった。人の死が関わっていることだから、不用意な言及げんきゅうひかえていた。壱河一哉いちかわかずやさんは、彗の古い友人で、彗のように絵筆を握る仲間だった。訃報ふほうを知った彗が、傷つくのは当前だ。

 だから、彗が自ら話すときを待ったけれど、無理をしている彗を見るうちに、私は考えを改めた。どんなに残酷ざんこくな問いかけでも、彗を変えた出来事について知ることが、今の彗に寄り添うために、必要なことだと思うから。

 でも、彗は『何もないよ』と答えて、薄く笑った。

 ――『地元には帰ったけど、お通夜つやには行けなくなったんだ。それだけだよ』

 ――『どうして……?』

 彗は、嘘をつこうと思えばいくらでもつけたはずなのに、地元に帰ったことは教えてくれた。そのうえで、お通夜に行けなくなった理由は言わなかった。きっと、私には嘘をつきたくないのに、それでも『何もない』と言い張らなくてはならないくらいに、彗は追い詰められている。寝間着のシャツを着た彗の胸板むないたに、私はひたいを押し当てた。

 ――『彗、お願い。本当のことを教えて。今日は、何があったの?』

 彗は、しばらくのあいだ黙ってから、右手で私の長い髪をぎこちなくくしけずって『何もないよ』と繰り返した。それから、一言だけ付け足した。

 ――『友達が亡くなって、寂しいだけだよ』

 寂しいだけ。その台詞せりふが、すでに嘘だ。大切な人を亡くしてつらいときに、寂しい『だけ』だなんて言い方を、昨日までの彗は、絶対にしない。

 ――『澪、明日にさわるよ。アリスさんと会う日なんだから、もう寝ないと』

 ――『彗も、寝ないと……でも、眠れないんでしょ?』

 胸板から顔を上げた私に、彗は返事をしてくれなかった。少し困ったみたいな顔で、微笑むだけだ。かなしい笑顔を見るのがつらくて、私は彗のシャツにしがみついた。

 ――『彗が眠るまで、私も起きてる』

 彗は、いよいよ困ったような顔をした。それから、ひどくはかない笑い方をして、右腕に負荷ふかが掛からないように身体を起こすと、私の身体をゆっくりと組みいた。私のパジャマのボタンを一つずつ外していく左手を、もし私が止めてしまったら、危うい均衡きんこうで心を身体に繋ぎ止めている彗が、取り返しがつかないほど遠くへ行ってしまう気がして――こんな気持ちで応じてはいけないと分かっていても、私は彗の左手を止めなかった。

 根競こんくらべみたいな夜は、長く続いた。官能かんのうは言葉の代わりにはならなくて、相手の心を引き出すことも、意地をくじくこともできないのに、私も、彗も、眠らなかった。枕元で倒れた置時計が、最終的に何時を示していたのかは知らないけれど、たぶん私は、彗より先に、気を失うように眠りに落ちた。

 一人きりの家の脱衣所で、バスタオルを身体に巻きつけて、ふらつきながら台所まで歩いた私は、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、透明なコップに注いだ。

 けれど、のどかわきをうるおす前に、力が入らない左手から、コップがすり抜けて落ちていった。カシャンと呆気あっけない音がして、コップが足元でくだけて、水が散った。しゃがみ込んだ私は、キラキラ光るガラスの欠片かけらを拾いながら、ぎゅっと唇を噛みしめた。熱い悔しさが、血液みたいに身体をめぐって、意識のにごりをクリアにする。

 ――このままで、いいわけがない。私が諦めてしまったら、彗と二人で築き上げてきた暮らしも、ガラスの破片はへんみたいに砕けていく。でも、深刻な睡眠不足で眩暈めまいがした。私の体調は、明らかに、昨日より悪くなっている。

 だけど、今は彗のことが心配だった。彗を疑いたくはないけれど、出掛けた先は、本当に大学なのだろうか。ガラスの片付けをした私は、クリーム色のトップスと水色のキャミソールワンピースを身に着けると、とにかく朝食を取ろうと冷蔵庫を開けたけれど、息苦しさを感じて、結局閉めた。今は、何も食べられそうになかった。

 こんな体調のときに、出掛けるべきではないことは分かっている。

 でも、今の彗を、私は一人にしたくない。私は、普段の倍以上の時間をかけて身支度みじたくを整えると、彗を追ってアパートを出て、強い日差しの下を歩き出した。

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